⑦友の自刃
二十八日。朝餉が済んだばかりに思わぬ連絡に驚いた。伝えに来た周倫とて慌てていた。寿軒(勝田寿軒、吉雄耕牛に学ぶ医生)が今朝方に自刃したと知らせが来たと言う。
周倫と一緒に彼が寄宿していた今町(現、金屋町)の麹屋に急いだ。
御上の検死が有って、遺体は既にお寺だと主(小田徳二郎)が言う。困ったことばしてくれたね(困ったことをしてくれましたな)と主の愚痴を背中に聞きながら新大工町の光源寺(魏々山光源寺、長崎市伊良林一丁目)に回った。
御経を上げていたお坊様に促されて、彼の遺体を見ることも無くお焼香をした。急のことなれば吾ら二人の外に誰も居なかった。
昼頃に一旦家に戻ると、聞きつけたのだろう、治兵衛(吉雄耕牛に学ぶ医生)が来た。
彼と一緒に寿軒と最も親しかったと聞く(山本)伊惣太の所へ寄った。周倫が先に来て居た。
「先生(吉雄耕牛)には既に伝えたばってん(伝えたけども)、寿軒の親や妻子にどんげん(どのように)知らせれば良かやろか?、遺体の扱いばどんげんすれば良かやろか?」
問われたけど吾とて分からない。鳩首話になった。
寿軒の生国が房州(千葉県南部)、彼は凡そ一年前に長崎に来たと初めて知った。三か月、それが半年、ついに一年と滞在が伸びたのだと伊惣太が語る。
言葉がそこで詰まった。代わって周倫が言った。
「熱心に先生の所で医術ば学びながら成秀館で阿蘭陀語学も学んどった。
それだけならよかったとばってん、情ば通じた女子の(が)丸山に出来たとよ」
滞在が長くなった一番の理由だと語る。
「その女子はまだ寿軒の死ば知らんとか?」
「早う(く)に知らせた方が良かばい(良かろう)」
衝撃の大きかった伊惣太を残して、七つ(午後四時)前に周倫と一緒に遊郭、中の茶屋に行った。
芍薬と言う、名にも劣らぬ美しい芸妓だった。
周倫と私の前もはばからず彼女は号泣した。二十(代)も半ばだろう。崩れ落ちた姿に掛ける言葉とて無い。
帰り道、寿軒の歳(享年二十九歳)が歳だけにと思うと(この時、玄沢は同じ年齢)、また、異郷の地に有ってと思うと自分も悲しくやるせなくなった。
ここ三日続いて有った良永殿との会が、彼の勤めの関係から今日は休みなのが幸いな気がした。
途中、伊惣太の所(樺島町)に寄ると言う周倫と別れた。
⑧本木正栄の語る志筑忠次郎
二十九日。良永殿に教えを頂いた。会が終わった後、正栄殿と二人になったところで先日に志筑殿にお聞きしたことを話した。
「そん(の)通りです。父は医学医術の外に天文ば(を)学んどんなっです(学んでいます)。
志筑殿も大いに関心ば寄せとっなっです(寄せています)。父と一緒に異国の書から天文ば学んどんなっです(学んでいます)。
夜空に一杯光り輝く星ですよ。誰しもあの星の正体ば一度は知りとうなりますもんね。
志筑殿は自分のことば(を)言いならんやったですか?(言いませんでしたか?)。
翻訳する上で志筑殿が考え造った語も相当ありますけんね(相当ございます)」
それは思ってもみなかった。
「重力とか引力とか、遠心力とか、私に分からんことば(を)二人で話しとんなる(話しています)。
志筑殿は窮理(物理学)の方も勉強しとなっです(勉強しています)。父も、天文ば勉強する上で窮理は欠かせらんて(欠かせられないと)申しておりました」
朝になっても正栄殿からお聞きしたことが耳に残る。先日に知った木星、金星等の星の訳語の控えの後に、意味が分からないまま忘れまいとて重力、引力、遠心力と書き留めた。
シ 岩屋山に登る
月が替わって今日から如月になる(二月朔日)。朝から良い天気だ。気持ちまでが何となく春めく。気晴らしも兼ねて山登りも良いでしょうと誘ってくれた周倫の誘いに乗って正解だったろう。
