四 芝蘭堂の謂れ
見る中津藩の新しいお屋敷は、火事の焼け跡を消していた。
「いつに戻った。平助から急遽、其方が一関に帰った。御母堂等を迎えに行ったと聞いてはおったが?。
其方が(仙台藩に)籍を移した後も一関藩の屋敷を借家にしておったのでは、母上等もさぞ肩身の狭い思いをしていたであろう。
平助らしい。思い切ったことを其方に教えたと聞いたが、その顔を見ると首尾良くいったようじゃな」
「はい。今日は、老母に妻子等を無事に江戸に連れてきたとご報告に参りました。四日前に戻りました。
また、凡そ一年も過ぎたれば、何かとご支援を頂いている幽蘭堂の今の運営状況をご報告させていただこうかとも思います・・・。
「幽蘭堂は其方の塾じゃ。吾に報告など要らん。
御母堂初め、田舎から来た者は達者か?」
「はい、お陰様で母も妻も子も、また、付いて来た弟も使用人も元気にしております。
蘭語教授の場、家族の面倒を見る場とて今の住まいを探し当てましたが、いざ家族が揃うと途端に今の屋敷では手狭と分かりました。また、また、引っ越しを考えねばと頭の中にございます。
されど、塾の(運営)状況はとなると・・・」
「ハハハハハ、世の人を相手に蘭語の塾を運営していくというのもなかなかに厳しいものと知ったろう。子供らを相手にする筆学所(上方では寺子屋)とは違うでな。
じゃがの、今が我慢のしどころぞ。医学だけでなく天文、地理、測量から日々の生活の有り様まで他の国に学ぶ時が来た。
平和の世なれば鉄砲、刀の時代ではなくなったが、次に若しもの時に藩主の手にする武器はとてつもない威力のある大砲、大船、それも鉄の船等々と、あの長崎に行ったときに知ったであろう。
阿蘭陀語の出来る其方や長崎の通詞を欲しがる御大名が今にあちこちに増えておる。武士であろうと商人、農民であろうと世の中に志を持つ者が異国の語を学ぶ時代が来ておる。学ぶ塾が必要となる時代が直ぐに来る。
平助も言っておったぞ。あちこちの藩で藩校を作り出した、武士に限らず門戸を広げ人材育成を計る場を整備し出したとのう」
「はい。その様にお聞きしてございます」
「吾の和蘭訳筌も其方の和蘭鏡も、今に医者仲間、武士の内で評判をとっているが、今度はそれらが世の中に広く知れ渡るのだ。
蘭語を学ばんと通う者が段々に商人、職人、農民までもと増えもしよう。何事も、手を付けたとて最初から上手く行くとは限らん。辛抱、辛抱。
そう言えば、其方の幽蘭堂、塾の名を芝蘭堂と変えたらどうじゃ?。
其方を含め、吾の所に通っていた者達がこの屋敷を芝の蘭塾、蘭堂と呼び、看板が無くとも芝の芝蘭堂と呼ぶようになっていたではないか。市民の間にも外国に学ばねば、蘭語を学ばねばと言われるようになって、いつしか江戸の市民までもが蘭語指南と言えば芝蘭堂と言う。
芝蘭堂は、ここで学んで来た者にも江戸の市民にも少しばかりのことだが覚えも聞こえも良い。其方が誰もが蘭学を学べる所を目指すと言うなら、其方さえ良ければ幽蘭堂を芝蘭堂としたらどうじゃ?。
吾の所は今まで通り内々に学びたいと来る者を相手にするゆえ芝蘭堂とは言わぬ。単に蘭堂でも、蘭語教授所でも良いのだ。
今まで通り看板も掲げぬ。
其方の所に芝蘭堂の看板が出れば吾の所に通い来る者も、また市民とてもおのずとここを芝蘭堂とは呼ぶまい」
お側に控えていた達(前野達、前野良沢の長男)殿も、先生のお言葉に賛意を示して頷いている。己の顔が紅潮してくるのが分かった。
吾等仲間、先輩が良くに学んだ塾、吾が通った塾、看板が無かったとても芝蘭堂だ。先生のお住まいが芝にあればこそ、ここにあったればこその芝蘭堂ではないか。
「大変にありがたい申し出に存じます。なれど、この屋敷で蘭語を学ぶ、芝で蘭語を学ぶ処とてその名の所縁も分かるのですが、吾が引っ越して・・・」
「ハハハハハ、其方さえよければ、何処にあっても芝蘭堂は芝蘭堂で良いではないか。
確かに吾の住まいは芝、芝口といえば芝神明町、芝大神宮、芝の大門、芝の増上寺と芝が付く。
されど、芝はそれだけのことではないぞ。芝は霊芝、蘭は蘭じゃ。孔子の教えに「興善人居、如入芝蘭之室」というのがある。良き人と居れば良き香りの霊芝、蘭の部屋におるがごとしで、良き人の所におればその良き人に感化されるというものよ。
その教えを知ればこそ、看板を掲げずとも人々が芝蘭堂、芝蘭堂と呼ぶに内心満足していたところよ。
良き師の側にこそ優れた人材が育つというものじゃ。己が良き師であらねばとの戒めでもある。
何処に在ろうと芝蘭堂は芝蘭堂で良い。其方が遠慮すると言うなれば別だがの」
赤面した。身体が熱くなってきた。己の無知、不勉強以外の何ものでもない。
[付記]小生浅学の身で御座いますけれども、大槻玄沢は芝蘭堂の名を前野良沢から受け継いだと考えました。
芝蘭堂は大槻玄沢が看板にする以前に有った。杉田玄白の蘭塾だったという説があります、しかし、杉田玄白は芝の地から離れた日本橋も大川沿いの浜町にあり、また当時、玄白の塾は天真楼塾、別名、三叉塾と呼称されており、それ以上の塾名を必要としたでしょうか。また弟子と言われ方々の記録、日記等には芝蘭堂が杉田玄白の塾と証拠だてる記述は見当たりません。
一方、大槻玄沢の幽蘭堂はほどなく消えております。そこに何が有ったのか、玄沢が看板を芝蘭堂とするに何が有ったのか、それを考えに考えて蘭学塾が全盛期を迎える前は如何だったのかと思案を巡らしました。
玄沢が看板を芝蘭堂とする以前に確かに芝蘭堂は有った。その芝蘭堂は何処にあったか、誰が運営していたのかと考えて、素直に前野良沢が塾だったと結論付けました。
その理由は、蘭学の全盛期を迎える以前、あの解体新書を作るに当たって蘭書の翻訳のために中川淳庵、桂川甫周、杉田玄白自身も通い、学んだのは芝にある中津藩の前野良沢が屋敷でした。看板が無くともいつしか芝の蘭所、蘭学を教えてくれるところ、通称で、芝蘭堂と呼称されていたと考えた次第です。
芝にあった前野良沢の蘭塾をいつしか芝蘭堂と学ぶ、皆が呼称していたという記録、日記等も発見されておりません。しかし、解体新書が出来る以前から蘭語の翻訳の仕方を教える和蘭訳筌を表し、淳庵、甫周等に教授していたことを考慮すると、看板を掲げていなかったとしても通う皆さんが芝蘭堂と呼称していたと理解するのが最も素直だと思います。