五 仙台藩移籍

 五月二十五日、江戸に戻ってもう二週間も過ぎたかと日を数えていたら、上屋敷(一関藩上屋敷。愛宕下大名小路。現、港区新橋四丁目辺り)から急ぎ出頭せよとお呼びがかかった。

 お座敷に上がると、上役藩士、高嶋一学(たかしまいちがく)殿だった。

「其方の仙台藩移籍の件が正式に決まった、近々、本藩からお迎えの使者が其方の所に来る手筈になっておる」

そこまでは良かったが、次に続いた言葉にお礼の言葉さえ失ってしまった。

其方(そなた)の亡き父上の名跡引継ぎの件じゃが、いずれ親族と熟談の上、日を改めて願い出るようにせよ。

弟御のことは、此度(こたび)は吟味なり難し」

 却下だ。そんなものか。

 戻り道に、己のことよりも父上への評価と陽助((しげ)(たか))の今後が気になった。腹立たしくも覚える。

 陽助は母上や(よし)、陽之助(後の大槻玄幹)と一緒に江戸に来るのが良いのかもしれぬ。早くに阿蘭陀医学を学ぶ事も良かろう、己が教えてやれば良い、支えてやれば良い。弟にとっても新しい生活が始まる、そう考え直した。

 戻って(一関藩中屋敷、愛宕下田村小路、港区西新橋二丁目)上役曽根殿に、近々、本藩から吾に迎えの使者が来ると伝達があったとご報告した。逆に曽根殿から、一関にある小田音一君が小田喜撲(きぼく)の名跡を継いだと聞かされた。

 父上が藩医となったのは亡くなられた先の小田喜撲殿の後である。陽助の処遇の却下された理由が分かった。

 清庵先生の祝宴(三代目、建部清庵由水、亮策)で司会を務めた音一君の姿が頭に思い浮かんだ。彼は吾が父上(大槻玄梁)の 扶持(ふち)をそのままに引き継いだとお聞かせいただいた。世も人も変わっているのに、凡そ三十年も前のままの扶持とは驚く。大飢饉の影響を引きずる今の世と藩の経済事情を考慮したものであろうか。

 

 五月二十八日、仙台藩の江戸奉行所に身を置くという斎藤(さいとう)徳蔵(とくぞう)殿が一関藩中屋敷に貰い受けの使者として迎えに来た。

上役や曽根殿の立ち合いのもとにそれを受け、早速に仙台藩江戸屋敷(現、港区東新橋一丁目)に出頭することになった。

 十畳ほどもあるだろうか、板の間の奉行衆詰所だというところで暫し待たされた。お供連れで四十がらみのお侍様が入ってきたかと思うと、目の前の敷物に座った。

「当藩の江戸奉行にある平賀(ひらが)蔵人(くろうど)と申す。

其方について国元から沙汰があった(ゆえ)申し渡す。

大槻玄沢。仙台藩(なみ)医師に召す。切米十両、扶持方(ふちかた)十五人、其の身一代、江戸定詰め(江戸屋敷勤務)」

 そこまで読み上げると一呼吸置かれた。そして、家内引っ越しは追って沙汰すると付け加え、ニコリとした。

「下され置く旨、御意にござります」

(かしこ)まってお応えした。ただそれだけの伝達と承諾だけど、脇の下に汗を覚えた。

 それから、平賀殿に付いて来られ横に控えていた鈴木殿が、直ぐにこの屋敷に居る江戸詰めの藩役人、医師仲間に吾を紹介するとて案内の先に立った。

 

 屋敷を後にしても気持ちの高ぶりは収まらない。切米(俸禄を土地や米で支給する代わりに現金で支給する)十両に扶持方十五人分は合わせて石高、拾弐貫四百七拾文(凡そ百二十五石)になる。

 一関藩と仙台藩との違いがあるとはいえ、初めて頂く石高に驚きもした。(一石一両、一両十万円としても、現代に換算して年俸約千二百五十万円)。

 凡そ十五年も前のことになるが、田舎に居た時の先代、建部清庵先生の石高に驚いた時のことを思い出した。

関藩中屋敷に戻ると、早速に江戸詰めの藩役人や医師仲間にお礼に廻った。己が部屋に戻ると、喜ばしき事なのにこの長屋もこれで見納めかと妙な気にもなる。

 国許(  くにもと)の役人や医師仲間に礼状を認めた。それから平賀殿に言われたとおり一季書き出し(現代の戸籍相当)を思慮した。

仙台藩に提出すべく、改めて己の名前、職業、住所、家族等の現況を書き出した。

壱季書出

一、進退御切米拾両、御扶持(ふち)方拾五人分 取合直高拾弐貫四百七拾文

一、外科家業

一、(とし)三拾歳

一、実名茂質(しげかた)

一、住居当時酒井修理太夫様御医師杉田玄白師匠ニ之有(これあり)(そうろう)処、同居罷在(まかりあり)

  右住居浜町竹本藤兵衛殿御地面ニテ酒井修理太夫様御屋敷近処(ちかきところ)

一、嫡子同氏(どううじ)陽之助

一、(とし)二歳

一、実名(いまだ)不改(あらためず)

一、拙者義並医師ニ(めし)(だされ)、一代定詰仰渡(おうせわたされ)候事

右の通り壱季書出(つかまつり)候    己上

 天明六年五月二十八日

                        大槻玄沢

 これで良かろう。文机を前に後ろにひっくり返った。

 引っ越しの準備とてあるなと思いながら、田舎の事に思いが行った。母上、(よし)、まだ見てもいない息子、陽之助、それに陽助を思った。家族がやっと一緒に住める。その時が来たか。なぜか涙が出た。

この後に、()宛に己の慶事を状に認めよう。

 腹が減った。もう六つ半((午後七時)になるだろう。