半刻(約一時間)ばかりの坂だった。山道は枯葉だけど、陽の当たる斜面のところどころでフキノトウが早くも芽を出していた。
「これがまた美味いんだ」
周倫も源次も濤平も久吉も、手持ちの袋にフキノトウを摘みとる。
「教えて呉れれば吾も準備したのに」
「玄沢のために料理してくれる女子の出来たて(女子が出来たと)?」
源次がからかい半分に言う。皆の笑いがこぼれる中、真面目な周倫が言う。
「帰ったら分くうで(分けましょう)」
吾の手にしたフキノトウを周倫の布袋に入れた。本木殿の奥方様に土産になるなと思った。
岩屋山の頂上からの見晴らしは実に良い。小高い山だけど遮るものが無い。長崎の町から西になるとても、そこから南に広がる青い大海原、その先に緑の唐の国までが霞んで見える。良い景色だ。
大きく息を吸い込むと、心地よい風が汗ばんだ額にも身体にも当たって通り抜けた。一首まとめてみた。
春の空 見やるもゆかし唐の海
それから神宮寺側に回って、握り飯を口にした。四人が四人、私の分まで握り飯もおかずも持参していたのには驚いた。四人は皆地元長崎の生まれだ。
「長崎の人は皆良か人ね(良い人だからね)」
と源次だ。その言葉を聞きながら、皆に感謝だ。
金毘羅山の時よりもはるかに参加者が少ないけど、楽しい一日だった。七つ(午後四時)過ぎに町に戻った。
約束していながら来なかった伊惣太の不参加が少しばかり気になった。
ス 志筑忠次郎(忠雄)
二日。今日も良い天気だ。朝餉を頂いた後、春の陽光を浴びながら西上町の(稲部)半蔵殿と(薛)利兵衛殿の所にフキノトウを届けた。
また、その足で江戸町まで戻って九皐(楢林重兵衛)殿の所に寄ったけど留守だった。帰る本木家の近くなれば、志筑殿は居るかと寄ってみた。
「おお、大槻殿。如何された」
「先日、本木(良永)殿の天文の事をお聞きしましたけども、志筑殿もまた天文の事を勉強している、窮理の事も詳しいと正栄殿にお聞きしました。
お邪魔でなければそれらのことども、少しお話いただけないかと寄らせていただきました」
「うん。上がられよ。今日は夕方からの勤番やっけん(勤番ゆえ)身体の(が)空いとっとよ。どうぞどうぞ」
案内された彼の部屋を見て驚いた。壁に大きな天象図が貼ってある。また、三段の本棚に横文字の背表紙の本が驚くほどに並んでいる。そう易くは手に入らないだろう、かなりの気配りと出費が無くば手にすることは出来ないと思う。
天球儀、地球儀がある。二尺は有りそうな木製の日時計もある。机と椅子もある畳の上には何やら書いた物が散らばっていた。
それらの一部を片付けて、ここに座られよと敷居に立ったままの吾が促された。
六畳一間は彼にとっては仕事場であった。机の上に開かれている本は横文字だ。
「お茶でも持って来うか(お茶でも持ってくるようにしましょうか)」
「いや、それには及ばぬ、それよりも忙しい中、急にて申し訳ござらん」
「ハハハハ、何の。して、特にお聞きしたかことは?」
そう言いながら顔はにこやかだ。正栄殿に二十五、六(歳)とお聞きしたが、まじまじと見ると童顔だなと思う。
「先日に正栄殿から重力、引力、遠心力とお聞きした。それらはいかなるものか。
また、翻訳に当たってどのようなことに気を使っているのか、己が翻訳するに当たって参考になるものが有るかと、そのあたりの事をお聞きしたい」
「ご承知のように、阿蘭陀語は吉雄先生、本木(良永)殿だけん(です)。
お二人がご近所やっけん(ご近所なれば)日頃から何かと教えてもろうとります。
天文は良永殿の手引きで阿蘭陀の書から学んどります。コペルニクスやニュートンの教えるところたい(教えるところです)。
天体の位置は季節と日を現し、船の航海と安全の確保のために正しく知ることが重要て教えとっとよ(重要だと教えています)。
