月無し月とも言うべきか。睦月(一月)はあれもせねばこれもせねばと気も新たに急いて立ち向かうのに、如月(二月)は月に入ったかと思うと碌に覚えもせず過ぎ去る。
だけど、この年の如月は忘れられないものとなった。剛毅であり目配りがきき、また、人を和ませるおかしみを絶やさない工藤様が肩を震わせて泣いた。
凡そ半世紀、実の父母、兄妹と縁の薄かった工藤様が喜びも楽しみも一緒にあっただろう養母、ゑん殿が二十六日にお亡くなりになった。
伝えに来た小者から、養母は厠に立って倒れ、二日と床に就かぬまま他界した。工藤様の長女、あや子殿も急遽、井伊家から駆けつけたとお聞きした。
御仏前にひれ伏す工藤様に掛ける言葉とて無かった。ご焼香を終えて向き合うと、工藤様は顎を引きながら、これが定めの年齢なのかもと言った。
自ら、養母は六十九(歳)まで生きられたのだ、今に借家住まいながら芝居小屋にも住吉神社にも近いとて生活を楽しむことが出来たのだものと語った。
工藤様の御自身を励ます言葉、慰めの言葉と分かっているが頷くしかなかった。
「驚きました。またお米の値が途方もなく上がってございます。暮れに一升五、六十文だったのに今日(三月)には二百五十文、三百文にもなってございます。
味噌、醤油にお塩、豆腐、野菜、魚、紙に燈油など日頃に必要なものすべての値がここ数カ月で大きく上がってございます。
ご存じでしたか?。大変な世になってございます」
賄を任とする後家殿、お通さんだ。この家に来て凡そ半年になる。米屋その外の店を覗いて帰って来たのだろう、途端に溜息を付いて報告する。
「誰しも音を上げてございます。大変な世になってございます」
黙って聞いているだけの吾の態度に不満だったのか、また繰り返して言う。
「今日にも、その米の三合も、また大根も持ち帰るが良い。
お子を腹の空かせたままにしてはならぬ。病の元にもなる、流行り病にも勝てぬでな」
お通さんは、手にしたままの大根に目を移した。そして炊事場の側に立ったまま、吾を見て、二度も三度も頭を下げる。食べ盛りの子、二人を抱えていれば少しばかりの米でも大根でもいくらかは助かるだろう。
雨の日の土岸工事で足を滑らし、大川に溺れ死んだというご主人の話を何度か聞いた。病を抱える患者に接するのと同じで、聞くだけも愚痴のはけ口にはなっているだろう。
なれど、大して力にはなれぬ。額に掛かる彼女のほつれ毛を見ながら、田舎にいる吉も陽之助も、そして、母上も弟も如何しているだろうと思い起こされる。
去年にはこの江戸でも一両で米一石(約一千合)を買えたが、今では二百合も買えるかどうかだと聞けば目も丸くなる。
誰とても生きんがためにまずは食べるものにとの算段が働き、蘭語を学ばんがための塾に支払うための金など無かろう。
幽蘭堂の看板を掲げても、長崎帰りだと少しばかり知れた吾の名で塾生が集まることも無い。妙に納得も行くご時世だ。
明後日(三月十六日)には士業も小石殿と一緒に京へ旅立つ。小石殿は二歳になる倅(後の小石元瑞、内科提要を現す)に早く会いたいものだと語っていた。
聞けば、子の母親は産後の肥立ちが悪いうえに流行り病に罹って亡くなったのだとお聞きした。聞かねば良かったとの思いもあるが、ご本人は遅くにできた子ゆえ可愛くて、可愛くてと語っていた。その京とても大阪とても米の高騰、物価高の世と伝わってきている。
八日に、小石殿は先生宅に泊まり話し込んだ。お二人はまたも医事のことどもについて議論を交わしたのだろうけど、その場で士業を京に上らせる談合があったなどと思いもしない。
士業自身が驚いていたから、降ってわいたような話だったのだろうか。いや、そうではなかろう。先生のことだ。吾を長崎に送り出したのと同じに士業の将来の事を考えての送り出しだ。しっかりと本科の筋道を立ててやりたいという親心だ。
明日(十五日)には小石殿は帰京の挨拶回りをして、士業はお世話になっている先輩諸氏や薬種商等に出立の挨拶周りだろう。
お通殿が、良い魚があったから今日の夕餉に煮しめを作りますと、気を取り直しいて明るい声をかけてくれた。
長崎屋は表も外も相も変わらず人、人、人だった。先生にお供して今年もまた何冊かの洋書等を手にすることが出来た。
今年のカピタン参府は商館長ロンベルグに随員リカルド、医師がロッツとか言う者にて同行の大通詞は名村初左衛門殿だった。その名からして、吾が崎陽(長崎)にてお世話になった名村多吉郎殿の縁故に繋がる方であろう。
一行は四月も半ばに江戸を発ったが。道中、ご無事でとの思いは吾が遊学の時に世話を良くしてもらったからだけではない。今やこの日本の将来を開く、日本に世界を知らしむる異人、通詞達だからだ。