行く山道で感激を覚えた物があります。黒焦げの岩と灰色の山肌、赤茶けた山肌が続くばかりでしたけれども、里近くになれば梅に桃や桜の木の花が色鮮やかに咲き誇っていました。今まさに湖水の氷も解け、日々是好日にして桃花咲くと誰かの詩にもあったような気もしますが、まさにその通りで北国の遅い春の盛りでした。
(瓊浦紀行には「即今河畔氷開日正是長安花落時ノ詩ニモ同キ寒国ナリ」と有る)
ふと故郷の一関平泉、川の氷も溶けて猫柳の穂が膨らみ、庭先や野に梅や桜の花が匂う、畑にリンゴの白い花が咲く、一遍に来る北国の春を思い出しもしました。
和田峠から浅間嶽が見えます。峠の東餅屋という所に旅籠(島屋)を見つけた時には身体がボロボロ、限界でした。お三方も流石に疲れた、疲れたと口にしておりました。
宿の主が言うには難所も難所、中山道で一番の難所、峠だと言っておりました。嶮しい山坂ありなのにあの日も十里程歩いたのですからかなりの強行軍でした。明け六つ(午前六時)に本山を出て、着いたのは暮れ六つ(午後六時)過ぎでした。
酒の力も借りて早々に床に就きましたね。今思っても、和田の峠越えは女子の足ではかなり難儀なことだと思います。
それでも翌日、四日もまた明六つ(午前六時)に出立しました。
長久保(瓊浦紀行には中久保、長野県小県郡長和町)、石原坂を上り下りして芦田宿(長野県北佐久郡立科町)、望月、八幡、塩名田、岩村田(共に長野県佐久市。塩名田は瓊浦紀行には塩奈田、八幡の記載なし)の各宿場を経て、小田井宿(長野県北佐久郡御代田町)の駅に至って四人とも馬にしました。前日の疲れが有りましたから皆の意見はあっさりと一致しました。
小田井から追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)までの一里余は馬でした。追分までの間は荒野で焼け焦げた大小の石がゴロゴロ転がっていました。
三年前の浅間嶽の大噴火の跡がそのままでした。浅間嶽は前日と違ってもうもうと黒い煙を吐いていました。少しばかり怖さを覚えましたよ。
馬方(瓊浦紀行には馬士と有る)が言うには、毎年四月八日に地元の人達が浅間嶽に登るのだそうです。
四月八日と言えばお釈迦様の誕生日です。あちこちの寺はお釈迦様の誕生を祝い花祭りと称して灌仏会や降誕祭などを開きますが、あの土地では浅間嶽が静まるのを祈願して登るのだと言っておりました。
麓から三里、頂上から一里の所に大きな穴が出来ているそうで、その底から煙が立ち上がる。穴の深さは分からないと言っておりました。そういえば、あの山にお寺があるのかどうか聞き漏らしましたな。
追分宿に着いたのは暮れ(午後六時)前でした。旅籠が多く並ぶ大きな宿場でした。名の通りに中山道と小諸、上田から越後(新潟県)の関川、高田、柏崎、出雲崎に至る北国街道との別れ道になります。
また、他所の土地には見られぬ風習でしょう。夕暮れの空に大きな凧(瓊浦紀行には紙鳶)が上がっていました。
何時の年も二月から五月までの間は五穀豊穣と諸々の安全を願って凧を飛ばすのだと言っておりました。語る馬方の言葉にも安全祈願がこもっていました。見える浅間嶽は山肌にところどころまだ雪を残していました。
翌日は端午の節句。明け方に思わず目を覚ます程の地震が有りました。浅間嶽が近ければ、何事か起きたかと四人とも布団に身を起こしました。
何事も無かったのが幸いです。風が吹き、時折小雨が混じる朝でした。
朝餉を頂いて出立を半時(午前九時)とゆっくりとしました。贅沢かもしれませんが、今日も峠越えがあるとて追分の駅から軽井沢の駅まで凡そ二里半、馬にしました。
街道筋に幾つもの馬頭観音をみながら沓掛を経て軽井沢に至りました。浅間嶽の噴火の跡が未だに生々しく残っている所でした。焼けて黒い大小の岩、石、溶岩、火山灰(瓊浦紀行には砂石)がそこここに夥しく田畑の殆どは灰の混じる荒地のままでした。
軽井沢の峠(碓氷峠)に関所が有ります。幸い何事も無く通れました。程なくして熊野神社に至ります。上る参道の右手に上州(群馬県)の妙義山が見えました。
信濃と上州の境に在る神社は紀州の熊野三山、出羽の熊野(山形県南陽市)と並び三大熊野の一つだと宮司の説明が有りましたが、悲しいかな、そこでも周りの樹木の多くは焼け焦げ、立ち枯れのままの無残な姿でした。
幹周りが三、四尺もある大木でさえそうでした。切り倒さねばならないけど、まだ社殿の方の建造、修理に金がかかると嘆いておりましたよ。
軽井沢(宿)で馬を返し、坂本宿(群馬県安中市)まで凡そ二里半。更に恐ろしい光景でした。三年経つのに山と言う山は灰色一色にして、春なのに青葉が見られません。降り積もった火山灰に樹木は悉く枯れていたのです。
行けども行けども街道筋の杉、松その他の樹木が悉く枯れていて、まさに一本も青葉を見ることが出来ませんでした。
江戸にも雪の如く降った灰、あの大川(隅田川)に流れ着いた人馬の死体を思い出して地獄の原もさもあらんかと身の毛もよだつ思いでした。
四人が四人、度々足を止めて溜息をついた所でした。時折、新築なった家が見られましたけども、噴火の時にはあちこちの家々や旅籠は悉く焼けたのだそうです。
大小の焼けた岩、石、火山灰を取り除かねば本当の土地の再建は覚束ないでしょう。火山灰を吸い込んだら身体を壊します。私はあの灰色一色の山や畑、立ち枯れた樹木を思うと今も鳥肌が立ちます」
「こちらも、この弥生(三月)に箱根の山(箱根山)が噴火したとて大騒ぎでした。
大事に至らず、それが幸いでした」
さゑさんの言葉に少しばかり驚いたが、続けた。