セ 火事
五日、午後。薛殿に誘われ、浦上川に架かる梁川橋まで出かけた。出島の勝手方を勤めるドロンスぺル等と一緒だ。この時期、橋の辺りで白魚が沢山取れるのだと聞く。
漁を楽しみにしていたけど、着いて間もなく江戸が大火だと耳にした。ここまで連絡が来るのは余程の事だと不安を覚えた。
伝えに来た者と一緒に半里(約二キロ)の道を急ぎ戻った。
「正月二十二日に火事になり、風に煽られて三日続きの大火になったげな(なったそうだ)。付け火(放火)の疑いの(が)あり江戸は外出禁止令の(が)出されとるげな(出されているとある)」
状(手紙)を手にしている九皐殿だ。何処から火が出て何処まで焼けたのかと、文のその先を聞いたがそこまでは文に書かれていないと応える。
先生(玄白)や伯元殿等の安否を確かめる手は無い。良沢先生や工藤殿、法眼殿の家、屋敷とて難を免れることが出来たのか、またしても災厄にあっているのではと、ただただ心配になる。
異国の地に在ればとて、何とも歯がゆい。確かめる状を書かずばなるまい。
六日午後。何と今度は唐人屋敷の中で火事だと言う。それを聞いた時には大いに驚いた。直ぐに現場を見に行った。
幸いにして大工部屋の一部が燃えただけのボヤ騒ぎで収まっていた。他人事とはいえホッとした。
ソ 悟真寺、神吉洪庵との交遊
七日、三日続きの快晴。午後も八つ(午後二時)頃になって神吉耕庵の塾に学ぶ者だとて江濯という者と松本玄度と言う者が訪ね来た。
意仙の送別を兼ねた(丸)山行きで見た顔だ。二人ともまだ二十(代)も前半だろう。江濯と名乗った御仁が語る。
「先生(神吉耕庵)から解体新書を世に著した杉田玄白殿の一番弟子とお聞きしました。
同じ時期にこの長崎に滞在しているのも何かの縁、是非にも良く知り置く方が良い。西洋の医術を良く知るお方だとお聞きして訪ね来ました」
話を聞く間も、二月程前、(刑場で)一緒に解剖を見た後にご挨拶を頂いた神吉耕庵殿のお顔を思い出していた。
聞けば、江殿は備前国和気郡太田村の出だと言い、松本殿は播州尾崎の生まれだと語る。先生に急に呼ばれて長崎に来た。一月程前から船大工町の福紗屋に三人一緒にお世話(寄宿)させていただいていると語る。
そう言えば長崎に旅籠は無いなと今更ながらに思った。
約束通り濤平(岩城濤平、一緒に岩屋山に登った内通詞)が来た。
「これから稲佐山に行くけど、一緒に行くか?」
二人を誘った。
「唐人とカピタン等の(が)お墓がある。どうする?」
続いた濤平の声掛けに一瞬顔を見合わせた二人だったけど、直ぐに、行くと応えた。
波戸場より渡し舟に乗って対岸の旭橋とか言う所に着いた。
そこから一丁(約百メートル)ばかり坂を上って諸熊友三郎の父上(砂糖等を商う)の別荘だという所で一休みした。長崎の波止場(港)と町を一望出来る。
外観からして洋風であり、自分だけでなく江殿や松本殿も、ビードロのある窓(ガラス窓)や家の中の洋家具、置物等に目を見張った。
友三郎の出すお茶で喉を潤し、それから五人揃って悟真寺に回った。
山門に終南山悟真寺と有る。濤平の説明が付いた。
「幕府からお墨付き(朱印状)ば貰って出来た唐人達の菩提寺たいね。
興福寺や福済寺、崇福寺よりもはるかに古か(古い)」
まだ若草の揃わぬ平地に整然と並ぶ墓石の列を前にして、異国に滅とは如何なる思いだったのだろうと見知らぬ故人達を思った。
そこから阿蘭陀人の墓だという所に案内された。
「出島で阿蘭陀人等が亡くなれば、かつてはキリシタンとて石ば首に括り付けて海中に沈める水葬だったとよ。
それが歴代の出島の商館長等の陳情が功ば(を)奏して、また奉行所の口利きの入って悟真寺に阿蘭陀人墓地が出来たとよ」
