三日。情けない。酒は飲んでも酒に飲まれるな。先の事もあり己で己に言い聞かせていたのに酔いつぶれた。先生(吉雄耕牛)宅に泊めて貰う羽目になった。
夜九つ(午前零時)も過ぎて残ったのは若い通詞等だけだ。側に来た遊女の一人の柔らかい手に触れたのを覚えている。丑の刻(午前二時)まで時折音曲が有ったのも微かに覚えている。だけど、松も皆さんも何時に帰ったのか覚えがない。
コプ(コップ)酒だった。葡萄酒が美味しかった。焼酎が喉にも胃にもきつかった。もっと飲めるもっと飲めると誰かが側で音頭を取っていた覚えがあるが、記憶は飛んでしまっている。自分が何時に寝床に運ばれたのかさえ全く覚えがない。
お調子に乗った自分、酒にだらしない自分が情けない。家訓の役儀謹慎の事の教えに酒を慎めとは無いが、己の場合には酒もまた固く慎まねばならないのか。
朝餉を断り、お茶だけ貰って本木殿宅に急いだ。しかし、良永殿は既に出勤して不在だった。約束を破った自分が悪い。
特別に参加させてくれるようカピタンや出島の乙名等と交渉してくれていたのだろう。二日前に出島の阿蘭陀正月を体験なされと言って下さった良永殿の折角の手配を無にしてしまった。
通行証(出島門鑑)の無い私が一人で出島の出入りを許されるハズも無い。酒臭い自分がのこのこと今更に門番の前に顔を出し、呼び出してもらうのは本木殿に失礼だ。
今日の事が有るからと、本木殿は、昨夜は早くに帰宅の途に就いたのだろう。江戸から来られた、あの杉田玄白先生の一番弟子とちやほやされるままに酒を自制出来なかった自分が情けない。一番弟子と言えるのは有坂さんだ。
がっかりもしたが、終日ソーン(正栄)と阿蘭陀のあれこれ、長崎の良きところを話し合えたのだけは収穫だ。
夜になって雨戸を叩くほどの大雨が降りだした。今日一日、何度悔やんだことか。暮れ方に先生(吉雄耕牛)宅に一寸寄らせていただいて昨夜のお礼を言ってきた。
明日には必ず本木殿の帰宅を見計らってお詫びを申し上げに行かねばなるまい。
オ 出島
五日。成秀館に顔を出した。先生(吉雄耕牛)の阿蘭陀人の生活と、それに関る阿蘭陀語の講義をお聞かせいただいた。ドロンコも参加していた。彼は講義内容の補佐役だった。
講義が終わると、参加していた通詞見習い等の皆さんに先日(阿蘭陀正月)の時にお世話になったお礼を言って回った。塾生の一人周倫が誘う言葉をかけてくれた。
「今度、金毘羅山に行こう」
周囲からも、見晴らしが良いぞと声がかかり、同調する者が出て皆で行こう、行こうの合唱になった。
それから江戸町に行った。あの阿蘭陀正月の日に吉雄先生の卓子で紹介を受けた楢林重兵衛殿(当時三十五歳、号は九皐)の所に寄った。
一関で清庵先生(二代目建部清庵由正)からお聞きした金瘡跌撲、また江戸の先生(杉田玄白)からもお聞きしていた楢林流外科(開祖は楢林鎮山、一六四八~一七一一)の流れを継ぐ宗家だ。素面の顔でご挨拶をしておこうと勝手に決めて、改めて寄らせていただいた。
御在宅だった。快く迎え入れてくれた。解体新書の話が出て、暫し江戸の外科に掛かる近況等の話にもなった。昨日一昨日の阿蘭陀正月のこともある。ホッとしたというか、良かった。
八日。嬉しい。本木殿から己(私)の分の出島の通行証(出島門鑑)が貰えたと連絡が来た。明日に早速に出島の中を案内するから、良かったら今日これから来いと言う。
阿蘭陀正月の失態依頼、モヤモヤした気持ちがどこかに有った。ここ数日はお詫びを込めて迷惑にならない程度に本木家に顔を出していた。それが久しぶりに晴れやかな気持ちになった。
午後から本木殿宅に寄らせていただき、そのまま泊めて貰うことになった。出島の出入りに当たって注意すべきこと、出島の中に在ってしてはいけないことどもをお聞かせいただいた。それから今の状況とて、平戸町の方(成秀館)は如何かと聞かれた。
「はい。塾生の皆さんに良くしてもらっております。江戸で荒井庄十郎殿に教え頂いた阿蘭陀語の会話集(サーメンスプラーカ)が当たり前に使われていることに驚きました。
また、よく使われる言葉を集めた綴り(単語)集がある、辞書が豊富にある。文章を書き習うのに皆がみんな頭を寄せ合って喧々諤々話し合っているのには驚きました」
それを言いながら、ふと、かつて父上に貰った阿蘭陀語の紙の束を思い出した。ABCDの二十六文字はともかくとして、未だに理解き出来ないままの綴りの写しの集の元はこの長崎にあったのではと思った。
九日。昨夜の風雨はどこかに去った。まだどんよりとした空模様だが私の心は晴れだ。お世話をかけっぱなしの本木殿に感謝するしかない。
良永殿の勤めの時刻に併せて朝五つ(午前八時)に本木家を出た。先生(吉雄耕牛)の所からも本木殿の所からも出島は本当に近場だ。
出島が扇の形をしているのはあの大徳寺に上って見下ろし、分かっている。
出島を目の前にして本木殿の説明だ。
