翌日。先生宅に先にお礼に伺い、長居をせずその足で工藤様宅へ出向いた。
「今、先生が所(玄白宅)にお寄りし、老母に妻子、弟、家族ともども無事に江戸に着いたとご報告してまいりました。
此度の家族の江戸上りは工藤様、仙台に在った松崎仲太夫様のご支援、教えが無くば実現しなかったともお話してまいりました。
深く感謝申し上げます」
「うむ。無事に戻れた顔を見れば一安心よ」
「教えの通り、直ぐに江戸を発ちました。
藩の許しもなく江戸を離れたのですからお咎めがあって然りなのですが、再三再四に渡って引越しの許可願いを出していたこと、田舎に在る老母が介抱を要する身であること、吾を良く知る工藤様、松崎様のお口添えがあったればの事でした。
仙台に在って、松崎様を通じて本藩に直接に願い出なければ、家族の引越し、江戸上りの許可が無かったやに思います」
「さすがに松崎じゃて。今度のことは平賀(平賀蔵人、仙台藩江戸奉行)にも内緒にしてござったろう」
「九月二十一日に意を決して江戸を発ちました。吾一人とて馬に辻駕篭を使い二十六日には一関に着きました。
老母の病の様子を診て、それから己一人一関を発って(九月二十九日)、十月朔日から松崎様のお屋敷(仙台百騎町)に長逗留させていただきました。
引越し許可を本藩に直接に願い出て、やっとにお許しが出たのが二十五日になります。その翌日には嬉しくもあり、早速に一関の諸事万端を片づけ十一月も九日には仙台を発し家族ともども江戸に上ると藩に申し出ました。
ところが二十九日(十月)になりますが、一関に戻ってみますと母の持病の神経痛がひどい有様で五、六日は養生させなければなりませんでした。
慌てて藩に出立延期のお許し願いを出す始末でした」
十一月三日には仙台から一関に早飛脚が来た。伝馬五疋の通行印判と引越料とて十六両二歩が下された。何故に十六両二歩なのか分からぬ。されど、江戸上りが公に許されたことに大きな安堵を得た。
「結局は十一月も十七日に家族ともども一関を発ちました。十九日の夜に仙台に到着しております。
松崎様のお口添えがあってその夜は勘定方の遠藤弥平様方お屋敷に逗留させていただきました。
丸一日一休みし二十一日には仙台を発つ予定でしたが、何事も予想だにしないことが起こるものでございます。たまたまに二十一日が月番(藩士が一カ月交代で役宅に勤務する)に当たっておりました。お役人様方の役務交代の取次がある日ゆえに出立は二十二日となりました。
ご承知のように、東通り(太平洋沿いの道。亘理を経て勿来関を超え、水戸街道から江戸への道)を上って参りました。
十二月も六日にやっとのこと家族ともども無事に江戸の土を踏みました。
此度の事が首尾よくいきましたのも松崎様、工藤様の教えによるもの、その賜物でございます。
この御恩、一生忘れることはありません。誠にありがとうございました」
「江戸にても国許においても侯のお側に仕える松崎が国(仙台)に帰っていたことが良かったかも知れないの。
その松崎が江戸に居らなんだが、吾の方にも良きことがあっての。あや子の縁談話じゃ。
江戸詰めの藩の家中に磯田藤助という御仁が居ってな、吾はその者と懇意にしておる。その磯田殿の従弟が小浜藩の酒井家に仕官しおって、仲間内に室(奥方)を亡くされた御仁がいる、良き縁があればと相手を探しているとの話じゃった。
子は三人。酒井家中で今は江戸詰めだがいずれ国許に帰る、あや子の相手にどうかと話が出ておる。歳が二十近くも離れているが、あや子次第じゃ。
しづ子(あや子の妹)の方にも別に縁談話がある故、出来れば先にあや子を嫁がせたいと思ってのう。順番が逆であや子の婚期を逃してはならぬと思っておる」
「それは良うございました。年明けにはお目出度いことが続きそうでございますな。
お目出たいことと言えば、先にお寄りした玄白先生の所で朽木候(朽木昌剛)が福知山藩の藩主になる、家督を継ぐことになったとお聞きして来たばかりです」
「おう、そうよ。吾も聞き及んでおる。
何かと其方の面倒を見てくれる朽木殿ゆえ大事にせねばな。
候は何歳になるかのー?」
「先生のお話では三十八(歳)とか」
「良い歳じゃよ。吾の経験から言えば、世のご時世を知る方を藩主に迎える方が下に働く者にとっては何かと都合が良い。
朽木殿のところの先の殿(朽木舗綱、享年五十八歳)には悪いが、候は其方にとって今まで以上に大きな力になろう」
「ご承知のように、候は吾よりも先に良沢先生のお弟子になり、同じ弟子どころか吾を弟のようにも世話してくれてございます。
候は実に阿蘭陀語に達者でございます。今は荒井庄十郎殿(かつて長崎の阿蘭陀通詞)を助手にして一層世界の地理の研究をしてございます。
通貨にも大変に興味がおありで、カピタン等を通じて世界の貨幣を収集しておるとお聞きしています
先頃に西洋銭譜と表して欧羅巴諸国の貨幣を絵入り図入りで紹介してございます」
「久しぶりに良い話を聞いたわ。
朽木候も玄沢殿も、また、比べものにならぬが不束な吾が娘二人もこれからじゃ。
若いということは良いのう」
「また変な物言いで、何を言われる。
工藤様、老け込むにはまだ早ようございます」
「そう言うな。子が二つ(二歳、五女・照子)三つ(三歳、四女・拷子)とて吾も五十の坂を超えておる(この時、五十三歳)」
「ご存知ですか。吾も玄白先生にお聞きして知ったばかりで驚いたのですが、京に在って朱子学を得意とする柴野栗山先生が老中白河候(松平定信)に呼び出されてこの江戸に来られるそうです。
先月(十一月)に幕府にお仕えすることに決まったとお聞きしました。
五十一(歳)とか。工藤様とそう御歳が違いません。工藤様も何のまだまだこれからでございます」
「うん、知りおる。耳にした。幕府に呼ばれるほどの大家なれば・・・」
余計な一言だったのだろうか?。田沼様の世が続いていたならば工藤様の松前(北海道)お奉行様の話もあったかと思う。
元気づけるつもりが逆になった。工藤様は後に続く言葉を自ら飲み込んだ。芝での生活を懐かしんだ。確かに、今の工藤様の所(浜町)から芝の地は遠くもなった。