ツ 離杯、惜別
十四日。良い天気だ。朝から青空が広がっている。
この一週間、私の長崎離別を知ってあちこちからお声が掛かった。その度に大野屋を始め酒処、小料理屋でもてなしを受けた。
成秀館に学ぶ皆にも山登りをした仲間にも、また滞在を支援して下さった稲部殿、友永殿、本木殿、乙名、薛殿、そして吉雄先生に、有難うございましたと感謝の言葉を申し上げる外に無い。
僅かばかりの事だが、昼には稲部殿の所と先生(吉雄耕牛)の所に酒、肴を送り届けた。
夜には、最後になるだろう、良永殿の指導を受けた。
十五日。旅人方帰国届けを認めて稲部家に行った。久しぶりに会うことの出来た松(松十郎)にその後の手続きを頼んだ。
お茶をご馳走になり、半蔵殿も交えて暫し歓談した。早いもので半年にもなるかとそのような話にもなった。
本木家に戻らずに、帰りの足でそのまま九皐殿の所(江戸町)に寄った。
先日に、今日のこの時刻に寄れとの話があったけど、まさかその後に出島で蘭人たちの送別を受けるとは思いもしなかった。
九皐殿と一緒に出島の石橋を渡る時には朝から少しばかり降っていた雨が上がっていた。昼九つ(午後十二時)少し前に行った。
カピタンの部屋は机、椅子を片隅に追いやり、真ん中に卓子と椅子が並べられていた。久しぶりに会うブリーヒも居た。患者だったドロンスぺルケも参加していた。
こんなにも阿蘭陀人が居たのかと自分の知らない阿蘭陀人も居た。正直驚いた。パタビア人も一人出席していた。出島乙名に今日の当番だという通詞の方々も本木殿親子も着席していた。本木殿から今朝にも聞いていなかったことだ。
九皐殿が司会役だった。(江戸参府で)不在のカピタンに代わってと言いながら代表してブリーヒの送別の言葉を貰うなど思っても居なかった。また、ドロンスぺルケの診察に感謝しながらの送別の挨拶だった。
用意された料理は豪勢なものだった。牛肉、豚肉に海老、鯛等の海産物に生野菜だ。スープとてすり潰した馬鈴薯(ジャガイモ)の中に唐黍(玉蜀黍)の粒々が浮いていた。酒はもちろんのこと、赤いも白いも葡萄酒だ。一刻(約二時間)ばかりはあっという間だった。
皆さんに別れの言葉を言う時には長崎で覚えた彼国の別れ方をした。参加してくれた一人ひとりの手を握り、時には互いに肩を抱いた。
最後にブリーヒと向き合った時には、またの日に江戸の長崎屋で会いましょう、お元気での言葉に、不覚にも涙が出た。
帰りは九皐殿と本木殿親子等と一緒だった。
十六日。成秀館の阿蘭陀語の勉強会に参加した。終わった後、源次も徳次も藤兵衛も周倫も久吉等も、先に行って居るから必ず来いと言う。行かないはずは無いだろうと笑いながら言葉を返し、講義の場から先生宅の方に回った。
「早かもんたいな(早いものだな)。帰る時となったね。この長崎に居ればまだまだ阿蘭陀の書も英吉利や仏蘭西の書も独逸の医学書も目にすることの出来るとに、止めるわけにもいかんけんね(いくまい)。
良沢殿に玄白殿に、また中川殿や法眼(桂川甫周国端)殿、工藤殿によろしくな。
(工藤)平助殿は家屋敷を焼失したが上に、造作の金を持ち逃げされ、今度は後継ぎの倅ば亡くしたて(と)聞く。(カピタン随行で)江戸に上った者の便りにその様なことの(が)書かれてあった。
この一年余の御難続きにさぞ気ば落としてござろう。(江戸に)戻ったら出来ることは何かと支えてやってくれんね(下され)。
彼とは(江戸の)長崎屋ばかりでなく、豪勢な築地の屋敷でも議論したものじゃ。この長崎同様に幕府直轄で蝦夷地ば管理しアイヌ、オロシヤと交易ば開き、税ば掛けて幕府の財政ば立て直すとに役立つて(と)話し合ったものじゃて。其方も知る赤蝦夷風説考たい」
