チ 松村松栄と馬田清吉

 三月六日。良く晴れた日だ。良永殿とソーン(正栄殿)のお陰で、へーステルの外治本の翻訳も理解も大分に出来た。

 また、成秀館に一緒に学ぶ仲間のお陰で酒も夜の遊びも江戸に居るよりはるかに覚えた。反省の気持ちもあるが、愈々(いよいよ)もって長崎を離れる時が来たのだとこの二、三日しきりに思う。

 周りの皆が良くしてくれる故に(なが)(さき)は居心地が良い。それに甘えて己を見失いそうにも感じている。

 今日( きょう)一日(いちにち)とて早朝に銭湯に行き朝風呂を使い、朝餉の後に九皐殿や大助(だいすけ)(服部大助、成秀館に学ぶ内通詞)等の所に寄り、一度戻った午後には波止場の(とう)兵衛(べえ)(成秀館に学ぶ内通詞)の所に行き、それから西上町の(稲部)半蔵殿の所に寄らせてもらった。

 知り合うことの出来た皆々がこの遊子に快く応対してくれる。夜には周倫、源次、徳次、松栄、友三郎など学ぶ仲間からの誘いでまた酒屋で酒の一杯だ。

 四つ(午後十時)に帰って来たけど、この頃はその後の山(丸山遊郭)行きの誘いを己自身が期待している。

 

 八日。早朝から東濱(ひがしはまの)(まち)(現、浜町)の松栄(しょうえい)(松村)の所に寄った。成秀館や飲み会で一緒になっていても、彼の家を訪ねるのは初めてだ。

 母親らしき方に呼ばれて出て来た松栄に、自分の部屋だという所に案内された。自分の部屋が有るなど、江戸ではそうそうにあることではないと変な方に思いが行った。経済的に不自由な生活には無いらしい。

 率直に話した。

「江戸に帰るけど、本当に江戸に出る気があるなら一緒に行くか」

 江戸行きの願望は先に聞いてはいたものの親子兄妹の間でどのように話しているのか、彼の江戸行きに家族が賛成しているのかどうか分からない。また、長崎を出るとなれば彼もまたお世話になっている先生(吉雄耕牛)や本木(良永)殿に改めてご挨拶とて必要だろう。

「本当ね?(本当ですか?)、本当。是非にそのように。江戸で西洋医学ば学びたかけん(学びたいのです)」

 喜びの言葉が先に出た。己が一関で江戸行きの許しを初めて耳にした時と気持ちは同じだろう。だけど、ご両親と良く話し合って返事を呉れるようにと伝えた。

 帰り道、馬田(ばだ)(せい)(きち)殿(当時四十四歳、阿蘭陀小通詞末席)のことを考えた。彼の年齢(とし)なれば己の考えもある。通詞の職を辞してまでも江戸に出たい、同行したいとの先日の申し出には驚きもした。

 誰とても組織の中に居れば少しの(いさか)いはある。通詞仲間の内にもそれがあるらしく、馬田殿と意見が合わない、彼は自己主張が強すぎる、勝手すぎると良からぬ評判も耳にしている。しかし、私と話せば、四十を過ぎても少年の様に江戸に憧れる胸の内を語った。それ故に断れなかった。

 むしろ彼の通詞としての力、阿蘭陀語の読解力、翻訳の力は江戸に行っても大いに役立つハズだ。かつての荒井庄十郎殿の様に(この当時、荒井庄十郎は福知山藩、朽木正昌綱候の所に身を寄せている)天真楼に学ぶ塾生達にも大きな刺激を与えるだろう。

 

 九日。朝から良い天気だ。好天が四、五日続いている。朝餉の後、良永殿に江戸に戻ることを伝え、お世話になったことの感謝を申し上げた。少し驚いた様子を見せた。

「はい。予定通りの月日(つきひ)であり、お陰様で何とかへーステルの外治本を自分なりには理解が出来ました。理解できていなかったところが大部に分かり申した。

江戸に在る先生(杉田玄白)の期待に応えられるほどにはなったと思っております」

 良永殿は首を縦にして頷く。

「もうしばらく居て英吉利語も独逸語も学んでいきなされ、まだ目にしているだけだけど英吉利語も独逸語も阿蘭陀の語に似とるけん、玄沢殿の熱意が有れば必ず英吉利語も独逸語も理解できるたい」

