八 田沼意次の失脚
長月(九月)と月も変わった。そろそろに着るものとて変えねば身も寒い。
瓦版屋の声が朝から聞こえるとて、表に出た。空にまだら模様の鰯(雲)だ。
大きな呼び声に人だかりだ。手にした瓦版に驚いたの何の、将軍様(徳川家治)が亡くなったとある。それから田沼(意次)殿が老中職を解かれたとある。
お殿様が亡くなられたのが何時なのか、田沼様が何時にそのようになったのか、その後どうなったのかが書かれていない。
このような瓦版が出たときは己のこれまでの経験から、十日も半月も前に事の事実があったと勘ぐるしかない。
(徳川家治、八月二十日死去。九月七日に公表された。田沼意次(六十八歳)、八月二十七日、老中職を解かれる。登城してすぐ雁間に閉じ込められた。即刻に二万石を削られ、江戸の役宅及び大阪の蔵屋敷が召し上げとなった。)
奥医師の法眼殿(桂川甫周、国瑞))の身が気になる。お殿様が亡くなった、田沼殿が失脚したとあれば法眼殿の身とて必ず余波を受けるだろう、危なかろう。
慌てて家を出た。先生の所に行けば何か分かるかも・・・。
浜町までがいつもの時よりも遠くに感じる。
先生も士業殿(伯元)も強張った顔をしていた。瓦版を手にしていた。
知ることができたのは、田沼殿は二百日の登城遠慮を命ぜられた。法眼殿、堀本殿(堀本一甫。妻は桂川甫三、国訓の娘で桂川甫周とは義兄弟)は奥医師から寄合医師に格下げされたということだった。奥医師の千賀道隆,道有親子も同じらしいと語る。
先生は、何、(幕)府の内も落ち着きを取り戻せば法眼殿の身は今までと変わりなかろう、直ぐに奥医師に戻されると言う。それをお聞きしただけでも気が少し落ち着いた。
それから工藤殿の事が思われた。先生や士業殿が知る由もない。工藤殿の所に廻ってみよう。そう思うと腰が落ち着かない。
この後、工藤殿の所にお寄りしてみると言って、早々に退散した。
門を見ると、果たして在宅しているのかと、その思いが先に来た。幸い、工藤殿はご在宅だった。
部屋に入って対座すると、工藤様は無言のまま首を縦に二度ほど振った。そして、聞かずとも自ら話し出した。吾が駆けつけた理由を分かっている。
「これで終わりじゃて。田沼殿が入ればこその蝦夷地開発じゃった。その望みが立たれたのう。
己の意見を取り上げて調査団を派遣しもした勘定奉行の松本伊豆守殿(松本伊豆守秀持)はお役御免になった。家禄五百石は半減され、今は小普請人となった。
そうとなれば、この工藤平助、蝦夷奉行ならずじゃ。蝦夷地の開発、蝦夷奉行となればこの工藤平助も復活じゃと思っておったが・・・、夢のままに終わってしまったわ・・・、(この数年)ご難続きじゃが、世は回るて・・・」
「・・・・」
かける言葉とて思いつかなかった。吾もまた工藤様の夢を一緒に見たのだ。口を堅く結んだ工藤様は目を合わせることもなかった。工藤様がそれを拒否していた。
白髪の交じる横顔に皺がまた増えたかと思い出される。どのように戻り道を歩いて来たのだろう。まだ塾生とて来ない幽蘭堂の看板が軒下で揺れている。
九 小石元俊の東遊
それから五日経つ。今日は残暑が厳しかろう。寝汗を感じながらうとうとしていると、そう広くもない家とて呼び声が聞こえた。一人身ゆえ己で玄関口に回らねばならない。
戸口を開けると、松栄が立っていた。直ぐにも先生宅にお越しください。そのように言伝を承って来ましたと語る。
特別に支度とて要らぬが、寝巻姿のままとはいかぬ。土間の上がり口に松栄を待たせて身支度を整えた。
浜町に向かった。途中に、京から小石元俊殿が弟子を連れて二日前に来たと知った。しかも松栄は半分笑いながら、同行して来たという弟子の真狩元策殿の姿、形を話した。
「師の草稿(「元衍」を頭陀袋に入れて大事に大事にと、道中、ずーっと首に掛けて来たそうです。
あの様では首も相当に草臥れたでしょう、痛かったろうと思います」
迎えに出たのはさゑさんだ。直ぐに先生のお部屋に案内された。いつもは床の間を背にする先生だけど、今日は座る位置が変わっていた。
床の間を間にして、その前に先生と小石殿が対座していた。見ただけで先生が小石殿に敬意を表しているのが知れた。小石殿の後ろに控えているのが松栄の話した真狩殿だろう。先生の後ろに士業殿だ。
指示に従って先生の左隣に着座した。
「仙台藩、大槻玄沢殿にござる。先にお話したように、一関藩から移籍して御座る。
(藩の)外宅も許されて日本橋は本材木町に医学を学ぶ者に限らず、蘭学を、阿蘭陀の言葉を学びたいとする者に阿蘭陀語を教えようとて塾を開いておる。
今や幽蘭堂の主人でござる。
小石殿の周りに是非に学びたいとする御仁がござれば、玄沢殿が塾にご紹介下され」