ク 本木家に移る

 二十二日。雪に(みぞれ)が混じる。朝方から先生(杉田玄白)や良沢先生、伯元さん宛に、また大阪は小西長兵衛殿と兼葭堂宛に状(手紙)を認めた。

 それから長崎に来て買った日用品と皆さんに貰った物、江戸に持ち帰るつもりで買った少しばかりの土産品を頭陀袋に押し込んだ。他の荷物も整理整頓すると、短い間にもこんなにも増えたかと思う。

 九つ(正午)過ぎ、曇り空に変わったところで、松が手配した大八車に荷物を載せた。己の身体(からだ)程にも無い荷物なのに大八車の大きいのには笑えた。

 稲部家に三十四日もお世話になったのかと指折り数えた。奥方様にお礼の言葉を言う時には少しばかり感傷的にもなった。

松が大八車を引いてくれた。

 本木家の二階に引っ越した。部屋の広さは十分だし、通りに面した窓から街並みの一画が見えるのも海が見えるのも良い。

ここから先生(吉雄耕牛)の所にも九皐(楢林重兵衛)殿の所にも出島にも近い。

 

 二十三日。昼餉の後に、本木殿の所(外浦町)に引っ越して来たと改めて先生(吉雄耕牛)の所に顔を出し、それから(はまの)(まち)万屋(よとずや)(まち)を回って諏訪町(すわまち)の友永殿、福県殿を訪ねた。

 お二人とも留守とて伝言を頼み、大川(現、中島川)に架かる十番橋、地元の人が()(がね)(ばし)(眼鏡橋)とか言う橋を渡って西上町(にしうわまち)まで行った。(せつ()兵衛(へえ))殿を訪ね、お世話になったとお礼を言い、それから稲部家に寄った。

 夜勤とかで半蔵殿に会えなかった。松と暫し話し込んで、帰りは夜も四つ(午後十時)になってしまった。

早々に帰りが遅くなったと気にしながら本木家に戻ったけど、本木殿親子もまた帰っていなかった。

 二人は、今日に年番通詞の引継ぎがあるとて朝から奉行所に出かけた。来年(天明六年)の年番大通詞は名村勝衛門殿だとお聞きしている。)

 二人が帰ってきたのは夜も深更(みさら)(午前一時)だった。今年に年番大通詞を無事に勤め上げた九皐殿が宅で、帰りにご馳走になって来たとソーン(正栄)が語る。

 

 二十九日。引っ越して七、八日になるが、西上町に居た時と生活にそう変わりは無い。

先生(吉雄耕牛)の所に顔を出し、一緒に講義を聞いていた意仙に案内してもらって新町(しんまち)に回った。港町とて魚を取るための諸道具や大工道具を扱う店が多く有るけど、新町には医療器具を置く店があるのだと言う。

 南蛮人(ポルトガル人)や紅毛人(オランダ人)が日本に持ち込んだ物をこの地元の職人が真似て作っているのだと意仙の説明だ。

 手足等の腫物から膿を出すのにメスは必要だし、便利だ。包帯なる物もある。江戸でも最近は包帯を使うようになったが、異国と同じような物をこの日本で作られ始めたのは近年の事だ。 

 店に並ぶ道具の中でもカテーテルと言う物に興味が湧いた。耕牛先生のあの診察の折に初めて見たものだ。

「へえ。小便の出にくかけん(時)、良く出るけんの」

店の主の言うよりも、実際に見て、知っていることだ。

 驚いた。外にもここにあるのは先生と職人とで作られたものだと語る。先生は梅毒の特効薬(昇汞(しょうこう)(すい)、昇汞(塩化水銀)を蒸気化した物)の販売にも手を貸しているとお聞きしているが、医療器具の制作にも意欲的なのだと意仙だ。

 結構な()がしたけど、江戸の皆に伝える物の一つと考えてカテーテルをニ十本ばかりまとめて購入した。店主が驚いていた。

            ケ 天明六年丙午(ひのえうま)―日蝕

 大晦日(陰暦)。朝餉の後、身体も頭も洗い、さっぱりして正月を迎えた方が良かろうと意仙の所(築町)に行き、連れ立って風呂屋に行った。

 夜になって、今度は意仙の方が来た。解体新書の中の幾つかを読み合わせ、意見を交わした。その後に、初めて彼の素性を聞いた。

 生まれは備前の国(現、岡山県)の金陵と言う所にして、城下から東に三里、瀬戸内に面しているところが生家だと言う。

 先生は岡山藩の侍医田中(たなか)遺徳(いとく)殿扶持五百石にして、これからの世の医者を志すのなら長崎に行き阿蘭陀医学を学べと送りだしてくれたと語る。 

 先生自身は祖先から南蛮流外科の流れを汲み、田中遺徳の名も何代かに継がれていると言う。一関の建部家(代々継がれているけ建部(たてべ)(せい)(あん))の事を思った。

 何処( )ぞから除夜の鐘の音がしてきた。夜九つ(午前零時)も過ぎ、新年を意仙と迎えた。

 天明六年(一七八六年)は丙午(ひのえうま)なり。丙午と聞けば火の災厄が多い年と聞くが、どんな災厄も無い方が良い。

 明け方になって意仙を見送り、今年も良い年であれと祈りながら歌を何首か作って見た。(カッコ内は筆者意訳)

