唐人屋敷の門を潜るのは勿論初めてだ。お二人の世話にて館内を見て回る。

 正月と言うこともあるのだろう、何と言う物か、どの家の入り口にも赤や金の糸で「福」と刺繍の有る物が飾られてある。

 また貼られた赤い紙に「吉祥如意」、「門迎四季平安福」の墨書が読める。何処も二階建てだ。行き交う大人も子供もさっぱりとした服装だ。

 銅鑼や唐太鼓を叩き横笛を吹く者と、それに合わせて竹の先にある笠鉾みたいな物を上下左右に振る者の一団に出会った。面白い。皆が皆、ここでもてっぺんに赤いぽっちの付いた黄色の帽子を被っている。

 それから唐人船の船主の屋敷だという所に案内された。態々(わざわざ)玄関口に出てこられた方を、吉島殿がこの屋敷の主人だと紹介した。名前もお聞きしたが覚えが悪い。

「良か所に来られた、今日は新年の祝いの席やけん、唐人の料理ば一緒に食べてくれんですか(食べて下され)」

 案内された部屋を見て驚いた。今日は宴会の席に拵えが代わっていると横から薛殿が説明するが、その(なな)(やっつ)に別れた丸い卓子(テーブル)に唐人達に混じって日本髪の女子(おなご)が多く着席していた。丸山寄合町の遊女達だとそっと囁く。

 盛装してにこやかな顔をした唐人達は誰もが黄色い帽子を被ったまま椅子に座って居る。吉島殿が、彼らにとって黄色は貴人、高貴な人、裕福な人を意味すると説明する。 

 驚いて見ていると、おい達(私達)はここまでと言う。二人が先に帰ると聞いて、正直、戸惑った。

 卓袱(  しっぽく)料理と言う物をご馳走になった。先生(吉雄耕牛)の所でご馳走になった阿蘭陀正月の料理とまた違っていた。

 最初に汁物が出て来たのは同じだ。また卓子の上にドンと置かれた豚肉と(にわとり)の丸焼きを小皿に自分で切り取って食べるのも同じだ。

 だけど、豆腐と野菜と豚肉を油で炒めたもの、刻んだ野菜と肉とシイタケを小麦粉の皮に包んで蒸したらしい、まるで饅頭のようなものも出て来た。

 また、魚は焼いた物もあれば、衣付きで油で揚げた物もある。野菜も漬物にしたものに茹でた物もある。それぞれが大皿に一つ盛だ。

 フオークを使うよりも箸を使う唐人達を見ていて、日本(ひのも)()の食事のあり様は元々唐渡りだなと思いもした。

 また、酒とて初めて口にするものばかりだ。日本の酒も置いてあるが、唐の酒だと言う物(紹興酒等)を飲んで見たくもなる。

口にも喉にもかなりきつかった。

 己の興奮と腹が少し落ち着いたところで周りを見渡すと、色は赤にして福の字を黒く書き、その下に赤い房がぶら下がる雪洞(ぼんぼり)(ランタン)があちこちに飾られてある。中にはそれ全体が黄色の物もある。

 壁に飾って有る貼り紙の絵は龍と鳳凰と花だ。桃の絵も見られる。また赤い紙に吉祥如意や多福多財多年安等と読める。運ばれてきた料理を一旦置く卓子の傍にある衝立は縦に五尺、横に一間も有ろう。衝立を飾る花や竹の絵は螺鈿(らでん)細工(ざいく)になっていて実に見事なものだ。料理にも部屋の飾りにも、また、家具にも驚くばかりだ。

 今日は酒に飲まれてはならない。そう意識して料理も酒もご馳走になった。最後に紅白の丸餅入りのお汁粉を口にした。

 船主に御礼を述べ、まだ飲み食いする皆さんより一足先に唐人屋敷を出た。

 

 暮れ六つ(午後六時)になる。その足で早速に桜馬場(町)に回り、吉島家に御礼に伺った。案内された座敷で、唐人屋敷はどんげん(如何)でしたかと感想を求められたりした。貴重な体験だったと口にしながら、その手配等に気を煩わせたことに改めてお礼を述べた。

 少しばかりの時で辞したけど、吉島殿の人の好さを十分に感じた。

 

 吉島家から稲部殿の所にちょっと寄り、それから薛殿の所に回った。

「どんげん(如何)でしたか?