友三郎が謂れを語った。
長さ七、八尺は有るだろう盛られた土の上に、ほぼ同じ長さの屋根が拵えて有る。横文字にヘンドリック・デユルコープと読める。
「出島の商館長としてパタビァ(現、ジャカルタ)から来る途中、船上で亡くなったヘンドリック・デユルコープのお墓たい」
今度は濤平の説明だ。
町に戻ったのは暮れ方(午後六時)になった。
耕庵殿に宜しくお伝え下されと濤平、友三郎ともども二人をお見送りした。
十日。先日のことも有り、特に用があるわけでもないけど七つ半(午後五時)頃に福紗屋を訪ねた。カステーラを作り売る店とて、その表からして甘い匂いがする。
耕庵殿も江殿も松本殿も幸いにして在宅だった。カステーラと一緒に赤いお茶なる物(紅茶)を初めて口にした。
今学んでいること、興味があることにお互いの故郷の事を語るなどして暫し歓談した。帰りがけになって神吉殿にお声をかけられた。
「若い二人だ。今後とも江、松本を宜しく頼む」
良き師と覚えた。
六つ半(午後七時)近くにして本木家に戻った。このところ仕事の方が忙しかった良永殿の講義はこの後に六日ぶりになる。
十四日も良永殿の翻訳指導、講義有り。
二十日。朝帰りになってしまった。昨日の午後に来た江(江濯)殿を源次、周倫、惣四郎に紹介し、連れ立って清水観音、大徳寺を見物して回った。
その足で夕方から酒屋町の酒処に五人揃って寄った。皆酒に強いし若い。夜通し飲み食いして一人見当百二十文(二八蕎麦が十六文)にもなった。
己のしたことだから金銭のことは仕方ないけど、朝帰りは駄目だ。良永殿や奥方様に申し訳ない、これまでに何度謝ったことか、反省したことか。
それでも良永殿は、今日は定時に帰れる。夜に翻訳、勉強しましょうと声にしてくれた。朝餉の味噌汁は胃に良い。赤い顔のまま、申し訳ないと思いながら出勤をお見送りした。
眠い目をこすりながら、酔い覚ましに一風呂浴びる、また伸びた月代を剃ってもらった。その帰り道、九皐(楢林重兵衛)殿の所に寄った。
「良かところに来たね。出島に一緒に行ってくれんね。ドロンスぺルフの体調の良うなかけん、、診てきて欲しかと」
八つ(午後二時)頃に出島から戻って、そのまま九皐殿が家で食事を振舞われた。その帰り道に平戸町(塾)に顔を出したが、昼頃からの雪が本格的に降り出したゆえ少しばかりにて家路についた。道々、夜の翻訳の講義は何処になるとへーステルの外治本を思った。
本木家の敷居を跨いで間もなく、小西雄蔵なる者が訪ねて来た。名前からして大坂の事を思ったがその通りで、小西長兵衛殿の親戚にあたる方だった。
「先日にこの九の州に来ましたが、大坂からの状に杉田玄白先生のお弟子さん、大槻玄沢殿が(長崎に)滞在しているとおましてな。訪ねて来たけん」
聞けば仲間と一緒に、薬になる草木や鉱物を探して諸国を巡っていると語る。冬なのに陽に焼けた顔と無精ひげが目に付いた。(平賀)源内先生を思い出しもした。
お近づきの印にと、またしても酒に誘われた。しかし、今朝方のこともある。今日の夜に用事が有ればと丁重にお断りした。
小西殿は暮れ方(午後六時)に帰った。良永殿の講義は五日ぶりになる。
タ 日々の中で 三 ①小西雄蔵
二十二日、一昨日の夕にお顔を見せた小西(雄蔵)殿が今日は村上玄昌なる方を連れて来た。一緒に諸国を巡っている相方だと語る。
「この長崎に来て、何か草木や鉱物等を知る阿蘭陀本を得ることが出来ましたか」
問われもしたが、新しいものはない。また過去に江戸で知った物とて今は手に無い。そのことを言うと、厳つい顔とは裏腹に白い歯を見せてニコリとした。暫し草木や鉱物等の話と大坂の話になった。
