六 杉田登恵の死、柴野栗山
一月十一日、官途要録に御番医師昇格と記す。いつも通りに芝口の医者溜まり(仙台藩上屋敷)に顔を出すと、並医師から御番医師に昇格だと告げられた。
さて、どうしたものか。御番医師とあれば勤務の形態が日勤、時には泊り番、他の医師仲間との連携がより必要とされる。
俸給を頂いている身だが、仙台藩に身を移すときに今の江戸定詰と外宅を望んだのだ。それらをお認め下さったのも藩の理解と承知があってのことと今の今でも思っている。
吾は蘭書翻訳が専一の本業と心得ている。それゆえ、正直、困った。昇格よりも、本当は翻訳に専念できる環境の確保の方が大事なのだ。
されど、今以上に何か申せば、藩からも同僚(医師仲間)の皆さんからも反感を買うだろう。我儘ともとられかねない。
一月二十日。驚いた。突然の死に先生の心は如何許りだろう。知らせに来た小者から聞いても信じられない。
年始の挨拶に伺った時にはお元気なお顔を見たのにと思い出される。駕籠を降りるときによろめきもした。
先生は、寝込んでいたわけではない。流行り病に油断したと語る。花に飾られた御仏壇を前に、さゑ様も気の抜けた御仁のようにぼーっとしている。泣くお扇さん(十五歳)と八曾さん(八歳)に掛ける言葉とてない。
皆様の肩を落とした喪服姿が痛々しい。四十三歳、登恵様の全くの突然の死だ。
御仏前に焼香を済まして、ふと、気付いた。有坂さんの姿が見えない。
「有坂さんに連絡は?」
「はい、先に三田(伊予松山藩、中屋敷)に連絡を走らせております。まだ御姿を見ることが出来ておりません」
書生の応えを聞きながら、有坂さんの今を想像した。さぞ、忙しい身にあるだろう。藩邸を抜け出して来るとて容易では無かろう。
それからに、有坂さんからかつてお聞きした登恵様とのお二人のことを思い出した。
「四歳と六歳、江戸での生き別れだ。両親が立て続けに病に倒れ命を落とし、何も知らずに姉(登恵)は喜連川(現、栃木県さくら市)に下り、吾は信州山の中、辰野の父の生家に引き取られた。
姉も私もそれぞれに人に言えぬ苦労をした。いや、姉が居たことさえ忘れていた。
それ故に姉から結婚した、杉田玄白と言うお医者様だ、其方を呼び寄せても良いと承知してくれたので江戸に来るかとの状(手紙)を受け取った時には、嬉しさのあまり後先何も考えられなかった。直ぐに飛んで来た。
若狭国小浜藩の藩医にあるお方だと状にあった。吾は育ったそれまでのことを思えば何でも耐えられる。医学を学ぼう、医者になろうと江戸に向かいながらその時に決心した。
玄関で迎えてくれた姉は神様にも見えたよ」、と言った有坂さんだ。
登恵様は、決して身体の丈夫では無い先生を助けるために何時も食べる物に気を使っていた。また時々先生の代筆をして、休んで下さいと労わっているところを見たこともある。
吾が書生となったのは先生が解体新書を世に出して既に有名人となっている時だ。それゆえ来客者の多いのに驚きもした。
碌に知りもしない寄宿生が増えて続けていた、そのような時にも、登恵様は陰で何かと先生を支えていた。他人の面倒を良く見ていた。
吾と吉甫が書生生活を大きな難も無く務め上げられたのも陰ながら登恵様の支援があってのことだ。吾とて人知れず枕を涙で濡らしたこともある。その様なときにも、聞き役に回り、そっと優しく包み込んでくれたのも登恵様だ。思い出せば、限もないほどの御恩だ。吉甫(士業、伯元。この時お扇の許嫁)とて同じ思いにあるだろう。
