「うん。それは良かった。何事も最初、基礎が肝心じゃからの。
良かったと言えば、瓦版にも老中首座に奥羽白河藩主、松平定信公とあったが、見たか?」
「はい。嘘か誠か、そのように存じております」
「定信公が老中首座とあれば、法眼殿の事とて安心じゃ。
福知山侯を通じて公の事を少しばかり耳にして居るでのう。直ぐにも奥医師に戻されるじゃろう」
久しぶりだ、夕餉を一緒にと誘いたいが客人が待っていようとのお言葉も先生らしい。それでなくともさゑさんと扇さんが夕餉の準備の手伝いに先に行っておるとお聞きした。
今宵もまた美味しい物が食べられると、士業と一緒に家路を急いだ。
早いもので小石殿等が江戸に来てもう二月になる。酉の市がまた掛かったとて今日は御案内し、大鳥神社から廻って浅草寺をもお参りしてきた。
久しぶりに口にした少しばかりの酒の酔いは気持ち良い。頬に当たる帰り道の寒気が心地良かった。
酒も入ったとて、それぞれに部屋に戻るものと提案したが、小石殿がいつもの通り講義の場の六畳間にお寄りなされと言う。
「今日は今日で楽しかったでござる。ところで、頼みがあっての」
長机を間に、吾も士業も真狩殿も小石殿の前に着座した。坊主頭の丸顔はニコリと笑みを見せる。それから語り出した。
「吾が此度の江戸訪問を思い立ったのは昨夏の玄白殿との解体約図、解体新書に係る問答に始まる、そのことは前にも話した。
玄白殿に、そしてまた前野殿(前野良沢)にも教えられて、吾の学んで来た古来の医方と洋の医との違いが段々に理解できていると己で思いもしている。
そして、洋と日本の本草、薬物においてもこんなにも相違しているものかと改めて思う。また、其方の六物の草稿を拝見させていただいて感心もしておる。六物の効能、使用の方法等を理解したつもりじゃ。
そこでじゃ。この六物新誌の跋文を吾に書かせて貰えんかの?」
「えっ。それはまた・・・」
思いもしていなかった提案だ。
「其方さえ良ければ六物誌の序は師(玄白)に、跋文は吾でと玄白殿に申し出るがの?」
「誠に思いがけぬことで‥・。そのように叶いますれば・・・」
応えて思わず士業の顔を見た。校訂を手伝ってくれている彼は頷いた。微笑んだ。
その事があって、数日して、先生に男の赤子が出来たと小者が知らせにきた。杉田伯元(士業)殿と言う立派な後継ぎがおるとても、血を分けた子の誕生(後の杉田立卿、、蘭方眼科医、小浜藩侍医)は嬉しかろう。何を祝いの品にしようかと士業と一緒に思案した。
天明七年の空だ。この年も何が待っていようか。風の便りにも去年の秋の米は不作だ。
田舎に在る母上は息災だろうか、妻や子は、弟は?。冷やりとする空気を吸い込んでは、田舎はもっと寒かろう、この正月はどのような祝い膳が整えられたのかと思いが行く。
今年にはこの江戸に家族が揃わねば、一緒に住めるようにならねばと思うと、それが今年の大きな目標であり、年が明けたばかりに今から楽しみだ。
六物新誌の草稿は大阪の兼葭堂殿に送った。後は出来た二巻二冊が送られてくるのを待つだけだ。その楽しみも一つある。それにしても、小石殿の跋文には驚かされた。
「古今謬惑之論を排斥して、もって一家を樹立せんと欲すも・・、未だ欧羅巴州諸医の見るところを知らず、故に来たって江都蘭学家之巨璧を叩く・・」とは・・・。
蘭学家之巨璧は玄白先生の所を指していると思っても、吾の書に寄せるあの跋文とは・・・勿体ないお言葉だ。そして、江漢の、いや江漢殿(司馬江漢)の挿絵はさすがだ。吾の言わんとするところ、翻訳をより分かり易くしてくれている。
先生と小石殿との対論はこれまでに何度行われたのだろう。吾も士業も、医療の施術の基礎に漢方もいかに大事かとこの三カ月余りは改めて思い知らされた。
かつて、清庵先生(二代目・建部清庵由正))は吾に、仙台に学んでから江戸に出ても良かろうと言った。亮策さん(三代目・建部清庵由水)の助言で(玄白)先生の所にお世話になることができたものの、あの頃、先生(建部清庵由正)が何故吾の上京を拒むのか、妨害するのかと思ったのは事実だ。しかし、それは己の心の狭さでしかなかったのだ。
小石殿の講義をお聴きすればするほどに、基礎が欠けている、足りないと思わざるを得なかった。時折、小石殿の説を拝聴しに来る玄常先生(石川玄常)や嶺先生(嶺春泰)さえも感心していたし、後に、大いに勉強になると言っていた。
先生(玄白)の紹介等があったにしても、去年の暮れには小石殿に治療、施術を頼み込む侯家や町家が少なくなかった。真狩殿をお供に道具箱、薬箱を抱えて堂々と往診に出かける姿には感動すらも覚えた。
また、古医方の大家と知れているがゆえに、産科術の賀川元厚殿や、寒傷論に一過言を持つ今井松庵殿も訪ね来た。
小石殿のお側にいるだけで治療の施術を知るにも、また、医療にかかる様々な人々を知るにも大いに役立っている。