六 淳庵の死、豊吉の死
月が替わって、六月早々、早速に藩の御人足方や奥方の御女中衆の治療役を仰せつかった(御人足方は朔日、御女中衆は四日と記録が残されている)
それは良いとして、己の身が相も変わらず小浜藩の玄白先生の処からの通いでは不自然極まりない。それ故、住まいを藩邸近辺に確保したい旨、藩に願い出た。また、その方が勤めの透々(ひまひま)に蘭学の研究や蘭書の翻訳もやり易かろう。
先立つものは金子だ。それがなければ移転先を探すも何もない。適当な貸家とて如何なる手立てで探せるものか、独立となると何から何まで己でしなければならないのだと初めて気にした。どっと肩の荷が増えたなと思う。
先生の所を出ることはご承知いただいたけれども、この数日、思案に思案を重ねても溜息ばかりだ。必要とする金子の事は恥を忍んで藩に頼るしかあるまい。蘭学の徒として世に少しばかり名が知れたとて、これが今の吾のあり様だ。
窮状を訴えるに如何なものかと思いもしたが、長崎遊学にかかった往復の費用から逗留に要した費用までも計算した。それに、藩の御人足(家臣)方や御女中衆の治療に係る医療道具や当面の薬材の整備等にかかる費用、郷里一関の母上や妻子への仕送り、外宅に係る物入り(引越し費用)等について難渋している、と藩に申し出た。
扱いがどうなろうとそれしかない。何処ぞで誰かが嗤わば笑えだ。そこまで思いが行くと腹をくくれる。
そんな折も折、七月も二日、朝早くに訃報が届いた。先生も伯元さんも己も覚悟をしていた。予測していたこととはいえ、中川(淳庵)先生の死に涙の外に無い。
先生の慟哭は人目を憚らない。解体新書の翻訳を共に手掛けた、苦労を共にした淳庵先生が働き盛りの四十八(歳)で亡くなったのだ。
吾とて、中川先生が居たればこそ玄白先生のところで学ぶ機会を得た、良沢先生の弟子にもなれた、長崎行きも元気づけられた。それらのことが昨日のことのように何度も思い出される。先生のお子等を相手に馬になっていた中川先生が昨日のことのようだ。
今日一日ばかりは(天真)楼も休みにするという先生と伯元さんに従って先生宅の仏壇の燈明を絶やさず、中川先生のご冥福を祈ることにした。奥方様もさゑ様も喪服だ。
夜、医事に係る淳庵先生の思い出話をしていて、思ってもいなかったことを知った。昨年の霜月(十一月)に郷里一関でも解剖が行われたのだという。正月明けに届いた兄(三代目・建部清庵由水)からの状(手紙)に書いてあったと伯元殿だ。
吾が長崎に着いた(十一月十五日)ばかりの頃になる。東奥初の人体解剖が天明五年の霜月に(十一月十三日)行われていた。
「盗賊豊吉が関藩の橋田原刑場で処刑されたのだそうです。
藩医の笠原中也、菊池玄和殿が代表して『医術稽古のため腑分け仕り度く斬罪の者これ有り候わば、死骸下し置かれ候様に』と申し出て、願いの通りに侯(一関田村家、五代藩主・田村村資)から仰せつけられたのだそうです。
藩医等十六人が立ち会い、兄(清庵由水)もまた観蔵したと状にございました。大した盗賊にはござらんでしょうけど、三十ぐらいになる若者の死体とて・・・」
「そんなに若い骸と?」
「はい、それ故に、臓器は桃の色にして大いに参考になったとございました」
豊吉という盗賊は何をしたのだろう。伯元殿の言葉に頷きながら、何故かあの五串渓(現代の厳美渓。当時、五串渓と呼ばれ、表記されていた)を流れる川で花を救ってくれた豊と呼ばれた少年と、あの時の光景を思い出した。
この世に生まれ落ちた時は誰しも無垢だ。好きで盗賊になったのではあるまい。関藩の橋田原刑場側に手厚く葬られたと聞くと、屍を提供したとて、それだけで豊吉なる者に合掌だ。
(令和の時代に入っても、一関市の有志によって今も豊吉の墓の慰霊祭が行われている)
ここ数日、長雨が続く。浜町の名の通り大川も海も近く、荒川筋も江戸川筋も水嵩が気になる。日照りも困るが、田畑とて余分な水は要らなかろう。患者とて診療所に通い来るにも難儀なことだ。
そう思っていると、今に見てきた、聞いてきたとて患者の一人が語る。荒川筋も堅川通(日本橋横山町から逆井までの人工開削運河)も、江戸川筋にも大水が溢れている。危なくて恐ろしくて表は歩けない、やっとの思いで来たけど今日は戻れない、誰ぞ、知り合いに泊めてもらわねばと嘆く。
それから五日もして、やっと事情を読み込める瓦版だ。七月十八日を中にして関東一円に大水害が発生。江戸だけでなく松戸、元利根川、金町、草加、越ケ谷、粕壁、幸手、栗橋まで海のようになった。印旛沼、手賀沼の干拓、排水路工事の堤防が決壊した、家々等の埋没の被害が出たと伝えていた。江戸の町、始まって以来の大水害ともある。
思えば、散々な文月(七月)だったような気がする。気になるのは今年もまた農作物の出来具合だ。食べるもの無くして人々は健康を維持することができない。何処に住もうと、口にする物の確保こそ医療よりも先に立つものだ。
今の吾にとって先立つものは金子だ。金だ。藩への御奉公と翻訳専一、西洋医学を学ばんがためにも住まいを新たにして身の回りを整えたい、
外宅の確保のために憐憫(哀れみ)をもってご支援賜りたいと先月に藩に申し出て、それが今日(八月九日)、呼び出しがあって藩の出入司、木村八兵衛殿から伝えられた金子は五両だ。
俸禄全部の前渡しを願い出てその半分だ。国元(仙台)の今も続く大小の飢饉に、江戸表の洪水被害の修理、対策とて藩財政は益々もって窮状にあるらしい。
「吟味の上、切米拾両の半高、金五両を渡し下されることと相なった」
の返答が今も耳に残る。
何とかこの金子で住まいと塾の様を整えねばならない。