先生に学んだ者が、日夜研鑽してあの解体新書や瘍医新書を世に現し、和蘭の薬屋、薬の種類から八刺精要(輸血)、底野迦(解毒剤)、五液精要(内科)、西国の略説、地図などの翻訳本を発刊した。天文、星の有様や現象、及び内外治の治療技術等に掛かるものまでも翻訳した、真似て造った医療器具等々も数えたらキリがないと書き現した。
今日、和蘭本とその翻訳の隆盛を今の世に見て諸国から江戸を目指す才子(優秀な人)は多い。天真楼(社中)に留まって学ぶ者、藩邸や借家等から(天真)楼に通って学び、質問する者が多く居るとも書いた。
そして、世の中を救わんと思う者、意思をもって蘭学を習得しようと志す者に、この書(蘭学階梯)は学ぶための近道となろう。それは正に国家の裨益(利益)に繋がることだと認めた。
素直に言う、良沢先生の偉大なことを改めて書き記しながら、ついでにこの項の最後に吾の書の宣伝もしておいたのは確かだ。
「禦侮」の項は読んで字のごとくだ。攘夷の説(異国の説)だからと医学においてもその外の事においても、内容も知りもせず排斥すること無かれと声を大きくして訴えた。
碩学の先生(大学者)と言われる人でさえこれまでに得た権益の保護ばかりに捉われて、蘭学の教えの良きところも知らずして改めようとしないのは大笑すべき事だ。
玄白先生が懇意にしている阿州(徳島県)の儒学者柴野栗山先生は孔子の教えの一節を引用して、「柯を以って柯を伐る、その則遠からず」と、人が他人の理解を深めよ、さすれば改めることも出来ると語る。吾の大いに感ずるところのあるお言葉だ。
「勧戒」では、蘭人の言うところの「天地の間に生をうけ飲食をなして生命を全うす。然れども飲食のみをするために生を得くるに非ず」をカタカナで書き現した。
「メン。ムート。エーテン。オム。テ。レーヘン。マール。ニート。レーヘン。オム。テ。エーテン」。
その意味するところ、ただ食べるだけに生きるにあらず。それぞれが職を持ち、その職に懸命にして天下国家、後世の人のために役だつ功績を立てよとの教えを含んでいる。
単に和蘭の物や教えを慕い羨んでいるのではない。吾等仲間はその考えに秘かに賛同しているのだ。
吾は幸い和蘭の原書を読む道を得たれば、今に翻訳を業とせんと勉強している。
(「人はパンのみに生きるにあらず」と読者の皆さんはご存知だ。二百四、五十年も前に和蘭から入ってきた本のこの項を読み着目して、大槻玄沢が右の通りに翻訳していることに驚くー筆者。なお、蘭学階梯にあるカタカナ部分を英文字にしようとずうずうしくもオランダ大使館宛に英文字をにしたらどの様に書くのかと綴りをご教授を願ったのですが、回答を得られませんでした)
かつて、新井白石先生が、慶長年間からの異国船との交易で我が国が失った金銀銅等は夥しく、我が国のために使うべきそれ(金銀銅)が枯渇して今後百年千年経って日本の世は如何なると大いに嘆息している。しかし、今に和蘭の齎している天文、地理、測量等に掛かる品々、書籍、及び吾が関係する医術に関する類の物は実に詳しく世のため人のため民生第一になる事だ。
故に吾等は和蘭の教え(学)を支持する。そして、その書籍等の翻訳が出来る(成就)とあれば、今後、和蘭との交易が絶えることがあったとしても、その書、その教え(学)を世に広めることが出来る。吾自らがその役を果たさんと思う。
それをもって聊か(少し)でも人々の助けにならん(なろう)、国家繁栄(昌平聖恩)の一つの基になればと思っている。
次巻(下巻)は蘭学を学ばんとする者の初学に役立つはずだ。学習の方法とて整理したら十六章にもなった。「文字」「数量」「配韻」「比音」「訓詁」「轉釋」「修学」「譯辤」「譯章」「釋義」「類語」「成語」「助語」「點例」「書籍」「学訓」である。
和蘭語の「文字」は僅か二十六文字、日本のいろは四十八文字というがごとしだ。これに数量を示す字が九つ、併せて三十五文字が基本になる。
書き現し方は、左から右に文字を連ねて書く。文字を「レッテル」と言う。同じ文字でも三通りの書き現し方がある。A、a、αだ。Aは物の頭に使い,αは書き綴りの中で使われる。
「数量」を示す文字は二通りあるが、双方とも「セーヘル・レッテル」という。
「セーヘル」は算計(計算)の事だ。零点(0)あり。併せて十字だ。1、2、3、4、5、6、7、8、9、0
十は1に0を加えて「ていん」、百は1に0を二つ加えて「ほんどる」、千は1に0を三つ加えて「どいせんと」と言う。十千、十萬、百千萬皆0を増す。勿論それぞれに読み方がある。