 正栄殿の有り難い言葉だ。

「はい。酒と女子は十分に理解しました。これ以上長崎にいたら英吉利語も独逸語も学ぶどころか、返って阿蘭陀語も医療の事も忘れてしまいます」

 反省も込めて申し出を茶化したけど、真面目な青年らしく、ソーン(正栄)は驚いた顔をした。私の日頃の生活態度にいささか疑問も感じていたのだろう、それ以上には何も言わなかった。

 心残りは幾つもある。医療のこと一つとってもここには江戸で見たことの無い医学書が多く有る。唐の国が教える書を見るのも、独逸、英吉利等の治療方法を学ぶにも、また治療薬となるこれまでに知らない万国の植物の種々を知るにも、異国の治療器具の数々を知るためにも今暫くこの長崎に居たい気がある。

 だけど、酒と女子に段々と甘えた己の生活は大いに反省しなければならない。お世話になった方々に、今日からは別れの挨拶をして回ろうと決めている。

 午前中はまずは稲部半蔵殿や(せつ)利兵衛殿、友永恒蔵殿の所に行った。また吉雄(耕牛)先生の所にも九皐(楢林重兵衛)殿の所にも寄った。江戸に帰ると伝え、お礼の言葉を述べさせていただいた。

 誰もが驚き、長崎にいた方が良い、この長崎に慣れたろうに何ならこの地で開業したら如何(どう)だとのお言葉も頂いた。

 皆さん一人ひとりに感謝だ。昼近くに本木家に戻ると、奥方様から留守中(るすちゅう)、松村松栄が来たとお聞きした。お腹が空いたでしょうとやさしい言葉を貰って、正栄殿若夫婦と一緒に昼餉を頂いた。

 その後に東濱(ひがしはまの)(まち)に出かけた。江戸行きの事で何か変事が起きたかと思いながら歩いた。思いもしていなかった。松栄は母親と二人暮らし、今の家の(あるじ)とばかり思っていた。

「父は今、薩摩藩の島津(しまづ)重豪(しげひで)公に仕えて薩摩に在ります。

 己の江戸行きば伝えたところ、返しの便りに(おい)(私)も江戸に一緒に行く、藩侯にお許しを得ると御座いました。

 父の御同行ばお許し頂きたいとですが・・・。父は江戸に長居ぜず、用が済めば薩摩に戻るて(と)申しております。母にも薩摩で一緒に暮らすようになるけんそれまで辛抱するごとて(するようにと)(したた)めてありました。

 己の江戸上りは承知してくれました」

 聞けば、父上の名は松村元(まつむらげん)(こう)(松村安之丞(やすのすけ)。号は(くん)()等)。四年前に小通詞の職を辞して島津公の招きに応じたのだと語る。

 それで今は母親との二人暮らしなのか、と思いを巡らした。

「父は本木殿と特に親しく、良永殿の訳著、和蘭地図略説や天地二球用法等ば校訂し、また、父自身の著書に万国地名考等の(が)ございます」

 驚いたの何の。そう言えば松栄と初めて会ったのは本木殿の家だ。夕食を一緒にご馳走になったなと思い出した。

 松栄を己の後の書生として抱えてくれるよう、江戸の先生(杉田玄白)や伯元殿に推薦するつもりでいる。正直、松栄の父上のことを全く考えても居なかった。

 本木良永殿と親しい関係にあること、元は阿蘭陀通詞であること、既に阿蘭陀本の訳著に新増万国地名考や和蘭(おらんだ)航海略記などが有ること、薩摩藩島津重豪公に仕えている事どもを江戸に在る先生に事前にお伝えして置かねばなるまい。

 先生宛に自らの筆になる状を(したため)めるよう松栄に指示した。大槻玄沢も承知の上の事と書き添えて、天真楼に学びたい、寄宿をお認め下されと状に記すよう伝えた。

 改めて聞けば、彼の年齢(とし)は二十一(歳)だと言う。吾の江戸上りより一つ若いなと思った。それから道中の日程等を細かに打ち合わせた。

 その後で同じ町内になる馬田(ばだ)殿の所に寄った。生け垣と土蔵のある家だ。庶民と言っても江戸の長屋暮しの庶民とは暮らし向きが大分(だいぶ)に違っている。

「今、松栄殿と道中の日程等を細かに打ち合わせてきた。それで、馬田殿の意見もござろうかとてお寄りした。見ていただきたい」

「おい(私)から何ぞ申すようなことは無かよ(ございません)。

江戸までの道中、お若い二人(・・)にこの足がついて行けるのかどうか、その方が心配ですたい」

 そう言いながらも、松栄と一緒に書き留めた藁半紙に馬田殿が一通り目を通した。

一息ついたところで、松村元綱殿についてお聞きした。

「はい。かつての先輩でもあり一緒に仕事ばさせてもろうた仲じしたい。(仲でした)

