母上が、今日見て来た三河万歳の話をする。お京とお富が口に泡を飛ばして猿回しの事を話す。

 留守番役を引き受けてくれたお通さんと、その子等の土産にと思案しながら途中の帰り道に和菓子屋を覗いた。結局、腹を作るだろう、満たすだろう、育ち盛りの子等だと考えて、正月なのに団子と紅白の(あん)(もち)にした。

 お礼を述べて帰ったお通さんは、今頃、子等と満足してくれたろうか、食べていてくれるだろうかと思いながら吉の淹れてくれたお茶を口にした。

 そろそろお休みになってはと母上に言うが、構わずにまた三河万歳の話を続ける。よほど気に入ったのだろう。

「今頃、寒い中だども、鬼剣舞を見るっぺ(見れるだろう)。

(おら)の小さい頃(生家)はすぐ近くが北上だべ(でしょう)。

 正月は、おど(父上)とお袋(母上)に連れられで、よぐ見に行ったものだ・・・」

 湯飲み茶わんに目を落としたまま語る母上の姿に、田舎から連れてきて良かったのだろうかと、ふと思う。望郷の思いでいるのだろう。

 そう思うと、そろそろにお休みになってはと声をかけにくくなった。

 今日の事どももまた(官途)要録(日記)に記す必要はなかろう。

 

 七日、夜。七草粥に家族、使用人皆が胃を良くした所へ、先生が松栄の差し出す提灯の明かりを頼りに態々(わざわざ)訪ね来た。

「お声があればすぐにも駆けつけましたのに・・・」

「うむ。ふと思いついたでの、そうとあれば、居ても立ってもおられぬ吾の性分と知っていよう」

 部屋にご案内して、床の間を背にお座り頂いた。

 直ぐに話し出した。

「明日(八日)に柴野栗山殿が江戸に到着する。

空模様が心配じゃが、草鞋を脱いで一息ついたであろう明後日(あさって)にはご挨拶に伺うつもりじゃ。

 長崎に行く途中、吾の状を届けてくれた故に栗山殿を知っていよう。

伯元も京にてお世話をいただいておる。

 お礼を申し上げるは勿論のこと、伯元が江戸に戻ってからも引き続き何かと面倒を見てもらいたいと思っての。一緒に其方もじゃ。

 其方を、改めて紹介せねばと思っておる。

(まつりごと)は知らねども、西洋の書に諸々学ぶ時代が来ておる。ゆえに翻訳が出来る者、蘭学に詳しい者が幕府にとっても必要になるはずじゃ

 幕府に呼ばれた柴野殿とのご縁を大切にしておけば、其方も伯元も何かとお国のために役に立つ機会が来ようと言うものじゃ。

この老いぼれは近くに住む橋本殿(橋本雪渓)に凡そ一年前から絵の手ほどきを受けてのんびりもしているが、其方達はそうはいかぬでの。これからの人材ぞ」

 明後日あさって)に先生が栗山先生のお屋敷を訪問し、その後で、栗山先生の都合の良き日に合わせて先生に馬田殿、吾とで一緒にご挨拶に参ろうとの相談だった。

 ふと思いついたではあるまい。だけど、何処までも子弟を思ってくれる先生だ。感謝以外の何物でもない。

(杉田玄白の日記、鷧斎日録には正月十二日、夜。栗山先生宅集とある。なお、玄白は一年前の天明七年三月二十七日の項に、「雪渓へ画頼」と記している)

 その後にも、少しばかり驚くお話をお聞きした。先生が小浜藩の藩医となったころに栗山先生は江戸に居た。湯島の聖堂で儒学を学んでいた。栗山先生の奥方様は小浜藩藩士、藤田(ふじた)(よし)(とも)殿の娘(二女、阿順)だと語る。

 また、元は小浜藩家老の家の出の元俊殿と栗山先生とは古くからの知り合い、二人は友達の間柄だとのお話だ。

先生に栗山先生、小石殿、またもや小浜藩に関係していた。

 先生の御用件が一段落ついたところで、陽助を呼んだ。

「お初にお目に掛けます。弟の陽助にございます。

凡そこの一月(ひとつき)、田舎から出て来たばかりとて骨休めをさしてございますが、そろそろに身の置きどころを決めねばなりません。

一関においては(建部)清庵先生の所で四年ほど医業の手ほどきを受けております。

 まだまだ未熟ではございますが、先生の所に通わせていただけないでしょうか」

 うん、うん、と首を縦に頷く先生だ。吾にというより陽助を見ながらだった。

「明日からにも天真楼の方に通うが良い。ここにおる松栄が何かと世話をする。

寮の方に空きがなければに、通いで良いかな?」

 先生の語尾は吾の方に向けられている。十分なお応えだ。

「勿論のこと、是非にそのように」