「はい。工藤様にそのようにお聞きしております。
江戸における吾の父とも覚える方にございますれば、出来ることはしたいと考えております。
江戸に戻れば吾も仙台藩に籍を移すことになりますが、それとて工藤様のお力添えがあってのことに御座います」
「何、仙台藩に移籍すると?。住まいはどうなるのね。仙台ね(か)?江戸ね(か)?」
「はい。吾とてもそれが最も大事なことで御座れば、この長崎に来る前に移籍するとしても江戸詰めになるよう、仙台(藩)の御家老様等ご重役の方々に重々吟味下さるようお願いして御座います。
ところで・・・、馬田殿は支障なくお奉行所の許しを頂けるのでしょうか」
「ハハハハ、其方の移籍問題とは比較にならんけん(ならないよ)。
高木殿(作右衛門、代官)にもお奉行様(松浦信桯)にも上申してござる。支障は無かよ(無い)。
旅立ちで支障の出ると(の)は何時の世にも身内のことよ。清吉が嫁ば取ったとは母親が亡くなってその三回忌ば済ませた後じゃて。昨年に十三回忌ば済ませとるけん(済ませておるから)倅は十(歳)になるかの?。
一人子やけん清吉は良く可愛がっておる。良く出来た子でな。教えに従って今の年齢から阿蘭陀語ば巧みに使いこなしておる。いずれ親ば超えるやもしれぬ。
その妻子ば置いての旅発ちに、後ろ髪ば引かれる思いの(が)あるやろう。
細君とて袖ば濡らすことになる。清吉は見送りの人々の前で妻子の涙ば見とうなかて言っておった」
二年前にもなろうか、思わず自分が一関を出立した時の吉のことが思い出された。
「出立の日はおい(私)と清吉は先に桜の馬場の先にある茶屋に行っておるけんね。
其方と松村とはそこで落ち合おう。桜馬場の街道筋の唐鐘堂ば過ぎて、直ぐの茶屋たい(だ)。
清吉も其方の江戸の蘭学話ば聞いているうちに己の語学力ば試してみたか、お国のために役立ちたかて己の気持ちば抑えがたくなったのだろう。
其方がこの長崎に来たことは、あの解体新書と同様に通詞仲間に大きな刺激ば与えたとよ。
先に(江戸に)上った荒井庄十郎(天真楼で桂川甫周や大槻玄沢、杉田伯元等に阿蘭陀語を指導、天明四年に蝦夷地探索等に参加した)の活躍ば見聞きしておるけんの。清吉も江戸に出て己の力ば試して見たかとじゃろ。
単なる憧れでは無かと。しっかりと支えてやってくれ」
思わず声にもせずに頷いた。
「今この長崎で阿蘭陀語ば良くしていると(の)は本木良永、馬田清吉じゃ。後に続く者として楢林重兵衛、志筑忠次郎、本木の倅、正栄かな。
時が変れば、彼らはいずれこの長崎ば出て行くようになるやもしれぬ。幕府が吾等(私ら)通詞の力ば必要とする時代の(が)来ておる。
声ば大きくして言うことは出来んばってん(出来ぬが)、やがて国ば開く時の(が)来る。世界が日本ば放って置かぬ。また日本は世界に学ばねばならぬ。
出立は二十六日と聞いておるが間違い無かね?」
「はい。二十六日は早朝になります。吾が松村宅(東浜町)に寄り、一緒にこの長崎を離れるようになります」
「うん。ちょうどその日は滝観音の御開帳のある日での。周倫、源次、徳次、定次郎等が滝参りに行くて(と)言っておったわ。
何、都合の良か方便での、其方と酒の匂いに別れば絶ちがたかとじゃて」
「滝観音は何処に?」
「ハハハハ。日見の駅も矢上の先じゃ。平間という所(長崎市平間町)になる。
其方の見送りにかこつけて何処ぞに泊るとも楽しみにしておる。
若い者の考えることじゃて、良か良か。ところで餞別をあげねばなるまいの。暫し待つが良い」
椅子から立ち上がった先生を見送った。この阿蘭陀屋敷を見るのも今日が最後かと、ぐるりと見渡した。
表に出ると、大分に遅くなったなと思いながら周倫や源次等が待つ石灰町の酒処に急いだ。