④唐人屋敷

 十七日午前。二日前の約束通りに先生(吉雄耕牛)の患者を診るところを拝見しに出かけた。椅子に腰かけて三人の患者が診療待ちをしていた。

 先生は患者の話に良く耳を傾けている。田舎(一関)に在った時の「診療は患者の話を良く聞くことから始まる」という清庵先生(二代目、建部清庵由正)の言葉を思い出した。手伝っていた周倫も手際よく器具(医療器具)を先生に渡したり、筆記したりしている。 

 後で周倫に効能と取扱い方法を詳しく聞いたけど、目の前でカテーテルというものを患者のそれ(・・)に刺し込んだのには驚いた。初めて目にする処置方法だ。患者の小便が用意した(たらい)に、最初、勢い良く出ていた。

 それから後に、彼の案内で(うめ)香崎(がさき)の唐人屋敷に行ってみることになった。吉雄先生のご配慮だった。

 平戸町から十町とて離れて無かったろう。道々、周倫の説明に初めて知ることばかりだ。唐との取引は南蛮(ポルトガル)や阿蘭陀よりもはるか昔からと語る。そのことは、聞かずとも遣唐使や遣隋使、あるいは仏教の伝搬等からも想像がつく。

 故に幕府の異国人締め出しは唐人から始まったと思っていた。しかし、その考えは違っていた。

「出島が出来た後も凡そ五十年、唐人は自由に長崎の町ば歩いとったて聞きます。

そいばってん(だけど)、それが密貿易ば助長したとです。

 また、唐人といえどもキリスト教ば信じとる者が居るて(と)幕府が知った。

それで唐人屋敷ば作り、唐人もまた収容さるっごとなった(収容することになった)」

 周倫の説明が続いた。

(から)(ぶね)の(が)日本に着けば、銅鑼(どら)太鼓(たいこ)がそれば告げます。奉行所の役人や(とう)通詞(つうじ)が船に乗り込んで検視する。

 乗船してきた者の名簿ば出させ、踏み絵ば踏ませる。(しん)(ぱい)(交易の許可証)ば確かめる。積荷ば確認する。

 それがあってから日本人の人夫(にんぷ)が唐船から荷物を小舟に移して、決められた蔵(新地蔵(しんじくら))に荷揚げする。

 お釈迦様などが荷として有れば、それもまた唐土(もろこし)の寺に運び込む」

 目の前にする唐人屋敷の門構えは立派なものだ。乙名と番人の(ゆる)しが無いと入ることは出来ないと言う。

 表から見ても唐人屋敷は二階建ての家が続いていると分かる。船の様子を見るに、何か修理しているらしくて材木を肩に担ぐ者も見える。多くの人が動き回っている。

 その様を見ていて面白いと思ったのは帽子だ。皆一様に黒い丸い物を被っている。そのてっぺんに赤いぽっちが付いている。

周倫と暫し唐人のすることを眺めていた。

 

 帰り道に古川町の掘門(ほりもん)十郎(じゅうろう)殿(小通詞)の所にお寄りした。だけど留守だった。

堀殿も去年の春に江戸に来られた方だ。長崎屋で名村殿共々お会いしている。いずれ大通詞としてカピタンに随行して来られる方だと、中川(淳庵)先生の説明だった。

 それから紺屋(こうや)(まち)に出て唐人の履く草履(ぞうり)を買った(瓊浦紀行には高麗人(こうらいじん)の草履とある)。長崎土産にして江戸に持ち帰るのも良かろうと思う。

            ➄腑分け(解剖)を見る

 十八日。九つ(正午)過ぎに意仙(・・)が来た。先生(吉雄耕牛)の使いだと言う。

「先生等と一緒にこれから斬首になった者の腑分けば見に行く、一緒に行くね?」

驚きもしたけど直ぐに仕度を整えた。

 彼に付いて行くと、先生宅(平戸町)に十四、五人もが集まっていた。

 西坂と言う坂を上る。冬とは言え汗ばむくらいだ。キリスト広場(長崎市西坂町、西坂公園)と呼ばれているという刑場の周りには草も無い。赤い土くれのところどころに霜柱が見える。昨夜の雨に泥濘(ぬかるみ)も出来ていた。