日本の一年の季節、暦の計算はどうやら異国の教えるものと違っている。
吉雄先生の所で阿蘭陀正月ば御馳走になった日の(が)あるやろう(ござろう)。あれが異国の書の教える正月で、日本と唐の正月はそれより凡そ一月遅か(遅い)。
暦象はこの日本においても北前船など船に乗る者の命に関わることやっけん(ことゆえ)正さねばならぬと考えとっとよ。
引力、重力はその天文学から来る。物と物との間には常に互いに引き付け合う力の(が)働いとる。物ば手から離せば落下する。それは地球が物ば引っぱっとるけんさ(引っ張っているからだ)。
その引っ張る力、それが引力たい(である)。玄沢殿にも引力の(が)ある。物にも引力の(が)ある。ばってん(しかし)、その力同士は小さかげん(小さいので)引っ張り合ってもくっつかんたい(くっつかない)。それが宇宙と言うこの世の中の決まりですたい(決まりなのです)」
聞いても理解できない。ちんぷんかんぷんだ。引き合う力の中でも地球と物が引き合う力のことを重力と言うのだとお聞きしても分からない。
玄沢殿にも引力があると言われても余計に分からない。
「手桶に水ば入れて振り回してみらんですか(みなされ)。
手桶の(が)一瞬逆さまになっても水はこぼれない。遠心力の(が)働いとるけん(働いているからだ)。
手桶の中の水は外に逃げようとするが、グルグル回すことによって落下するより以上の力が働いている。それが遠心力だと言うのには何となく分かるような気がする。
天文、窮理(物理)のことを語るのに、物を動かす力(動力)とか、運動する物体の進む速さ(速力)とか、物の動く速さが増す(加速)、物を押し上げようとする水等液体の力(浮力)、外から力を加えれば変形するけどその変形した物が元に戻ろうとする力(弾力)等の言葉が出て来た時には(カッコ内は全て志筑忠雄の後の造語)ただただ志筑殿の口を見ていた。
志筑殿自身が熱の入った自分の語り口に気づいて(解説を)止めた。顔が赤らんでいた。
「申し訳ない、自分に知識が無くて・・・」
吾からそう言うのがやっとだ。ましてや知識も無く、話に出て来たコペルニクスやニュートンと言う人物についてお聞きすることはできない、恥ずかしい気がした。
志筑殿が、一呼吸おいて言った。
「阿蘭陀、独逸、払郎察、英吉利等の書は天文、窮理、地理、化学等々沢山の世界を教えている。世界の国々の状況ば伝えとるけん、異国に学ぶべきは多くあるとよ」
(平賀)源内先生にも荒井庄十郎殿にも、また中川(淳庵)先生や法眼(桂川甫周)殿、工藤(平助)殿にもお聞きした言葉だ。
江戸から送りだしてくれた先生(杉田玄白)の言葉でもある。志筑殿の家とも近く在れば、言葉にせずともこれが世界なのだと教えている吉雄先生(吉雄耕牛)宅の阿蘭陀屋敷をも思い出した。
それから良永殿にもお聞きした翻訳の仕方に掛かる話に触れた。それもまた驚くばかりだ。良永殿同様に言葉の路と語る。
「文も会話も同じたい(同じだ)。言葉の骨格ばなすものに人や物などば現す言葉(志筑忠雄が後に「名詞」と造語。以下カッコ内は志筑忠雄の造語)と、あれを、これをと指す代わりの言葉(「代名詞」)の(が)ある。
また、である、申すは人や物の動きば指す言葉(「動詞」)である。何々の上に、下には物の事実ば助ける言葉(「助詞」)たい」
良永殿と同じに語る。それを聞きながら良沢(前野良沢)先生の蘭訳筌(和蘭訳筌)、自分がまとめた和蘭鏡(後に蘭学階梯として充実、改称する)の例文を思い出していた。
志筑殿の所で優に一刻(約二時間)を過ぎた。
昼過ぎに帰り、彼に教えて貰ったことを忘れぬようにとて半紙に書き留めた。
今夜もまた良永殿のへーステル(外科書)の訳の指導がある。