カ 金毘羅神社参詣
十日。約束通り五つ半(午前九時)に成秀館に顔を出した。今日は塾生皆が挙って金毘羅神社参詣だ。塾生の一人、周倫がまとめ役で引率役だ。晴れ渡る天気が幸いだ。
足には自信がある。諏訪神社を側に見て過ぎ、本格的な登りになった。冬だと言うのに登る坂道は汗ばむほどだ。途中から崎陽の街も屋根々々も海も船も眼下に広がる。
半刻(約一時間)ばかりして金毘羅神社に着いた。思いの外こじんまりとした神社だ。境内とてそう広くない。拝礼して、一息ついて喉を潤した。
更に奥の院に登った。今度は四方の山々が視界に広がった。雪を被っている雲仙岳が見える。大村の海(大村湾)や時津の渡しも見える。十六人皆で横一列になって外気を胸一杯に吸い込んだ。
「飯だ」
周倫の声だ。皆が思い思いの場所をとる。
「玄沢の分も母上に作ってもらったけん、食べんと」
周倫が言う。途端に、おい(私)も玄沢の分まで持って来た、母や姉に作ってもらったと竹皮に包まれた握り飯が幾つも目の前に出て来た。半蔵殿の奥方様に作ってもらった握り飯を手にしたまま、唖然とした。皆で大笑いだ。
皆に感謝だ。持参した竹筒のお茶は冷めていたけど喉を潤すのにそれもまた美味しい。
「まだ有るけん(有ります)」
竹筒を手に掲げたのは、祝言を前に忙しくて来れなかった正栄と親しい多吉(名村多吉郎。十九歳。後に寛政八年、二十九歳にして大通詞となる。)だ。(成秀館で)講義を聴いたり、意見を交わしている時とはまた違った表情であり、行動だ。
友を知るとはこの事だろうとその場の皆に感激した。冬の山並みの景色を見ながらの握り飯は良いものだ。
傍に有る大きな岩に木兀山と刻まれてある。物知りの周倫に問えば、木も無きハゲ山を意味すると言う。黄檗宗の僧、木庵の書だと言う。
また、石門のある手前の祠に近づいて見ると、中の板碑に華蔵界と有る。
周倫は極楽浄土を意味する仏教界の言葉だと語り、書いたとする薫愛山という人物もその名の読み方も分からないと言う。
神社に仏に謂れのあるものばかりとて不思議な気がした。
頂から下る途中、周倫の案内で東の方、浦上に至るという道を選んだ。
里近くになって山羊や豚を多く飼う農家が見えてきたけど頗る険しい道だ。目の前の突き出た岩やゴロゴロした石に気を遣る。
それでも皆の足は休むことを知らない。口数だけは確かに減った。
浦上川を右に見ながら長崎の街並みまで結構な時間を要した。暮れ(午後六時)近くになるだろう、一時よりも陽が伸びたなと思いながら皆と別れ、そのまま外浦町まで足を伸ばした。昨日の出島巡りのお礼が気になっていた。
ご挨拶をして直ぐにお暇しようと思っていたが、本木家の夕餉をご馳走になる羽目になった。居合わせた松村松栄と山城立卓と言う医(学)生を紹介され、一緒に食卓を囲んだ。
西上町に帰る道々、今日一日を振り返って改めて塾生の皆や本木殿に感謝の気持ちが込み上げた。
もう宵も五つ(午後八時)を過ぎている。
キ 日々の中で 一 ①本木正栄の結婚
十二日。ソーン(正栄殿)の祝言の日だ。夜中に降りだした雪が朝になった今も降り続いている。少しばかり明るさの見える東の空に、この後、晴れて呉れれば良いがと思う。
宴に百人もの親戚、知人、友人、隣近所の人が集まると聞いており、何か手伝えることも有るかと朝餉の後、直ぐに本木家に顔を出した。
しかし、新築された大きな別棟を良永殿に案内してもらい、母屋に戻って己の住む所になるという部屋を見せてもらうことになった。
二階の六畳間だ。南になると言う窓はビードロの窓(ガラス窓)になっていた。驚きもしたし、十分な部屋だ。
「倅の荷物ば新居に移し終えるまで暫く待っとってくれんですか(暫くお待ち下され)」
忙しい中、また余計に気を使わせてしまった。
その後、声を掛けて貰ったという近所の方と一緒に薪割りと餅つきを手伝った。その間に、新築なった家の二階が夕方から花婿花嫁の祝いの席、夜通しの宴会になるとの話だ。
それを聞いて、今日こそは酒に飲まれないようにと自制する気になった。また、始まる前の今が良いとて、雪景色を見ながら和歌を一首認めた。
いろそえてけふ白妙にふり初る 雪の花婿雪の花嫁
十三日。窓の外は明るくなっていた。花嫁花婿の居た席は金襴緞子の座布団がそのままだ。あちこちのお膳の上に残るのは横倒しになった大小の徳利と空の盃だ。中の襖を開け放って三十畳ほどの部屋に百人も居たのかと周りを見渡した。
「目の覚めたですか。寒うは無かね?」
笑いながら声を掛けられた。もう五つ(午前六時)になると言う。
残った十数人は側で一塊になってまだ酒を酌み交わしている。誰と分からぬ方に声を掛けられたけど、見れば周倫と源次、徳次に友吉も残っていた。
賑やかに笑い声の絶えない宴席だった。何時に誰が帰ったのか、何時に自分が寝てしまったのかまたしても覚えがない。
