跋文を書いてくれた甫周殿(幕府法眼・桂川甫周、国瑞)には過分なお言葉を頂いた。この本(書籍)は未だ不分明な蘭学の門を開けるものにして蘭学こそ有用な学なり、子煥(大槻玄沢)が編纂の労をとった、と良沢先生の労を超えて評価してくれている。
また、仕事の傍ら吾の今の芝蘭堂にも学び内治(内科)の書の翻訳に力を入れている晉(津山藩・侍医、宇田川玄随、字は明卿。玄沢の一つ年上)は、どうして和蘭語を放っておく。耳もかさない、見もしない。如何して如何して、乎、乎、乎、乎、乎、乎(疑問・反語)と世の人々に問いかけながら、和蘭語の教えていることが実に大切なのだと書いてくれた。
細面にして色白で普段は言動に柔和な彼が声を大きくした。必ず象胥(通訳官。蘭学階梯に周の時代の官名、象胥とある)の必要とされる時が来ると書いてくれた。この書(蘭学階梯)を世間に問うにも、また、普及にもこの上ない跋文だ。感謝している。
朽木侯と同じに序文を認めてくれた萩野信敏殿は末尾に「出雲侯人江都孔平信敏識」と記した。最初にその序文を手にした時、えっ、と思いもした。「侯人」は藩主、御大名と覚えているゆえに「出雲侯人」とあれば松江藩、藩主、平信敏とも読める。
されど、萩野殿の置かれた立場を考えるほどに納得もした。そもそも吾が序文を書いて下さるようにと願い出たのは松崎様を通じてお殿様(伊達重村)と、朽木候(朽木昌綱)への依頼だ。それが、お殿様から松江藩、藩主、松平治郷侯に飛び、治郷侯から書けと命じられた萩野殿が、序文をもう一人、福知山藩、藩主・朽木候が書くと知って出雲侯人と認めたらしい。
後で知り得たことであるが、本人は江戸定詰の三百石取りで江戸の一隅に住むとて江都孔(孔=ムジナ=一転して一隅)とし、己の平姓にしたのだろう。
士業殿(杉田伯元)から萩野殿は(天真)楼に何度かお顔を出している、馬田(清吉)殿の講義をもお聴きに来てもいる、見れば、ああ、彼かと思いますよ。今度にお顔を見せたときにお知らせしますとお言葉を頂いている。
萩野殿の序文は少し長いけれども、その内容を一読して感心させられた。吾の知らなかった隣国の事を引き合いにしてこの蘭学階梯に学べと語る。朝鮮李氏、第四代国主・金世宗が民のため国の繁栄のためにと難しい志那(中国)の文字(漢字)に代わって今の文字(ハングル文字)を作成したときは、当初、臣も民もこぞって批判をしたのだと言う。
その例を示し、未だ未航海の路と雖も奥人の子煥、豪傑の士なり、蘭学を良くし、ここに蘭学を学ぶ基となる蘭学階梯をまとめた、吾こそ世のため人のためと思う者はこれに学べ、徳を積むものにして国を豊かにしていく書だ。翻訳は欽遵の業なりと書き現してくれた。感心するとともに、感謝するしかない。
和蘭鏡を天真楼社中の中で使うようになったのが、天明三年(癸卯、一七八三年)の冬だ。此度の発刊が天明八年とても吾の頼んだ通りに朽木侯初め皆々が「蘭学階梯は天明癸卯(天明三年を指す)之冬」と記してくれた。
(当時の書の発刊に当たっては、年号、訓読みの干支の後に○○月と、識(書いた)した「月」を表すのが通例である。)
朽木候が序文の最後の行に記してくれたように家塾を繁栄させていくのはこれからだ。世間に蘭学階梯を生かしていくのはこれからだ。それでこそ亡き清庵先生(二代目建部清庵由正)の語る今の世の士、豪傑にも本当に成りうるし、また大いに参考にさせていただいた蘭化先生の労苦をも世に生かせる。