 刑場を囲うように離れて杉林がある。初めて解剖(瓊浦紀行に解剖とある。腑分け(・・・)()()ない(・・)。)を目にする。己の心の臓はバクバクだ。

 勿論、奉行所の許しを得ての事だろう。解剖は先生(吉雄耕牛)の指図に従って己の誰ぞ知らない長崎の医者が行う。若い男の(むくろ)だった。

 いざ解剖が始まると、鮮血に驚きもするけど、メスの先を一つ一つ冷静に見ていられる。左の腎の傍と思しき腸の所に大きな団子状の物が二つ出来ていた。その膜は薄いらしくて()(割)かれると少しばかりの水が出た。水は豚の走り回る様にてあちこちに流れる。

 先生や本木殿も冷静に見ている。目は骸に行ったきりだ。また持参した半紙に見た物の覚えを控えている方が多い。周倫も意仙も友永(恒蔵)殿もそうだ。

 人体の内臓は阿蘭陀医書や解体新書の絵図等で何度見ていようとも、やはり実物だ。興奮を覚える。

「臓器の本当の色はこれがそうだ。時の(が)たてば変色する、これでもいくらかは変色しとる(している)」

 先生の言葉を聞きながら、思っていたよりも臓器の一つ一つが色鮮やかなのに驚く。

 

 平戸町に戻ったのは暮れ六つ(午後六時)に近かった。阿蘭陀屋敷と呼ばれている二階に皆が集まった。解剖に立ち会った者の誰ぞとて帰る者は居ない。

 皆さんの話や意見に耳を傾けた。暫くして先生のご配慮で夕餉が出された。私は食べる気になれなかった。解剖を初めて見たと言う友永殿も同じだ。周倫も意仙も委細構わず箸を進めていた。

 食事の後も、改めて先生や本木殿等から人体の構造と幾つかの病にかかる治療の方法等について語られた。大いに参考になったし、良い時間を持ったと思う。

 稲部家に戻った時は夜も九つ(午前零時)を回っていた。

            ⑥出島の夜勤

 十九日。朝から雪に風の大荒れの天気だ。それでもお誘いのあった通りに朝から本木殿の所に寄せていただいた。

 天文や阿蘭陀人の生活習慣だけでなく、今度は払郎察(ふらんす)()()(りす)のことどもに琉球(りゅうきゅう)にかかる話をお聞かせ頂いた。これからの世は阿蘭陀語だけじゃ無か(無い)。必ず払郎察(ふらんす)()(えげ)()()()も必要になってくる。その日の(が)きっと来ると熱く語る。

 難破して救いを求めてであろうが、通商を求めてであろうが阿蘭陀以外の異国船が日本の海に来ている。彼らの国の文明文化は日本よりもはるかに進んでいる、異国に学ばねばならないと語る。その口は昼餉を挟んで午前も午後も語るほどに本木殿ご自身が熱くなっていた。

 夕方になって、そろそろ行きましょうと誘う。出島の夜勤と言うものがどの様な物か興味深々だ。

 江戸( えど)(まち)の阿蘭陀通詞会所に一旦顔を出した。見知らぬ顔の方ばかりだけど、そこに居た皆さんが本木殿に挨拶する。それぞれを本木殿から紹介された。

 今日の番に会所側に泊る方(小使い一人)を確認し、出島側の泊番に当たるのが本木殿と記録係になると言う福県(ふくけん)(へい)太郎(たろう)と言う方だった。

 会所の中を見るのも初めての事で眺め回した。目に附いたのは阿蘭陀船が来れば役人の乗る検視船や通詞の乗る船に掲げる旗だという赤白青の阿蘭陀の国を表す旗だ。またそのとき一緒に掲げるという高張(たかはり)提灯(ちょうちん)だ。

 石橋を渡り表門を通った。検査とて番人に軽く身体を確かめられた。

(出島の)大通りから通詞達の詰める家屋とて見上げた。それだけで興奮を覚えた。本木殿、福県殿に続いて入ると、改めて部屋を見回した。部屋のほぼ中央に文机が四つ置かれてあり、暖を取るとて大きな火鉢も置かれていた。

 片隅に置かれた三段の本棚に種々の帳簿が並ぶ。風呂敷包みもある。押し入れに布団もあると言う。この畳と(いた)(ゆか)のある部屋で勤務し、交代で仮眠を取るのだと福県殿だ。