朝餉に出された焼き魚も良いつまみになる。残り物だと言いながら、出された料理にまた酒の追加だ。
昼八つ(午後二時)になって花婿や花嫁の親戚だと語る方々等にやっと解放された。本木家を出ると、周倫も源次等も酒臭いままに別れの手を振った。
「気ば(を)付けて帰れよー」
周倫の声が背中に聞こえた。
②月蝕
十五日。今日は月蝕が見られるという。朝餉の後に塾(成秀館)に顔を出し、それが終わると本木殿の所に寄った。覚えの曖昧な月蝕の現象を知ることも良かろう。
「我々の居る地球も月も太陽の周りばグルグル回っとるけん。
太陽に近い惑星は地球。太陽と地球、月の(が)一直線上に並び、地球が間に入り込むことで月に当たる太陽の光の(が)欠ける。それが月蝕の起こる理たい」
良永殿にお聞かせいただき、驚きもしたが納得した。
天文もまた面白いものだと思う。季節によって星の位置が変わることも以前より理解が進んだ気がする。今度から夜空を見る目も違ってくるかもしれない。本木家を辞す時には夕七つ(午後四時)にもなった。
その足で意仙の所(河野意仙。岡山藩の医者。当時、広東人参、唐物等を扱う築町の両国屋に寄宿。吉雄耕牛に阿蘭陀語、医術を学ぶ)に寄り、暫し話し込んだ。
互いに遊子の身なれば、長崎で初めて見たこと知ったことの諸々に話が尽きなかった。
「腹も減ったな」
彼の言葉を合図に表に出た。酒めし処を探した。七つ半(午後五時)にもなるだろう。西国とて周りはまだ薄明るい。
彼と別れると、すぐ近くと聞いて名村元次郎殿(当時、大通詞、号は能栄)宅に寄らせていただいた。去年の春(天明四年)にカピタンに随行して江戸に来られた時、先生(玄白)や法眼殿(桂川甫周)、中川先生(中川淳庵)と一緒に(江戸の)長崎屋でお会いしている。一緒に金毘羅山に登った多吉(多吉郎)の父上だ。
江戸にかかる小話をして五つ(午後八時)過ぎに稲部家に戻ると、留守中に本木殿親子が尋ね来た、不在と知って帰ったと聞く。
昼にお会いしたのに何か特別な事でも生じたのかと思いもした。申し訳なく思う。
間もなく月蝕が始まった。
③阿蘭陀雑話
十六日。朝霜が降りて寒い。成秀館に顔を出し、その後、昼近くに本木家を訪ねた。幸いに良永殿がご在宅だった。昨日の不在をお詫びした。
「何、正栄の婚礼の時のお礼を言いにお邪魔したけん」
本人は出島に出勤していると言う。夜勤も有り、今日は戻らないと言う。そして、時間がある、良かったら阿蘭陀のことどもでも話しましょうと語る。
阿蘭陀語の翻訳に阿蘭陀人の生活習慣を知ることも大事だと語った芝の先生(前野良沢)の言葉を思い出した。阿蘭陀人の生活習慣等をお聞かせいただくことにした。
阿蘭陀は「ほおつらんど」。阿蘭陀と言うのは唐、清の国の人々の音訳なのだと言う。書き表す文字も和蘭、荷蘭から法蘭得亜等もあると聞く。
葡萄酒は「阿刺吉」。「珍酡」とも言うが別物では無い、製造の方法にて呼び方が違うだけだと語る。
また「びいる」(阿蘭陀語、Bier)という麦にて作る酒が有り、米にて作る酒は無いのだと言う。「びいる」は飲食のこなれ(消化)を助ける物にして阿蘭陀人は食事の度に飲む。また阿蘭陀では米が穫れ無いのだと語る。
ビードロは南蛮人(ポルトガル人)の言葉で、阿蘭陀にては「がらす」(阿蘭陀語、Glas)と言う。酒は「うゑいん」(阿蘭陀語、Wijn)、水は「わふとる」(阿蘭陀語、Water)、「びいる」を飲むときのがらすは「びいる・がらす」と教えていただいた。
また、面白いことをお聞きした。阿蘭陀人の朝夕の食料は「ぱん」だと言う。「ぱん」は小麦の粉に醴を入れ練り合わせて焼き蒸したものだと教えて貰ったが、「ぱん」は阿蘭陀語では無いのだという。阿蘭陀では「ぷろふと」(阿蘭陀語、Broode)と言う。「ぱん」と言う言葉が何処から来たのか分からないが、阿蘭陀の隣国になる払郎察という国は「ぱん」を「ぱいん」と言うのだそうだ。それが転じて「ぱん」になったので無いかと語る。(いずれも大槻玄沢著「蘭説弁惑」から)
暮れ六つ(午後六時)近くになって、貴重なお話にいささかの興奮を覚えながら本木家を後にした。その帰り道に九皐(楢林重兵衛)殿宅(江戸町)にお寄りした。
九皐殿の父君、楢林栄左衛門殿が今年は年番大通詞を勤めている、今度の春に江戸番大通詞として江戸に上る予定だと本木殿にお聞きした。年番の大通詞と小通詞が翌年の江戸番の大通詞、小通詞を勤める決まりなのだと知った。
年番大通詞は通詞仲間を代表する者として奉行所や会所の商人等との渉外に当たるし、通詞達を管理する。また江戸番の大通詞は将軍等への貢ぎ物の手配全般と随行する通詞等の人選を行い奉行所に提出するなどカピタン参府の準備を行うとお聞きした。
九皐殿の父君を知り置くことも後々大事なことと思った。