「通商」の項には、和蘭人との通商は平戸に船が来た時に始まり、長崎港に交易の場を移しても百四十三年、都合三百年にもなるのだとその縁の浅からぬことを書いた。
「稗益」では、和蘭人が我が国にもたらす功益は少なからずと、今の世の人々の身近にみられる品々を挙げてその理解を求めた。自鳴鐘、千里鏡、起器の類から、具合が悪いとて世話になっている薬物に泊夫藍、ウニコウル、木乃伊、底野迦(解毒作用のある軟膏)等が有ると書いた。
砂糖や胡椒の類、羅紗やモウル、天鵞絨なども和蘭からだ、数え挙げたらキリがないとも書き留めた。
医術においても、志那の教えるところよりも和蘭の教える医術が優れていること明らかで、内科にも外治(外科)にも既に我等はその恩恵を受けている、和蘭医術は国家の鴻益(大きな利益)だと認めた。
「精詳」には、和蘭がもたらしているものは医事のみならず天文、地理、測量、暦算等の諸術に及び、その法、その説は精詳(詳しく)にして簡便なり。我が国の稗益となるべきものを皆捜し出して書に編む(書にまとめる)べきだとした。
万国の良きところを取り入れようとするならば彼書を読むに如くはなしだ(洋書を読むべきだ)。また、その書の教える良きところを取り入れれば我が国の得る成果、利益(稗益)は間違いない。
「慕効」(慕いならう)の項には、この百有余年、和蘭の良きところを取り入れようとする人は多く居たけども、その前に利を貪り、手にしたものを自慢するだけで己の(我が国の)短所を補おうとの心の無いことは甚だ残念なことだと認めた。
実際、見ることの稀な珍しき物、珍しき薬、些細な物までも和蘭の物だと称して利を貪る者は多く、手にしたものを並べ連ねて自慢している。また、和蘭好きと語る人の多くは金持ちにして器械や書画を高いも安いも構わず欲しがる。情けないことぞ。
「興学」では、将軍家が延享の頃(一七四四年~四八年の頃)に蘭学を学んで来いと青木昆陽に長崎行を命じた。昆陽は通詞(訳家)の吉雄(吉雄耕牛)、西(西善三郎)に学び、江戸に戻って和蘭語,その訳、文法等について書に著すも宿志を達せずに亡くなった。されど、今の世の蘭学隆盛の基になったと蘭学勃興の歴史を記した。
「立成」には、「一切の道、草創期の人のその艱辛労苦を思いやるべき事なり、吾よりも古に為す(自我作古)の業は難しき事なり、今日までの二百年余、事を起こさざるも宜なし(やむをえなかった事)」と記した。
今の世に、医術、天文、地理等々、和蘭の書の教えていることは大事なことだと人々は分かってきた。そして今、それを翻訳する力をもった人材が必要とされている。
振り返り歴史をたどれば、和蘭の書の読解のために先人達が如何に大変な思いをしてきたことかと思いが行く。故にこの項に、特に前野良沢先生の事をこまごまと書いた。
和蘭語習得に掛かる先生の労苦を一通り書き、そして、この書(蘭学階梯)の序文や跋文を書いた皆々が先生に教えを頂いた、頂いているのだと記した。
それで良沢先生が今の世の蘭学における第一人者であることを世に周知するとともに、序文の筆耕を良沢先生から朽木候等に譲ったことを心からお詫びしたつもりだ。
何時か工藤様がおっしゃったとおり、吾にとって蘭学の師は蘭化(前野良沢のこと)先生をおいて外にない。
江戸も南になる鉄砲洲という所に中津藩がある。蘭化先生はそこの侍医(藩医)だと先生の身を明かし、もって生まれた先生の資質は優れていると書いた。
蘭学に理解のある藩候(主)の指示を得て先生が二度に渡って長崎に遊学したこと、長崎の通詞が家にあった秘蔵の和蘭訳辞の書、医術の書を譲り請けて江戸に持ち帰ったこと、異人(マーリン)の書いた書を片手にその後六、七年もの間独学し、漸くに和蘭の書の翻訳が出来るまでになったと認めた。
そして、先生はこの二十五、六年余の間に和蘭語の手引書になる和蘭訳文、和蘭訳詮等々を物にし、日本人が未だ知らなかった彗星や欧羅巴地図等の類から天文、地理、及び医術、算術、測量等までもの書籍を紹介した、翻訳した物の枚挙にいとまがないと書いた。
また、先生の下に学んだ者に、世間に良く知られている尾藤二州先生や杉田玄白先生、中川淳庵、桂川甫周、朽木昌綱、嶺春泰、桐山正哲、有阪其馨から宇田川玄随や司馬江漢等の各先生に、吾までもがそうなのだと明かした。