「島の右と左、東側から南の隅までも、また、西から北の隅までも三十五間(約六十三メートル)有っと。手前に見える北から東の隅まで、横に九十六間(約百七十三メートル)、見える阿蘭陀の国旗や建物等の後ろになる南から西の隅までの横幅が百八十間(約三百二十四メートル)。
(参考図ー早稲田大学図書館所蔵、司馬江漢「西遊旅譚」の出島図)
(参考図ー早稲田大学図書館所蔵。松平斉民「芸海余波」の出島図)
阿蘭陀東インド会社は一年に銀五十五貫目(現代の金に換算して約十三、四両、百四十万円~百六十万円)の地代を日本(人)の家主たちに払うとよ」
江戸町から初めて出島への石橋を渡る。自分の気持ちが昂揚している。本木殿が一緒なのと門鑑を持参していた所為だろう、門番の身体検査は軽くして終わった。
出島の中に入ると、直ぐ右手の奥の方に広場が有り阿蘭陀の国旗が掲げてある。国旗は三本の柱と何本かの綱に支えられて一本の竹竿のてっぺん(旗竿)だ。
風を受けて揺れている。江戸の長崎屋でも見たことのある赤、白、青の横に流れる布だ。その先の水門が見える所が船の積み荷の上げ下げを行う場所だと言う。
「手前に並んでいるのが交易品等の倉庫蔵だけん」
その建物が何棟か続いていた。門番の居る所から更に奥に進むと、右左に大きな通りが広がった。
「ここが、この島の大通り」
右手の先には先ほどに見た倉庫と水門も見える。
「倉庫の並びと、道路を隔てた向かい側にある建物、あの建物の中にカピタンの部屋と、通詞や交易品の検査に当たる役人達の詰所があっとよ」
その屋根の上に突出した小屋が見えた。
「あれは、何」
「うん、港に出入りする船ば監視する物見台。
後で寄って、今日に出勤している通詞仲間等に挨拶ばしましょう」
大通りの左手の左右に見える建物についても説明があった。阿蘭陀人や一緒に来たパタビア(インドネシアのジャカルタのこと。当時ジャカルタは阿蘭陀の植民地)の船乗り達の住居と専用倉庫だと言う。行ってみましょうと声を掛けられた。
外から見るだけでも住居と倉庫の違いは分かる。道の中程まで進んで、右手に柵に囲まれた野菜畑が広がったのに驚いた。
冬とて黒土だけの所も多いが、緑濃い法蓮草と葉を枯らした大根、人参がまだ土の中と分かる。
ところどころ収穫されたのだろうけど白菜も列をなしていた。
「今は冬ばってん(冬だけど)、馬鈴薯(ジャガイモ)や赤茄子(トマト)など季節の物も収穫してあるけん」
本木殿の説明を聞きながら歩を進めた。左手の住居、倉庫の並びの間に挟まれた柵を過ぎると、今度は目の前に築山もある大庭園が現れた。落葉して枯れ木にも見える並木は桃の木で、棚は葡萄棚だと言う。
「阿蘭陀人はこの出島で桃、葡萄ば収穫し、自分達で酒(葡萄酒)ば作っとるとよ(作っている)」
説明に驚くばかりだ。大通りの端の突き当りに行ってまた驚いた。豚小屋に牛小屋に山羊の小屋だ。豚も牛も山羊も実際に飼われていた。餌やり等の作業をしていた三人をまじまじと見ることになった。黒人を初めて見た。(瓊浦紀行には「クロボウヲ初メテ見ル」と有る)
「顔の(が)陽に焼けとるごと見えるニ人はパタビア人たい(です)」
黒人に驚く私に、横から本木殿だ。アジア同胞の国の人故だろうか、日本人とそう変わらずに見える。(瓊浦紀行には「アジア同胞ノ国ノ人故ニヤ日本人ニ甚ダチカシ」と有る)
「これが阿蘭陀人等の口に入る。肥えた豚も牛も山羊もこの出島で屠殺されるとよ」
聞いて呆気にとられた。黒人やパタビア人、阿蘭陀人がこの日本で牛や山羊を飼い、乳を採り、肉を自前で確保していると聞いて驚かない者は居無かろう。己の失態からカピタン主催の阿蘭陀正月を経験できなかったことが返す返すも悔やまれる。
また、良沢先生(前野良沢)や先生(杉田玄白)等の言っていた阿蘭陀人の生活を知ることも翻訳に役立つと言う言葉を思い出した。
しばし、牛、豚等と三人の作業を眺め見て大通りを戻った。カピタン部屋だという手前に大きな鐘が吊るされて有る。また水を貯めて置く人工の池が有る。
鐘は普段は食事が出来たと伝えるために鳴らされるが、阿蘭陀船が日本に着いたときや積み荷が船から降ろされるとき、日本からの交易品を船に積み込むときの合図としても鳴らされるのだと言う。また、池は万が一の火事等の時に備えて造られたものだと聞いた。
今日は所用があってカピタンは不在だと言いながら、ここがカピタンの住居、一階が食料品と物品の倉庫で二階が住まいになっていると説明する。
それから直ぐ隣にある通詞や役人達の詰所に案内してくれた。詰所は役人と通詞とで別々の部屋になっており、役人(乙名)部屋を通り過ぎて通詞部屋だった。
そこには(楢林)重兵衛殿や志筑(忠次郎)殿に成秀館や阿蘭陀正月の席で知り合ったばかりの通詞の方々も居られた。
お茶を勧められたが、仕事の邪魔をしては悪かろうとご挨拶もそこそこに、また本木殿の気配りも有って早々に退散した。

