三 蘭学階梯の序文に萩野信敏
「藩の恥にも覚えることにあれば、決して他言無用」。
先に付されたあの言葉を思い返し、多くに世話を頂いている工藤様の前と雖も口を噤んだ。また、後々のことも考え、吾とて(官途)要録に記し置く(残す)ことも控えた。
あの松崎様の所での長逗留。その折に、松崎様から吾にとってもう一つ大事なことをお聞きした。
「蘭学階梯の序文の筆耕、其方の希望通り藩侯(伊達藩、第八代藩主・伊達重村)に申し上げた。
吾が侍医に蘭学に長けた者がいる、自慢出来ることよと、侯は其方の長崎遊学のことを覚えておいでになってことのほかお喜びだった。
しかし、侯は、今に吾が序文を書くは適当で無かろうとのことだった。草稿が出来た年、「天明三年癸卯」といえば大飢饉の年、ましてやその年の冬とあれば領内にて餓死する者が多く出た時期。
その時に在って藩主がのうのうと書の序文を書いていたというのは、成った書籍は目出度くも、噂となればかえって水を差すようなもの。時期が時期ゆえ誰とて、良しとはしなかろうということだった。
侯は、吾と親しき藩主に書いてもらうが良かろうと、松江藩の松平治郷殿の名を挙げた」
あの時、松崎様はその理由を続けた。吾の知らぬことだった。
「治郷侯は吾が藩先代、宗村侯(仙台藩、第六代藩主・伊達宗村)の御息女(九女、静姫、方子)を正室としておる。
江戸に在りながら厳しかった松江藩の財政を立て直し、今に幕府からも一目置かれておる御仁ぞ。
谷風の内弟子になった関太郎吉を其方も聞き、知っておろう。信州の出(信濃国小県郡大石村。現、長野県東御市大石)で谷風に次ぐとも評判なれば吾が藩で抱えるがもっともなことよ。
されど、それすらも財政事情が許さんとて好角家と知られている治郷侯に委ねたのじゃ。今に、雲州ゆかりの「雷電」の四股名が取り沙汰されておる。
その治郷侯が、興味は多く有れど吾に蘭学の知識なく、吾が侍医に和蘭医学を学ぶ者と言えば萩野信敏。そう語って序文の筆耕を江戸定詰の萩野殿に委ねたとお聞きした。
間もなくに萩野殿から其方の方に(序文が)届くであろう。驚かぬように。吾が侯の思案があっての事ぞ」
あの時、萩野信敏殿の名を初めて耳にした。萩野殿がどれほどの蘭方医なのか気になりもしたが、吾から松崎様に聞くことでは無かった。
「御配慮、忝く存じます」
とのみ申し上げた。