「小石殿は古医方と(いえど)も観臓を多くして諸説を述べられておるからの。説得力がある。

其方と吾に足りないものの一つが観臓じゃて」

「年が明けたから二年前と言うのでしょうか、田舎でも腑分けがあったとか。

人間(ひと)の臓器を実際に目にしたと兄(亮策。(三代目・建部清庵由水)から手紙を頂いたのが一年前でした」

「うん。田舎での解剖は吾の長崎逗留中の事だったな。中川先生が亡くなった夜に其方から聞いたな。

それにしても、人にはご縁と言うものがあるのかの。小浜藩の藩主酒井(さかい)忠用(ただもち)公が京都所司代の時、宝暦四年(一七五四年)だったと聞く。その酒井公が天子様のお側に仕える山脇東洋殿に罪人の(むくろ)を払い下げ、腑分けを許しておる。吾の生まれる三年も前の事よ。

 東洋殿に小杉玄適(こすぎげんてき)伊藤(いとう)(とも)(のぶ)というお弟子さんがいて、それが小浜藩の藩医じゃった。話の通りが良かったのじゃ。以来、数度にわたる解剖が京で行われ、凡そ十人からの罪人が今に手厚く供養されていると聞く。小石殿の良くした観蔵じゃな。

 解剖の結果は「蔵志」(山脇東洋が現した臓器の絵図等)の通りで、人の臓器は陰陽(いんよう)五行説(ごぎょうせつ)に基づく(から)古来の人体の内景図と大部に違っていた。その後の日本(ひのもと)の医学に大きな波紋を広げた。

 それが、先生(玄沢)が五臓六腑説に疑問を抱くきっかけにもなった。解剖によって段々に蘭書(らんしょ)蛮書(ばんしょ)の絵図の正確性が証明された。

 腑分けを許したのが小浜藩の藩主であれば、数十年後に蘭書の翻訳に精を出した先生もまた小浜藩。玄白先生も、お亡くなりになった中川先生も、また小石殿も小浜藩に関わっていよう。

 その小浜藩、藩主酒井公の祖先はもともと江戸におった。将軍様への忠勤が認められて武蔵(むさしの)(くに)川越藩(かわごえはん)の藩主となって、それから若狭(わかさ)小浜(おばま)の城持ち大名となっておる。

そこまで言って、吾らも小浜藩に(えにし)があると士業殿()は分かるかの?」

「いや、分かりません、我々とどの様なご(えん)があると?」

「伊達騒動じゃよ。(えん)が医事に係ることで無いのが残念だけどな。

凡そ百余年も前、江戸の大老は今の小浜藩、酒井家とも縁のある酒井(さかい)(ただ)(きよ)酒井雅樂頭(さかいうたのかみ))公よ」。

「伊達騒動って、あの、歌舞伎の?」

「うん、歌舞伎の演目にもなっておるがの。

だが、歌舞伎の中の伊達騒動は筋立てもいい加減な物じゃ。

仙台藩三代目藩主、伊達綱宗公が所行紊乱を理由にして幕府から隠居させられた。

吉原の太夫、高尾(・・)に熱を上げて藩財政を窮地に追い込んだとなっているが、実際は分からぬ。遊蕩にふけった大名は外にも()るではないか。

 吾が調べて知ったところでは、どうやら藩の中での勢力争いでやむなく蟄居させられた綱宗公の後に、幼い亀千代(伊達綱村)殿が二歳にして藩主になった。その後見人になったのが吾らが一関藩主、伊達兵部(だてひょうぶ)殿(伊達政宗の十男)じゃよ。 

 以来、十一、二年、兵部殿が後見人だった。兵部殿の施政がどのような物であったのか吾はまだ詳しく知ら()んだども、寛文十一年(一六七二年)と聞くから凡そ百年前、兵部派の横暴等を伊達一門、涌谷(わくや)(現、宮城県遠田郡(とおだぐん)涌谷町(わくやちょう))の藩主、伊達(だて)安芸(あき)(宗重)殿が幕府に訴え出た。

その審判が酒井雅樂頭、忠清公の住む屋敷で行われたのよ。

 だが、その途中に事件が起きた。兵部派の伊達家重臣、奉行職にあった原田(はらだ)甲斐(かい)(原田(むね)(すけ))等が事もあろうにその屋敷内で伊達安芸殿主従を斬殺(きりころ)した。また、その場で下手人とて甲斐自身も切り殺された。

 大老酒井殿の屋敷での刀傷沙汰に主役が六十二万石の伊達家とあっての。この事件は当時、江戸市中の大評判になったと聞く。

 前に工藤殿に連れられて伊達騒動を仕立てた歌舞伎を見たがとても納得出来るものに無い。騒動の真相はまだ詳しく分からぬけれど、昔のことと言っても吾等の出、一関藩の名誉に関わることよ。

 酒井家は騒動の止め役、審判役だった。幕府の意向も受けてどのような審判を下そうとしていたのか事の真相を知りたい。

当時、酒井家の上屋敷は大手門下馬(げば)(ふだ)の近く(現、千代田区大手町一丁目辺り)にあって、忠清は下馬将軍と人に言われるほどの権勢を誇っていたようじゃ。

 愛宕(山)近く、芝に増上寺が有ろう。あの寺の五重塔(ごじゅうのとう)は酒井忠清公が建立したと伝わっておる。

家康、秀忠、家光と将軍様と(よしみ)を通じていた伊達家ゆえに六十二万石のお家は安泰で済んだが、関藩の伊達兵部殿は土佐(土佐藩、現・高知県)の山内家にお預けの身になっている。

 吾は騒動の顛末を調べた上で、真実を書き残したいと思っておるがの」

「お忙しい玄沢様にそのようなお時間がございましょうや?」

「何にでも興味が湧くでの」

「お義父(ちち)上が感心しながら申しておりましたよ。玄沢様は何事も学ぶにあたって実地、見分を大事にする。己が納得しなければ、分からなければ筆舌に上げぬ、と」

「吾の生まれつきの性分じゃな。ハハハ、先生は吾を良く見ている。

されど、その教えは、其方の父、(建部)清庵先生の教えぞ。

 十三(歳)で初めて先生の講義をお聞かせいただいたときじゃった。癩患者にかかる話で、癩に(かか)るは悪行を重ねた者への天罰だとする天刑説を否定し、また、癩は血脈の遺伝だとする説を否定し、患者の病の経過、症状から治療の方法を説くものだった。

治療の経験から使うべき生薬を語り、温泉は逆効果と言い、医療を施すに実証していくことが何よりも大事だと説いたのだ。

自分の研究もさることながら、患者に教えられることも多いとも語った。実地、検分を大事にせよは一関にて学んだことよ」