唐人達の生活習慣ば少しは知ることの(が)出来ましたか」

 吉島殿と同じように感想を求められた。

「はい。何もかも初めて見る物、聞く物、味わう物でしたので大いに勉強になりました。

参加している方々の中に(から)通詞の方々もおられたのですね。何人かの方から己のことをお聞きしたとて、ご挨拶をいただきました。

 また、唐人の生活習慣、特異なところを聞かせていただきました。宴と有れば円卓を囲むのが一般的だとか。椅子が使われる、日本人みたいに畳に座る習慣にないとか。

 また、大概は普段からよく帽子を被っているとか、着る物はチーパオ(旗袍)とか何とか言う上着に、下は筒状の(おもて)()だとか。

あの料理をシッポク(・・・・)と言うのだと教えていただきました。

 江戸では見たことも口にしたことも無い料理でしたけども、美味しいご馳走でした」

「喜んでいただいて何よりでしたい。

江戸に帰られたら、長崎の土産話になるでしょうかね(なりますかな)」

 笑顔を見せる薛殿に感謝、感謝だ。

 本木家に戻ったのは宵も五つ(午後八時)頃になる。思い出に残る一日になった。

          サ 日々の中で ニ ①丸山遊郭初体験

 四日。朝餉を終えたばかりの所にドロンコが来た。

 江戸でも田舎(一関)でも新年を迎えると本家、親類、日頃お世話になっている家々に挨拶に回る習慣があるが、長崎の習慣は分からない。分からないままに今日は新年の挨拶回りに何軒かに行くと言うと、ドロンコは一緒に行くと言う。

 菓子折りを持って稲部、薛、吉島殿の所に行き、それから友永、福県殿、楢林殿、先生のところ、意仙のところ等に回って本木家に戻って来た時には夕も七つ半(午後五時)にもなった。それで、ドロンコは皆さんによく顔を知られている人物だと分かった。また、彼が一緒に居てくれたお陰で訪問した先々で長居をせずに済んだ。友連れ故と、お茶以外の誘いを丁重にお断りするのに良かった。

 そのドロンコが一旦姿を消したかと思うと、先ほどに会ったばかりの意仙を連れて戻ってきた。目と鼻の先ほどしか離れていない(つき)(まち)に住む彼とて私と同じ(なが)(さき)の遊子でもある。ドロンコはこれから三人で船大工(ふなだいく)(まち)に行こうと言う。何の用事か船大工の町に用事が有りそうにも無い。大徳寺に行った時に確か(かご)(まち)の傍に有った町の名のような気がする。寄合町から大徳寺に行て・・・、そこまで思って思わずニヤリとしてしまった。船大工町は丸山の傍だ。今日一日、私の傍を離れなかったドロンコの目的はもともと(丸)山行きだったらしい。

 両国屋に寄宿する独り身の意仙を誘ったのも分かる。吾とて丸山の花街に足を踏み入れたことは未だに無い。(とぼ)けて行く気になった。そういえば、(とぼ)けるの字は、()ける、()れるの字にもなるなと余計な方にも気が回った。

 

 五日、兼葭堂の状(手紙)が届いた。ユニコーンの新しい翻訳を含め六物誌(りくぶつし)を己に出版させてほしいとある。伯元さんと(須原屋)太郎兵衛の手紙で事前に知っていたから驚きもしないが、費用の事を考えれば申し出を受け入れても良いのかもしれない。今の世に出版は隆盛を誇っている時にある。だけど、狂歌集や黄表紙や浮世絵と違って(われ)らの書の出版は採算を考えれば何時も厳しい。金子(きんす)(出版費用)の心配は要らないとある。兼葭堂に出版を委ねるとして、その際には()六物誌とでも「新」の字を書の名に付けるか、と思いを巡らした。

 

 夜中になって意仙が来た。当然と言えば当然、昨夜(ゆうべ)の丸山の話になった。彼は参りましたと言いながら自分の首を(かし)げた。

その首筋を見ると、女子の吸い口の後が鮮やかに残っていた。

「気づかなかった、他人(ひと)に指さされて分かった。恥ずかしい」

 笑った。だけど、自分とて昨夜の相手になった遊女の顔と身体(からだ)を思い出していた。

 部屋に置いていた酒をつまみ(・・・)なしで少しばかり飲んだ。和唐(わか)(らん)料理からそれぞれの望郷の料理話にもなって、意仙は周りが明るくなってから帰った。

 

 七日、久しぶりに平戸町(吉雄耕牛宅)に寄らせていただいた。来ていた吉雄佐七郎殿を紹介された。先生の弟になる吉雄作次郎殿のご子息だと言う。

「亡くなった父や伯父(吉雄耕牛)同様に阿蘭陀通詞ばして本草ば学んどっとです(学んでいる)」

 持参していた阿蘭陀の押し葉の書だという五冊を、その場で拝見することになった。見たこともない草木の絵図と解説に驚きながら、夜五つ半(午後九時)過ぎまで拝見させていただいた。