 波の音が部屋に聞こえて来る。平穏な夜なれば、福県殿の物語りを長々とお聞きすることになった。祖先の元の出は(から)だと言う。

 祖先は(ちん)長利(ちょうり)と言い、唐も(ふっ)建省(けんしょう)の出で交易を目的に日本に渡り財をなし、あの竜宮城、崇福寺の建立にも経済的に貢献したのだと語る。

 祖先は長崎での商いの成功者だった。己が福県と名乗るのは唐の福建省に由来すると言う。本木殿も初めて聞くこととて関心を示した。時折質問するも穏やかな顔をしている。

 

 二十日。朝から雪に雨が混じる天気だ。

「よう(く)眠れたね(よく眠れましたか)」

 本木殿だ。はいと応えながら、朝方に少し寒かったことを思った。

「もう用意の(が)出来ますけん。一緒に食べまっしょか(食べましょう)」

 平太郎殿だ。

「今日は吉雄(耕牛)殿も堀(門十郎)殿も昼前には()らすとよ(来ます)。

 その後に商館長のパルケレールとお会いするとよ(お会いしましょう)」

 本木殿が言う。そういう段取りになっていると初めてお聞きした。

 朝食は料理番小屋から運ばれてきた。商館長等の食べる物とは別だけど、毎日の食事は料理人として連れて来られたパタゴニア人と黒人が自分達の物と一緒に夜勤番の通詞の分まで作ると平太郎殿が説明した。パンに山羊の乳にホウレン草を油で炒めた物だ。

 朝食が済むと、お昼まで時間があるので豚の解体処理でも見ますかと平太郎殿が言う。驚きもした。話す内容とは違って静かな口調だ。

(  にわとり)やウサギを食肉にする所は田舎(一関)でも見ているけど、豚の殺すのを見たことは無い。(瓊浦紀行にはコンボイス=調理室にてとある)

 

 昼餉は食事部屋でカピタン、先生(吉雄耕牛)、堀、本木殿と一緒にご馳走になった。商館長パルケレールは食膳にワインを口にした。四人共そのお相伴に預かった。

 料理は厚みのある豚肉の焼いた物とニンジンを甘辛く茹でたもの、馬鈴薯(じゃがいも)を茹でた物が一つ皿に乗っていた。

 茹で上がった葉物の野菜がもう一皿に有ったけど、何なのか良く分からない。スープはすまし(・・・)湯で、(しじみ)に細かく切った豆腐が入っていた。勿論、フォークにメス(ナイフ)、レぺル(スプーン)だ。

 先生が私を、江戸に行けば必ず会うようになる方だと紹介したのには驚いた。

 食事を兼ねた歓談は半刻(はんとき)(約一時間)程だったろう。その後、商館長の部屋に場所を変え、商館長から、今度の江戸参府の際の書記役になると言うヨウナスとドロンスベルフなる者を紹介された。また、先生等と先に約束をしていたのだろう、そこに西吉吉郎兵衛((なり)(ひろ)、当時三十八歳)殿が来た。

 皆さんが集まったのはカピタンの今度の江戸参府に掛かる人選と行動日程等の打ち合わせのためだった。

暮れ(午後六時)近くまで時間を要した。

 

 初めての出島一泊は嬉しくも有り、驚くことも多かった。長い一日も短く感じた。帰りに本木殿の所に寄ると、大阪から(おのれ)宛の状(手紙)が届いていた。

 江戸の近況を伝える内容が大半だが、須原屋太郎兵衛殿が確かにユニコーンの原稿を受け取った、だけど兼葭堂が自分の方で出版したい、大坂で出版したいと言ってきたと伯元殿の状だ。

 

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   小生はブログに投稿によって収入を得ている者ではありません。小説を書き出したきっかけは、定年退職した後に見た自分の郷里の町村史にあります。故郷の今の子供たちに自分の育っている町や村に残る歴史、偉人を知ってもらおうと書き出したものです。過疎化によって小生の学んだ高校は既に廃校になってしまいましたが、大槻玄沢の郷里、一関周辺の高校生等が読んでくれてもいます。

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 なお、小説・大槻玄沢抄・前編は後に十回ほどの投稿で終了します。後編を既に400字詰め原稿用紙にして700枚を書き終えていますが、まだ大槻玄沢は38歳です。玄沢の生涯は68歳まであります。

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