ウ 前野良沢への報告
工藤様が住まいを辞し、築地に急いだ。築地一帯も先の大火で焼けたとて何処のお屋敷も新しい。再建されたお屋敷の白壁が西陽に輝いて続く。
奥平公の中津藩中屋敷の邸内に入ると、先に新築の木の香りがしてきた。
門番に教えていただいた良沢先生の住まいの方に回ると、玄関口に出てきたのは以前からの老婆だ(良沢の妻、珉子)
息災で何よりですと声をかけると、有難う御座いますの後に、主人は、そろそろ大槻様が長崎から帰っても良い時期だが・・とこの頃は首を長うしてお待ちしております、と問わずとも先生の近況を語った。
案内された部屋に入ると、また一層、木の香りがした。木の床、木の卓子、椅子だ。片隅にある書架とて真新しい。
先生が入ってくると、その後に、お盆を手にした先ほどの老婆だ、奥方様だ。
卓子に二つのお茶椀を置くと、黙って引き下がって行くのも前と変わりない。
対面に座った先生のお顔は笑顔だ。
「長崎はどうだった。
吾が滞在したのは凡そ二十年も前になるかな。明和の頃(明和六年、一七六九年)とは街も大きく変わっていよう。
働き盛りだった吉雄(耕牛)殿に阿蘭陀語を教えてもらったものじゃ。彼がカピタンと一緒に(江戸に)来た時には会えるものの、沙汰を知ることが出来ても、街はカピタンにも彼にも付いてこないでのう」
「はい。先生が居た頃の長崎は存じ上げておりませんが、吉雄先生ご自身が長崎は変わった、この繁栄ぶりは想像できなかったと言っておりました。
昔と違って異国の本が多くにこの日本に入ってくるようになったこと、銅や砂糖など異国との取引が大きくなったことで長崎の庶民の暮らし向きが良くなったと申しておりました。
実際、吾は町民、庶民だと言いながら、当たり前に生け垣や白壁のある家も持つ方も多くいるのですから驚きです。
大波戸など港もよく整備されておりました。パタビア(現インドネシア、ジャカルタ)に向かったばかりとて阿蘭陀船を見ことはできませんでしたが、大きな唐船を何艘も見ることが出来ました。
吉雄先生は、先生(前野良沢)が四十も過ぎて阿蘭陀語を学びに(長崎に)来た、年齢を知って驚いたとも言っておりました。先生と吉雄先生は同じ年齢だとか」
「ハハハハハ。余計な事を。して、如何じゃ。肝心の阿蘭陀語の勉強はできたかの?」
「はい。阿蘭陀語には文の路があるとかで、吉雄先生から紹介を受けた小通詞助役、本木良永殿につづり方の順序に、それぞれの文字の役割までも教えていただきました。
物の名そのものを表す文字(名詞)とか、その代わりになる文字(代名詞)に文のつなぎを助ける文字(助詞)、動きを表す文字(動詞)など、それぞれの文字の役割を教えていただきました。
そのことも分からずに己が和蘭鏡(後に蘭学階梯と改める)に阿蘭陀語の会話(例文)を書き並べたのですから赤面の至りです。改めて先生の蘭訳筌(和蘭訳筌)の文例も見させていただいたところでございます。
長崎では阿蘭陀語を学んでいる若い内通詞だけでなく、本木殿の所に通う子供達までもがA、B、C、Dの二十六文字に、サーメンスプラーカ(和蘭語の会話集)を使って勉強しておりました。
先生(前野良沢)がおっしゃられるように阿蘭陀の書に学ぶべきは医療医術だけではございません。天文、地理、測量、化学、算術、絵画、日々の生活の有り様まで及ぶと、改めて強く覚えてございます。
つくづく江戸は世界に遅れている、江戸庶民にも阿蘭陀語を学ぶ入門書が是非に必要だと思いを新たにしたところでございます」
先生はニコリとした。
「それでこそ長崎に行ってきた甲斐があるというものだ。
それを其方の今後の仕事に生かさねばの。
玄白殿の宿題はどうした?、へーステルの外治の訳は進んだか?」
「はい。玄白先生には整理整頓、清書してからに報告するとお許しを得ております。
自分なりには理解できた、翻訳出来たと思っておりますが、何分にも量が量だけにその整理に大変です。
通詞の方とて分からぬところが多くございますが、指導を受けた本木良永殿は医者であり医事にも詳しければこそ翻訳出来たと思っております。吉雄先生が本木殿を紹介した理由が良く分かりました。
人の臍裏辺りには五尺(約一・五メートル)ほどにもなる管のようなものが有り、それが水分を吸収して己の糞を作っていると分かりました。それもまた本木殿のご指導があったればこそです。
食べたものを消化する胃から糞をする肛門までを繋ぐハラワタとて、それを、吾は結腸と呼ぶことにしました。(結腸、大腸等は大槻玄沢の造語)
健康なれば良し、、人によってその結腸にも色々と障害が出てくる。その治療方法は如何にと、次に進むことができます。
左様に理解が大きく進んだところもあります」
「うむ、それは何よりじゃ。その訳本が出来れば、また楽しみじゃて。
道中は如何じゃった。医療以外にも旅に出て知ることとて多かったであろう」