 正月元朔朝快晴詔景満四方  (正月元旦の朝、快晴にして喜びの様は四方に満つ)

 東方遥隔松島客西隅偶迎瓊浦春(東の方、遥か離れし松島から来た遊子(己)は今、西の隅に有り、瓊浦(長崎)の春を迎えた)

 白河関外金華人日観峰辺瓊州春(白河関もまた遠く、目にする峰に長崎の春を知る)

  玉浦や わ(分)けててり(照り)そう初日影

  気や(のび)ん 日(陽)も長崎の花の春

 

 本木殿親子は早朝から西役所(奉行所)に新年の挨拶に出かけたと聞く。己自身は江戸に在る時よりも静かな新年を迎えた気がする。

 四つ半(午前十一時)頃になって日蝕(日食)が始まった。これを見逃すまいとて一睡もしていないままに眠い目をこすりながら待っていた。

 月が太陽の前を横切るために太陽が欠けて見える、太陽、月、地球の順番に一直線に並んだ時に起こる現象だと言う本木殿の教えを思い出しながら、右手を挙げ、薄目で空を見上げた。

 まともに日蝕の様を見たら目を傷めますとの忠告も、また日蝕を以って世に不吉なことが起こると言うのは世間の迷信だと言うことも理解できた気がする。

 日蝕は八分程なり。

 

 二日。夜に来た意仙とまた解体新書の読み合わせと、意見交換等を行った。

            コ 唐人屋敷の正月

 三日。思いがけない誘いだったし、貴重な体験をさせてもらった。

 朝餉の後、稲部殿、(せつ)殿に新年の挨拶をしようとて西上町(にしうわまち)に行った。稲部家に薛殿が来ておられ、挨拶が一片に済んだ。松は何処ぞへ出かけたらしい、居なかった。

 半蔵殿の奥方様の淹れたお茶をご馳走になりながら、凡そ一ケ月半余りの己の(なが)(さき)滞在の事が話の種になった。

「色々とみられましたかな。どげんです(如何です)、長崎は?」

 薛殿だ。

「はい。皆様のお陰であちこち見て回ることが出来ました。良いところですね長崎は。

生まれの東奥(とうおく)一関(いちのせき)や江戸に比べたら長崎はまさに南国です。

 雪の日、風の日も有りますが一足先に菜の花や水仙、見たことも無い南国の花が咲くのを見ると、遊子の身にある故か癒されます。

 また吉雄先生の所で学ぶ機会を得て、思いもしていなかったほどに多くの方々と知り合うことが出来ております。

 金毘羅山に上って肥前(ひぜん)の山々も海も見ることも出来ましたし、友をより知ることも出来ました。また出島に泊まり込むという貴重な体験をさせていただき、阿蘭陀人の生活習慣を良く知ることが出来ました。

 あちこちの町もお寺も皆さんに案内していただきました。のんびりしすぎて楽しすぎて翻訳の仕方を学ぶ、へーステルの医書の解釈、翻訳の分からないところの教えを乞う。江戸にある先生に出された宿題をついつい忘れてしまいそうです」

「ハハハハハ、医書の解釈、翻訳は本木殿がこれからご教授下さるとでしょう。私どもは出来ませんけんね(出来ませんからね)。

 出島もお寺も見られたとか言いよっなばってん(おっしゃっていましたが)、唐人屋敷の中は見たとね。?」

「はい、大徳寺から眼下に唐人屋敷を覗き見させていただきました。

荷揚げして貯蔵するとかいう新地蔵(しんじくら)を眺めさせていただきました」

「中はまだ歩いておらんね(歩いていない)?、見とらんやろ(見ていないの)?」

「はい」

「長崎と言えば出島に唐人屋敷やけんね(ですからね)。

 折角来られたのだ。是非にも唐人屋敷の中も見て行かんば(行きなされ)。唐人達の生活習慣も見て、知って下され。

 そうせんば(そうでなければ)、江戸に帰っても長崎に行って来て(た)とは言われんけんね(言えない)」

 そういう(せつ)殿に、これから直ぐ桜馬場(町)に行きましょうと誘われた。親しい間柄で唐人屋敷の世話役をしているという吉島(よしじま)()十郎(じゅうろう)と言う方を紹介すると言う。

 

 門構えの有る家だった。式台に出て来た吉島殿に上から下までジロリと身体()を確かめられたが、薛殿の説明に口から出た言葉は優しかった。

「今日は、唐人屋敷の中はあちこちで新年の祝いの宴が開かれとるけん。彼らの正月がどげん物かば(どの様な物か)知るにはちょうど良か(良い)。

 分かり申した。で、どげんする(どうなさる)?。おい(私)がこれから(唐人屋敷に)先に出かけて話ば付けるばってん、後で()なるね(後で来られるか)?。

 九つ(正午)に屋敷の門口で待ち合わせましょか。二人で来てくれんですか(来て下さい)」

 お二人の話は早かった。そうと決まって吉島家を後にすると、おい(私)はこのままで良かばってん(良いが)、大槻様はどげんしなさる(どうなさいます?)と途中、薛殿が聞く。私は一旦本木家に戻り、少しばかり身支度を整えたいと応えた。