江戸市中にも有名となった先生の奥方様の葬儀とて、患者として診てもらった方々は勿論のこと、各界各層から御焼香に訪ね来る人は絶えなかった。
やっとに落ち着きを戻したばかりというのに、今朝(二月五日)の瓦版屋の記事に驚かされた。一月三十日、京都が大火に見舞われた。皇居・二条城炎上。天子様(天皇陛下)は下賀茂、聖護院に難を避けたとある。
士業(伯元)は無事か。小石殿は?。
浜町の先生宅に寄った。
「如何なっているか心配じゃが、遠く離れてもおれば直ぐに知りようもない。
登恵の死を知らせたばかりに、伯元からは、小石殿の医術も大部に教えいただいた、修得したとて二月も半ばにも京を発つ、江戸に戻ると月初めの状にあった。
どうも、火事はその後らしい。状には火事のことに一言も触れておらぬ。
二十四、五日には伯元の姿をこの江戸で見ることも出来よう。
嫌なことの続く世なれば気も滅入るが、伯元が戻るとなればそろそろにお扇との婚儀の準備を進めても良かろう。
登恵のこともあればに大事に構えられぬが、伯元も愈々に医者としても成り立てばいつまでも許嫁のままというわけにもいかぬでな」
二月二十三日。士業(伯元)殿が京(京都)から帰ってきた。
早速に知らせが入り、夜に浜町を訪れた。
士業殿は栗山先生が江戸に呼び出され、先に京を発ったのには驚いたと言い、その後、小石殿の所でひたすらに医の実技の教えを学ぶだけだった。しかし、得る物すべてが御役に立ちましたと語る。
聞きながら先生(玄白)は始終笑顔だったが、小石殿の元衍の草稿が灰に帰したという報告には先生も吾も言葉を失った。
京の大火は小石殿が旧友に頼まれて能登の七尾に往診に出かけている最中に発生した。誰も倉庫に元衍の草稿があると知らず、持ち出せなかったと語る。
大事に大事にと、小石殿と真狩殿が元衍の草稿を首に掛けて江戸に来たという日のことを思った。学んで来たことを如何に書にまとめおくべきか。次の世代に引き継がんがための作業の大変なことを知る故に他人事ながら驚きとともに肩を落とす話だ。
小石殿のこととて、もう一度、大作になる草稿のまとめに挑むと思うが・・・。
(その後、小石元俊は再稿に取り組むも遂に完成を見ることなく他界する)。
その後に、先生は士業殿と吾を前に柴野栗山先生との近況を語った。
「栗山殿が江戸に来られてからというもの、吾は度々に駿河台(神田駿河台)の屋敷を訪問しておる。
先生の脈を診ながら、越中侯(老中、松平定信)の事、諸国とご時世の事、江戸の事情、異国とのかかわりなどなど話は尽きない。
彼に寄せられた幕府の課題は、聞いていてもかなりに大きなものぞ。そのせいで栗山殿も多忙を極めておる」
語る先生とて診察を乞う町人や商人、御大名が日に日に増えてもいる。好きで描く絵に親しむどころでは無かろう。まさに今、先生は俗にいう流行り医師だ。
(天真)楼の塾生も年々増加の一途にある。診療、往診に塾の経営、先生は益々忙しい。そこに天下のご政道にも関わるお方等とのお付き合いとなれば殊更に身体の休まる日とて無かろう。
「先生、くれぐれも御身体を大事にしてくだされ。
そしてまた、変転の激しい世ゆえ今後とも伯元(士業)殿や吾等の行くべき道をご指導くだされ」
「うむ。医学、天文、地理、測量、あらゆる面において欧羅巴、異国に学ばねばならない時が来ておるからの。蘭学が殊に必要とされる時代じゃて。
栗山殿との縁も深かれば、これを機に熟生、社中の人々の活動の場を求めて、その場を広げていかねばと思っておる。
上手くいけば良いがの」
先生の身体は細く小さいが、その姿はますます大きく見える。