その後に、宜しければ後に酒をと誘われたけど夜には昨夜に続いて良永殿の講義がある。そのことを話し、また丁重にお断りさせていただいた。
二十三日。良永殿は、今日は出島の夜勤だ。
二十五日。昨夜に大雨だったけど、今朝にその雨が上がった。
夕になって小西(雄蔵)殿が今度は徳次や友三郎を連れて一緒に酒をと誘いに来た。小西殿はお顔が広い方だと覚えたが、天神講がある故にとまたもお断りした。
三度目となると申し訳なく思うが、優先すべきことは何かを考えてのお断りだ。
②天神講
江戸でも寺子屋の天神講を耳にしていたけど実際を見たことは無い。この長崎でどの様に行われているのか、大いに関心がある。
本木家では天神様(菅原道真公)を描いた掛軸を床の間に飾り、焼き鰈(魚)を真ん中にして金平糖とカステーラをお供えした。
夜に子供を連れて本木家を訪れる人の多いのに驚いた。
「父は、暇を見ては望む子らに阿蘭陀語ば教えているとよ(教えています)。
夜に来るとはその子等の親で昼に仕事の有るけんね(有るからです)」
小児にA、B、C、Dの文字を教え、よく使う言葉を覚えるよう指導し、次にサーメンスプラーカと言う阿蘭陀語の会話を集めたる書を使い口にさせ、文書の綴り方、書き方を教えていると正栄殿が語る。へーステルの外治の翻訳を教えていただいている合間に、自分もまた良永殿に習っている、江戸で荒井庄十郎殿に教えていただいたやり方だ。
③ドロンスぺルケの診察
二十八日。四つ(午前十時)頃、九皐殿と一緒にドロンスぺルケのその後の容態を見に出島に行った。
本人はいたって元気にしていた。診た翌日(二十一日)に届けた薬が効いた様で軽い流行り風邪で済みそうだ。
「後でまた薬を届ける、もう少し続けて薬を飲むように」
指示して本木家に戻ると、遊びに来たというのか誘いに来たというのか、午後になって徳次、江濯、藤兵衛が来た。
他愛無い話でかなりの時を過ごし、夕方になって三人と一緒に酒屋町の酒処に行った。
④江戸、大坂からの便り
弥生朔日((三月一日)。今日からまた月が変る。山(丸山遊郭)からの朝帰りだ。源次や徳次等に誘われてとはいえ三日続きの酒に二日続きの丸山朝帰りだ。
自分のだらしなさを自覚しながらも、酒にも化粧の匂いにも誘われる。耳にする三味線等の音曲も良い。
大槻家の家訓に遊興がごときは慎むべきとあるが、もっと強く、己自ら謹慎の事、酒、女子と加えねばなるまい。
暮れ方に江戸からも大坂からも状(手紙)が届いた。先生(杉田玄白)からの状には正月も二十二日から三日続きの大火になった。湯島天神裏の牡丹長屋の失火から始まった火事は浜町にも飛び火して来たけど、宅も天真楼も大過なく済んだとある。
読みながらに驚きもし、安心を覚えたばかりなのに、二月初めに工藤平助殿の長男、長庵元保殿が病没(享年二十二歳)したとある。思わず、えっと声が出た。
火事やそこらの災難をじっと耐えてきた工藤殿だが、流石に肩を落としているだろう。後継ぎとして元保殿に期待をかけていただけに落胆ぶりが想像される。
弟の源四郎殿は確かまだ十歳ぐらい。手狭な借家住まいとともに、その幼い姿を想像した。
(当時、工藤平助は浜町の借家に住む。娘、只野真葛(工藤あや子)著の「むかしばなし」に記述有り)
そして、その後に其方の仙台藩移籍話は整ったとの知らせである。心の中で、良しと声にした。
もう一つは大阪は兼葭堂からの手紙だ。時候の挨拶の傍ら、長崎からの帰りには是非にもお寄り下されとある。大坂を出る時に西遊は凡そ半年、江戸への帰りは春になると話していたがゆえの時を見た誘いだろう。