二 井伊直富殿を診た工藤平助
今日は、もう少し説明を簡単にしよう。先生も、士業殿とても吾の長い説明にくたびれもしたろう。
ご無沙汰していた工藤様の所にお寄りした。先生と同じ浜町の中なればいつでもお伺いできる、変わったこととて無かろうと思っていたのが間違いのようでもある。
工藤様は達者でいたが、思わぬ人にお逢いした。築地(の工藤邸)から仙台藩上屋敷にご奉公に上ったあや子殿(工藤平助の長女)が井伊家を辞し、今の借家に戻っていた。
先月(三月)も末に帰ってきましたと語る。
お二人を前にしてもついつい蘭学階梯の説明が長くなった。そう思いながらも工藤様が厠に立った少しの間に、あや子殿が語ることに驚いた。
去年の七月に他界した井伊直富殿を井伊家で最後まで診ていたのは工藤様だった。
候が亡くなった後も切髪した満姫(伊達重村の娘、詮子姫。井伊家では満姫)様のお側にお仕えしていたが、父を非難する屋敷の者達の声に耐えられなかったのだと言う。
薬石効なく主人が亡くなったのは工藤のせいだ、藪医者め、老いぼれめ、と父を非難する声を数多耳にしたと語る。
また、その事もあるが、十六(歳)でご奉公に上がり伊達家と井伊家で丁度十年にもなれば、職を辞するのに区切りも良かったとも言う。
彼女が最後に見せた少しばかりの笑みが、この十年の予期せぬ己自身の変転と工藤家の変転を意味しているようにも思えた。
誇る気持ちで半時(約一時間)ほど蘭学階梯を語れど、工藤様も、工藤様のご家族も息災であることを第一に良しとせねばならぬとの思いがした。
三 司馬江漢の長崎行き
四月二十三日。司馬殿を無事にお戻りなされと励まし、芝口(江漢の住居,芝新銭座側)から見送った。
蘭学階梯の序文の有り様に苦言を言い音沙汰が絶えていたから、久しぶりにお会いしていきなり長崎に行くと聞いて驚きもした。
だけど、彼の性格を考えるとさもありなんとも思う。吾の長崎遊学と蘭学階梯の発刊が負けず嫌いの彼を大いに刺激させたことは間違いなかろう。
三日前になるか、お声がかかりお会いした時に笑いたくもなる理屈を言って来た。長旅とあれば生きているやら死んでいるやらは、吾の消息(便り)がない限り他人には分らぬ。この江戸で状(手紙)を受け取ってくれる者が其方の外に居ない故に会いに来た。
四十二(歳)になる司馬(江漢)殿だけど、行くとなれば後は体力と気力の維持だ。二十歳になる弟子を伴うとはいえ三年は江戸に戻らぬといつもの大口を叩いてもいた。
自分の言いたいことを言うだけ言って、失礼仕ると言って背中を見せた彼に呆れもした。笑いもした。
行く先々に絵を書き留め、文を認めての道中ゆえ長崎到着はこの秋になると言う。