「それからその日は河渡(岐阜県安八郡神戸町)から舟で揖斐川という川を渡り加納宿(岐阜県岐阜市中心部、旧稲葉郡加納町)とかいう所に宿を取りました。
翌日の鵜沼宿を過ぎて見た観音山(岐阜県関市)と言うところ、そこは手前を木曽川が流れ、後ろは石山にしてこれまた甚だ景色の良い所でした。
明け六つ(午前六時)前に加納を発ったのですが、山坂十二里を歩いたとて細久手の宿場に着いたのは暮れ六つ半(午後七時)にもなりました。
流石に疲れました。四人共ども夕餉を頂き、地酒を薬にして早々に床に就いたところです。旅の酒は疲れを取る妙薬です。よく眠れました」
「今、四人と言いましたか?、他に誰ぞご一緒でしたか?」
「はい。松栄殿の父上、松村元綱殿が一緒に江戸に上って御座います。
今は薩摩藩に仕えてございますが、元は長崎も阿蘭陀通詞でございます」
聞いたさゑさんが奥方様の顔を見た。長崎からの私の手紙の内容を先生からお聞きしていたのだろう、登恵様は声にせず頷いた。
「それから大井宿や中津川宿を歩いたのですが、その辺りから左手に高い山脈が見えてきます。新芽には早い時期でしたから枯れ木にも見える山肌、土色の山間でした。
馬田殿も松栄殿も、紅葉の時期だったらさぞ良かったろうに、見たかった、と言っておりました」
イ 信州木曽路
私が喉を潤すと、お二方も慌てて湯飲みを口にした。
「二十九日に信州、信濃の木曽路に入りました。宿を取った馬籠宿(瓊浦紀行には麻古女宿と有る。岐阜県中津川市)は山間にある宿場です。
馬籠の少し手前、落合とかいう所近くが美濃(岐阜県)と信濃(長野県)の境でした。山坂超えの道なれば、馬にもやるとて(宿場)駅には大きな水飲み場がありました。石の道標には江戸へ八十里半(約三百二十二キロ)、京へ五十二里半(約二百十キロ)とありましたね。
並ぶ旅籠は旅路を感じさせますが、旅籠の招き看板と門灯が気をホッとさせてくれるものだと初めて思いました」
お二人は、黙ったまま頷いた。
「翌日、まだ夜も開けぬ暁も七つ(午前四時)に旅籠を出ました。身をすくめるほどの寒さでした。お気を付けてと主人の丁寧な見送りを受けました。
旅籠の目の前から急坂の石畳でしたね。それを踏み、続く馬籠峠までの半里(約二キロ)はハアハア、青息吐息でしたよ。杉と雑木に覆われた山中の坂道が延々と続きます。時折視界が広がり、振り返ってみる山並みが一時の慰めでした。
また、そろそろに寝から覚める熊も出るとかで、気を付けなされと出がけに言われましたけど、いざとなればなす術はありません。旅籠で買った鈴の音が頼りでした。シャンシャン、シャンの音が熊を遠ざけます。
やっとにたどり着いた馬籠峠から、下る妻籠宿までの一里半(約六キロ)は行けども行けども悉く杉と檜の山道でした。昼と雖も山中はうす暗く鬱蒼としていました。里近くにあった民家でお茶を手にした時は、それだけでほっとしましたよ。
妻籠もまた石畳のある宿で本陣、脇本陣に高札場があり、旅籠と木賃宿が軒を連ねておりました。出梁作り(梁を外壁より外側に突き出し床や軒を支える作り)に格子の桟と桟との間を狭くした堅繁格子のある家並み、風による被害を避ける、防火のためにと卯建のある家並みがズーっと続いて今更ながらに旅にある身だなと思いましたよ。
妻籠から三留野(瓊浦紀行には三戸野。共に長野県木曽郡南木曽町)を経て野尻(長野県木曽郡大桑村)とか言う所に至る右左も山、山、山でした。
四月も晦日になりますけど、時折見えた駒ヶ岳(木曽駒ケ岳)はまだ雪を被っておりました。また、左手には御嶽山が見えていました。
その日は野尻から更に凡そ二里ばかり先の須原宿(長野県木曽郡大桑村)に宿を取りました。夕も七つ半(午後五時)頃に到着しました。
私はハアハア言いながらやっとの思いでしたけども、三人の健脚には驚きました」
「お聞きしているだけで女子の足には無理とも思います」
登恵様の言葉に、頷くさゑさんだ。
「須原には木曽義仲公の造った寺や手植えの桜等が有ると旅籠の主が言っておりましたけれども、疲れもあります。見に行きませなんだ。
到着してから夕餉になるまでの間、パンパンに張った足を松栄殿が揉み解して呉れました。四人の中で、私が一番疲れが酷かった。