四 病の中川淳庵

 良沢先生への長崎土産は何が良いかと一番悩んだ。その結果に、カテーテルのほかに近頃に長崎で使われている阿蘭陀語の会話集、改訂されたと聞くサーメンスプラーカを置いてきた。 

 頷いていたところを見ると、きっと満足してくれたのだろう。

 夕餉の誘いを受けたが、その時刻(とき)までには帰ると(さゑ(・・)さんに)伝えてあると、丁重にお断りして来た。

 後は法眼殿にも有坂さんにも、また朽木殿にもお会いした時に帰京報告をすれば良い。土産はその時まで持っているしかない。送り物にした荷物とても長崎から届くだろう。

 見送りや餞別金を頂いた岡島さんやその外の天真楼社中の皆さんには明日にも楼(天真楼)に顔を出して、帰京の報告と改めてお礼を申し上げよう。

 中川先生は特別だ。麹町の住まいの方に顔を出さねばなるまい。先生が病に伏せているなどと思いもしなかった。

(先生の)住まいも病状もよく知るさゑ(・・)さんに連れてってもらうのが一番だろう。時折、ご様子を伺いに行っていると言っていた。

 後は須原屋だ。旅先で半紙に書き連ねた物、六か月余りの生活を記した物を整理して渡す原稿を作らねばなるまい。稿料ともとれる金子を先に受け取ったゆえ、時間を要してもまとめねばならぬ。

 崎( き)(よう)日記としようか、(いや)、旅もある。己の身は六か月余は遊子だったのだ。四ケ月余りの長崎滞在に行き帰りを記録している。(けい)()(長崎の別称)紀行とした方がよかろう。

         

 翌々日に、半蔵御門から四谷御門に抜ける通りだという麹町に行った。何丁目になるのか気にもしなかったが、祖父の代から小浜藩の藩医にあったとて家の入り口の屋根に黒松がかかる門構えだった。

 さゑ( ・・)さんの歩みは敷地の中に入っても滞らなかった。看病のお手伝いするとて、先にも何度か訪問していたのだろう。

 式台を前にさゑ(・・)さんが、ごめん下さいと奥に声をかけると、少しばかり白髪の混じる四十がらみに見えるご婦人がすぐに出てきた。

「お邪魔いたします。中川様(のご容態)はいかがでございましょうか?。

今日は長崎からお帰りになった大槻玄沢様をお連れしてございます。

お会いできましょうか?」

 一度下がったご婦人だったが、すぐに戻ってきて、お上がり下さいとのことだった。

 六畳間だった。先生は布団の上で、脇息を右にして寝巻の上半身を委ねる格好だった。驚いた。頬が大部に頬がこけていた。身体も細くなっていた。

 凡そ半年前、(天真)楼で診察にあたっていた時の先生ではなかった。思わず涙が出そうになった。

側の畳の上の丸盆には吸い口と空の小皿が置かれてある。

「達者だったか。長崎と言わず、世の中が見れたか?。

阿蘭陀に限らず、世に色んな言葉が有ると知ったであろう。

改めていろんな国々があると知れたろう」

 さすがに、世界地図にも地理にも詳しい先生だ。

「はい。長崎には阿蘭陀、南蛮(葡萄牙)の物に、(から)からオロシヤ、独逸、英吉利等の物だというものからパタビアの物、インドの物だというものまで様々にございました。

 また、本とて阿蘭陀、独逸、英吉利、エスパニア(西班牙)等の物だとかいうものを見る事が出来ました。

それらの国の言葉を片言に学ぶ者とて居たのに驚きました」

「それで良いのじゃ。世(世界)は広い。学ぶ物とて多い。

それを知らねばの。この日本は世(世界)に後れを取るだけじゃ。

 本草に係る図書も多くあったろう。江戸で見るとても、まだ知らぬ本草の本とて多くあったろう。

長崎に行く元気があれば、吾とて今すぐに(長崎に)行きたいものじゃ」

 先生の体調を計って早々に退散した。あの時の、長崎に行く元気があれば吾とて今すぐにも長崎に行きたい、のお言葉は今も耳に残る。

 中川先生が居たればこそ玄白先生のところで学ぶ機会を得たし、良沢先生の弟子になることもできたのだ。また、長崎行きも元気づけられたのだ。

 僅か六、七ヵ月、先生の変わり果てた姿に気が動転した。土産のカテーテルを渡すことさえ忘れてしまった。

 帰りの道々に、(玄白)先生も伯元さんも中川先生の近況をお話しくださらなかったと、さゑ(・・)さんに恨み言のようにお話したけど、吾と中川先生の中を知っていればこそ先生も伯元さんも、私も口にできなかったとお聞きした。

 中川先生の不治の病は,かくしょう(胃がん、若しくは食道がん)と知った。