            ②江戸参府の面々

 九日。快晴。朝から青空が見えるのは久しぶりだ。今年の江戸参府に同行する方々が出島に参集していると正栄殿に聞いて、行って観ることにした。

 百人を超えるであろう人が大通り広場に集まっていた。あちこちに人の塊が出来ていて(にぎ)やかだ。正装したカピタンの姿が見える。九皐(楢林重兵衛)殿の代わりに、今年の江戸番(えどばん)大通詞を勤めることになったと聞く楢林()()衛門(・・)殿の顔が見えた。側に居るのは先生の所での正月の宴会(阿蘭陀正月)で紹介を受けた小通詞の()()()衛門(えもん)殿だ。

 書記官と言うのか事務官と言うのか、(出島に)泊った時にカピタンから紹介を受けた阿蘭陀人(プロンスベルゲ)の大きな声がかかると、人の塊が解けて皆がみな自分の立つ位置を予め知っていたかのように整列した。カピタンの右横に並んだお役人様に、高木殿(代官)の外に知る者はいない。その反対側に楢林栄左衛門殿等が並ぶ。

 カピタン等の前に、江戸に行く予定の者とて阿蘭陀人に黒ん坊(黒人)も並んでいる。百人にもなるのだろうか。ドロンコが一行の中に居る。

 それを見送る側の人々が取り囲む。知った顔が多い。通詞に乙名の方々、薛殿もいた。ブリーヒの姿も見られる。この後、今日は江戸に行く者も残る者も揃って諏訪神社に安全祈願に出かけるのだと聞く。

 彼らを表門まで見送り、私は静かになった出島の中を一人気兼ねなく見て回ることにした。広いなと改めて感じた。家屋の修理工事をしている。牛も豚も山羊も(にわとり)も元気だ。

 七つ半(午後五時)頃、門限を前に島を出た。

 

 十一日。夕刻に友三郎(諸熊(もろくま)友三郎(ともさぶろう)、成秀館に学ぶ内通詞)が来た。暫し雑談をした後、飲もうとて誘われ、一緒に(丸)山に行った。

 そこで周倫や意仙等に会うとは思いもしなかった。皆若い、苦笑いだ。

 

〔付記〕:間もなくにこの小説も前編を終わります。昨日、ブログを通じ小生にとって嬉しい便りが届きました。前回に投稿した「青春譜」に応援メッセージを寄せてくれたアメリカはカリフォルニアにお住まいの女医さんからです。

 シンガポールに住むご主人の所から帰って今は時差ボケと言っておりましたが、いいねポイントを呉れると共に近況が届きました。

 アメーバ事務局が小生の小説を世界に発信と謳い、初めて海外から応援メッセージ等を頂いたのがハワイ在住の方と、上記の女医さんでした。この小説の前に投稿していた「青春譜」の時でした。その小説で、知人からも最後に来て、こんに泣かされるとはお思わなかったよと言葉を頂きましたが、この大槻玄沢の前まで一日のアクセス数最高を記録していた(一日に197)のが青春譜でした。

 お陰様で、小説・大槻玄沢抄・前編も一日の最高アクセスは247を数えました。今月末をもって前編は終了の予定です。

 今のブログ投稿中に後編も書き終える、引き続き後編を投稿すると思いながら執筆をつづけていましたが、いかんせん大槻玄沢が「蘭学階梯」を世に出して(天明八年)、一躍、江戸市中に名が知られることになると、小生の想像していた以上に玄沢は多くの人々と交流していくのでした。

 蘭学階梯の第二版発刊にあの耕書堂さえも出てきます。版元耕書堂は東洲斎写楽の絵を扱った蔦屋重三郎が主人なのです。また、船が難破してオロシヤを凡そ十年漂流を余儀なくされた大黒屋光太夫とも法眼・桂川甫周を通じて交際するのです。蘭学者等が集まって江戸時代に陽暦のオランダ正月(新元会=新年会)を開いた、大黒屋光太夫も椅子に座って参加していると絵図を単に軽く見ていた小生の思いと大きく違っていました。

 どこまでを書き綴るか、執筆できるか、各博物館や関係する各自治体の歴史担当課等に問い合わせをしながら、また図書、図書館館等を利用して極力、文献調査実践の上で執筆をしておりますが、後編を書き終え脱稿する予定が大幅に狂っております。

 今に、素人ながらも、自分の作として確信の持てるところまで引き続き投稿するか、それとも投稿を休止する期間を3,4カ月いただくかと悩んでもいます。

 先日に、大槻玄沢から数えて六代目になる末裔の方からご連絡を頂き、二時間ばかり食事会を共にさせていただきました。昨年に、大槻玄沢にかかる遺品、著作物等が国の重要文化財になったことは知っていましたが、それに関わりのあった方にお会いできて恐縮しております。それ故、なおのこと作品執筆に新たな緊張を覚えております。