第七章 家族と江戸に住む

              一 打ちこわし

 朝から瓦版屋の声だ。見れば四月十五日、徳川家斉殿の第十一代将軍宣下があったとある。また、老中首座には御三家に押されて奥州白河藩、松平定信公が取り沙汰とある。四月十五日と言えばもう二十日も前のことになる。

 

(天真)楼に行く前に、先生宅を覗いた。手土産に、遠出して向島の長命寺前の和菓子屋に桜餅を買い求めた。

塩漬けにした桜の葉を巻いた餅は近頃評判をとっている。お子らにも奥方様にも、さゑさんにも喜ばれるだろう。

「うん、伯元からの状が届いてな。京都には四月六日に無事に到着したらしい。途中、大井川で八日間も足止めを食って難儀したと書いてきた。

ま、無事に着いたのじゃ、安心したよ」

「伯元殿のお住まいは?」

「京も小石殿と一緒じゃ。元俊殿宅に起居して医の実技を学ぶが良いのだ。

柴野(栗山)殿とも予定の通りに手はずが整ったと(したた)めてきた。医学だけではなく国学、漢学を学ぶことも人を作る上で必要じゃて」

「先生のそのお考え、吾子(わがこ)やこれからの弟子の教育にも生かさせていただきます。

伯元殿も果報者でございます」

「ハハハ、己の生い立ちにもある。母は吾を産み落として間もなくに亡くなったが、父の教えじゃ。

母がないゆえにか、学ぶことに厳しくての。幼い頃はいやいやじゃったが今は父の教えを有り難いと思っておる。

()()に学ぶ機会は多くに与えねばの。学問は人を作ると思っておる」

奥方様が、お盆に湯のみ二つと小皿に桜餅を載せてきた。

「玄沢様の土産にございます。今、評判の桜餅(さくらもち)とか。子等も喜んでおります」

先生に話しかけながら、吾に笑顔を向けた。

「向島の長命寺の寺男にあった者(山本新六(やまもとしんろく))が庭に落ちる桜の葉を勿体ない勿体ないと思って、塩漬けにして食べられないかと考案したとか。

 かつて先生に阿蘭陀医学の質問状を寄せた建部清庵先生が、飢饉の備えにと色んな野菜、()の実、()の葉の食し方を考えたことに通じるお考えでございます。

それゆえ評判をお聴きして、遠出しても買い求めたくなって買うてまいりました」

「香りも見た目も、美味(おい)しく感じますね」

お側にそのまま着座した奥方様の感想が先だった。

「うん、噂には聞いておるがの。吾も初めて口にする」

 

 その後にも先生の続くお話をお聴きした。医者である前に人であらねばならぬと言うお言葉を何度頭の中で反芻(はんすう)したことか。

)いて吾が塾の門を叩く御仁と雖も、決まり事を幾つか示そう、なぜに学ばんとするのか、医者になろうとするのか。

学問は人を作る。そこまで考えて心構えともいうべきものを書き表してみようと思う。

 また、小石殿、士業(伯元)殿が無事に京に着いたとあれば、田舎に在る妻子、老母等の江戸上りの許可願を再度、藩に出してみよう。部屋は空いたのだ。遠くにあれば、病気がちだという老母の介抱とて出来ぬ。小石殿と士業殿の京の生活をも想像した。

 見慣れた(天真)楼の門が見えてきた。幽蘭堂に塾生があらざれば吾の生活費の足しになる働き場の一つだ。

 

 今日の空は初夏とも言える青だ。昼にお(つう)さんの物価高の嘆きをまた耳にしたけど、他に特に変わりは無い。小石殿等が京に帰ったとて引き続き吾が家の賄を担当してくれないかと頼んで凡そ三月(みつき)になる。

 お通さんとて、幼子を抱えて次の勤め先を探すのは口入屋に頼るとても容易ではなかろう。先生からの経済的な支援がなくなったが、お通さんへの給金は確保できている。少なくとも田舎から吉や母上等が上京してくるまでは居てもらいたい。

 いつもより早めに夕餉の支度を頼んだ。その分お通さんの帰宅時刻も早くなるが、吾とても早めに文机(つくえ)に集中出来て、他に頼むことがなければ悪いことではない。また、七歳と五歳になる幼い子供達が早くに母の姿を見つけて喜ぶだろう。

 もう、暮れ六つ半(午後七時)にもなるだろうか、硯と筆を傍にして蘭書に目をやっていると、大変だ、大変だの声だ。表が急に騒々しい。何事だ。

 耳を澄ましたが、半鐘の鐘の音は聞こえて()()い。火事ではないらしい。人のバタバタと走り回る音と、何やら叫ぶだみ(・・)()が聞こえてきた。

 米屋だ、武蔵屋が近いぞとも聞こえる。物の音と人の声が混じるその音が段々と大きくなって近づいてくる。太鼓の音、鐘の音までが聞こえてきた。

恐々こわごわ)に表を覗けば、手に棒、(くわ)(すき)(とび)(ぐち)を手にした者までが見える。何事かと薄明りの小門の軒に出て驚いた。大勢が目の前を走っていく。段々に人の数が多くなる。

 声にならぬ声が混じり、やがて向かう人、来る人様々だ。一体何があったのだ、人の波に飲まれまいとて家の中に引っ込んだ。打ちこわしだーの声がした。