この長崎では吉雄(耕牛)先生に継ぐ阿蘭陀通詞と良か評判の有るお方でした。

おい(私)など足元にも及ばんです。

 通詞の中でも誰が良かろうかて(と)相談された(出島の)商館長チチングが島津公に推薦し(した)とお聞きしております。今は確か薩摩の藩屋敷に在るとか・・・」

 細君だろう、ご婦人がお茶を淹れてきた。

「うん。その松村元綱殿が一緒に江戸に上りたかて申してきておる。支障(さわり)は無かね?」

「それはまた驚きです。ばってん(でも)何の支障もございません。

 むしろ、一藩(いっぱん)(あるじ)に仕えるというとがどの様なことなのか、是非に松村殿にお聞きかせいただきたいものです」

「成るほど・・。この長崎を出立するのは二十六日。それまでにそれぞれが身の回りのことを片付けることとしたい」

「分かり申した。大槻殿が近くに江戸に戻るて(と)お聞きしてから、職ば辞すことについて秘かに吉雄先生にご相談させてもろうとりました。

 お奉行所の方には明日にもその旨書類ば届けます。通詞の職も下の方の役にございますれば何のお咎めも()かやろ(無いと思います)」

 側で耳にする、ご婦人のお顔に不安が有りありだ。

「奥方やお子はどうなされる」

「江戸に出てから考えます。江戸でどのような生活が出来るのか出来ないのか。

己一人の夢のために妻や子に苦労ば掛けることになるけん、暫く辛抱して待つごとて(待つようにと)妻とはそのように話しておるたい」

 一瞬、ご婦人に目をやる元綱殿だ。

「それでは、二十六日に必ず出立出来るよう、準備万端宜しくお願いします」

 半刻(小一時間)足らずの打ち合わせをして帰りの途に就いた。あまり深く考えてもいなかった。奥方やお子はどうなされるかと聞いたけど、この長崎に来て、己こそ一関に在る妻子の事を考えたことがあるだろうか。すっかり忘れていた気がする。

 吾もまた(よし)や陽之助のことを真剣に考えねばなるまい。反省しながら何も語らぬ路傍の石に目が行った。

 夕から宵五つ(午後八時)まで凡そ一刻(いっとき)(約二時間)、へーステルの手術編の分かりにくいところについて良永殿の丁寧な翻訳の指導を受けた。

 その後に、志筑殿との約束なれば酒処大野屋(大黒町)に行った。酒が無くとも別れの話は出来るが、天文、地理、窮理、今の日本の事情や世界情勢を語る彼の話にまだまだ興味がある。歳下(としした)とは言え、吾よりはるかに博学なのだ。学ぶのに年齢(とし)上下(うえした)も貧富も関係がない。

 酒は人と人との垣根を(はず)す妙薬だ。身体が弱いとお聞きしているが酒は別物なのか。彼もまた飲める口だ。天文、窮理等のことで新しく耳にしたことは無かったが、蝦夷地の開発に力を入れて日本が富めるようにすべきだとの段に驚いた。 

 工藤(平助)殿は先生(吉雄耕牛)から北国にかかる情報を得ていたと知っているが、蝦夷地にお奉行を置くなどその北の有り(よう)まで志筑殿からもお聞きするとは夢々思いもしなかった。彼もまたこの長崎で、得られる情報から蝦夷地に関心を寄せている。

 家が近所とて大野屋からの帰りの道々にさえ彼の話に耳を傾けた。感謝の言葉と、お休みなされと言って別れ、本木家の表戸を叩いた時には四つ(午後十時)を回っていた。

 

 十三日。馬田殿の宅に予め呼ばれていて訪ねた。通詞仲間や長崎会所の商人から乙名、近所の方々までもが大勢集まっていた。 広い家も狭く感じるほどだ。

 馬田殿の門出を祝う宴だった。昼の時刻(とき)を挟んで肴を食らい酒を飲むほどに、通詞を辞めてまで江戸に行く必要があるのか、江戸にそんなに魅力がるのかと出立を祝うのか引き留めに来たのか分からぬ御仁も居た。懇意の方々との別れの盃であった。

 時折笑顔を見せながら応対し、甲斐甲斐しく動き回る細君の姿が目に付いた。