少し間があって、松十郎と一緒に入って来た老人が床の間を背にして座ったのに驚いた。あのブリーヒと迎えに来てくれた老人だ。いや、部屋の明かりに照らされ、整えた身なりとお顔を改めて拝見すると、老人と言うよりももっと若い。五十前後とお見受けした。
「よう、来られましたな。長旅にさぞお疲れでしょう。大槻様の事は方々からお聞きしとります。おい(私)は稲部半蔵と申します。おいも通詞の一人で今は小通詞の役にございます。
若か(い)頃からカピタンにお供して何度か江戸に上ったことはありますばってん、まだ江戸番(江戸在住)にはござらん。
松十郎が江戸参府の折に何かと貴方様にお世話いただいたとか、有難う御座います。
大したことも出来ませんばってん、長崎にお出でになったからには吾が家でゆっくりして下され」
その後まもなく、お茶を持って来た女人が奥方で、倅の松十郎(後に勇次郎と名を改める)だと改めて紹介を受けた。
先に荷物の置かれた部屋に松(松十郎)に案内されて、そのまま四つ後(午後十時過ぎ)まで彼と話した。旅人届けのこと、外治のこと、特にへーステルの外科書の分からないところの訳し方、外科治療の道具として今どの様な物が異国から伝わっているの か、薬がどの様な物が使われているのか知りたい、学びたいと話した。
松は、外科治療の翻訳に詳しいのは本木殿だと語る。また本木殿は患者を診ているのだと言う。先生(玄白)が吉雄耕牛先生から本木殿の紹介を受けたのは確かな事らしい。地元ではその耕牛先生の外治治療もまた有名なのだと語る。
十八日、快晴。松は何処ぞに出かけたらしい。朝から姿が見えない。午後になって、長崎の港の景色は見事なればご案内すると言う半蔵殿の誘いで出かけた。
夕刻に帰宅すると、正栄殿が来た。半蔵殿と私を前にして、父、良永の使いだと語る。
「吾が家での受け入れの準備の(が)整うまで、暫く稲部家で大槻様ば(を)お世話いただけませんでしょうか。
その相談ばさせていただきたく参りました」
「良かよ(良いですよ)。大槻殿がこの長崎に来られることは、おい(私)も先生(耕牛)にお聞きしておるけん、手伝わせていただきます。
医業も行っている本木家やもん。(本木家だもの)長逗留と有れば何かと整える用事も有るやろう(有るでしょう)。
大槻様にはずっと吾が家に居られて、本木殿の教えば受けに通うということも出来るかもしれんね(しれませんね)」
「いえ、父は必ず吾が家に滞在していただきたく、受け入れるて(と)申しておりますけん。その準備の(が)整い次第に必ずお迎えに参ります」
「分かり申した。本木殿に承知したて(と)お伝え下され」
その間、半蔵殿は終始笑みを絶やさなかった。自分がつくづく皆さんにお世話をお掛けするのだなと改めて思う。
その後に、長崎奉行所にも在所の届けが必要とか、宗門改めに誰が来るのだろうとかの話になった。
正栄殿は松の帰りを待つと言ったけど、肝心の松は帰ってこない。会えぬまま五つ(午後八時)頃にソーン(正栄)は帰りの途に就いた。己のためにする皆さんのご親切を有り難く思う。
十九日。昨夜遅くに帰った松が朝に出島に出勤した。己の寝坊も有ってすれ違うほどの時間しかなかった。
午後になって雨が降り出した。無事に長崎に着いた、本木良永殿にお会いできたと先生(玄白)、伯元さん宛に状(手紙)を認めた。
夕方になって薛利兵衛という方が宗門改めだと言って訪ねて来た。
「年がら年中何時もの事たい(だ)」
笑みを見せながらの言葉は私の緊張を解した。役目とは裏腹に良い人と覚えた。
二十日。朝に雨が上がって晴れ間が広がった。今日が冬至と聞く。友永殿が訪ねて来た。改めて先日までのお礼を述べ、この通り今は稲部家にお世話になっていると語った。
「はい。ここは兄の家です」
「えっ」
「苗字が違うけん、思わなかったかもしれんですね。稲部半蔵は私の兄で、松十郎は私の甥になります」
驚いた。そして、薛殿から旅人届けの事を心配していると聞いて来たのだと言う。薛殿とは懇意の中だと語った。
「届は、滞在の目的、滞在期間の予定に何処から来たかば(を)認め、名前と年齢ば書いて上町の長に出すことになります。
決まりの紙はございませんけん、半紙に書き付ければ私がお届けいたしますたい。
その後、日ば改めてお役人様の旅人改めの(が)ございます」
旅人改めで、後に番所から呼び出しがあると言う。
友永殿が帰って、本木殿の所から鮮魚が届けられた。稲部の奥方様にそのまま提供すると、今日は冬至ですもん(の)ねと言う。気のせいかその後の言葉を濁したようにも見えた。夕にも一緒に頂きましょうと言う。
松はまだ帰らず、半蔵殿と奥方様と三人で一緒に夕餉を摂った。
夕も過ぎた遅い時刻(午後八時近く)にドロンコが来た。
「薛殿の所でこれから冬至団子ば作るけん、迎えに来た」
「えっ、宗門改めのあの薛殿か」
そうだと頷く。半蔵殿も奥方様も気を付けて行きなされと送りだされたが、少しばかり不思議な気がした。
薛殿の宅は同じ上町の中だと聞く。行くと、立派な門構えの有る家だった。外明かりが少ない。暗がりに家が大きく見えた。
案内された部屋には松十郎も六兵衛もソーン(正栄)も居た、ブリーヒも居た。驚いたのが正直なところだ。清川多平次だと名乗る初めて会う方も居た。
茹で上がった団子と酒肴をご馳走になり、皆さんの地元話にドロンコやブリーヒの祖国、阿蘭陀の話で座は盛り上がった。
帰りは四つ半(午後十一時)にもなった。道々に松の顔を時折盗み見たけど何時もと変わりない。卓子に有った小さなクリスト(キリスト)の絵はたまたまなのか、大丈夫なのかと何故か聞けなかった。お役人様の取り締まりと、宗門改めの立場にある薛殿が殊更に気になった。
二十三日。朝から雨で一日中家に居た。
夕七つ(午後四時)過ぎたところで雨が上がり、同じ町内に住む午次郎方を訪ねた。江戸から来た私が半年余り滞在すると聞いて昨日の夜に態々日時計を届けて呉れた方だ。日時計は江戸にても貴重。早々に手に入るものではない。ましてやその値は如何ばかりか。何も分からずに受け取って、帰った後に包を開けて驚きもした。
周りは暗くなり始めていたが、お礼を述べにと寄らせてもらった。門も生け垣もある。ここも立派な屋敷だ。中に案内されて畳の部屋の一部にビードロ(ガラス)の戸が組み込まれているのに驚きもしたが、話の中で、出島の地主の一人だと聞いてもっと驚いた。
出島は長崎の商人達が金を出しあって造った人工の島だと先生(玄白)や良沢先生にお聞きしてはいたが、まさか目の前にその地主に会うとは思いもしなかった。
「出島は海を埋め立てて造られた島だけん(です)、最初は築島、形が扇型とて扇島と呼ばれていたとよ。
地主だった商人にも浮き沈みがあるけん、百五十年も歳月ば(が)経っと、土地の権利ば(が)子孫から他人に移っとっとね」。
今も年に銀五十五貫目の地代が阿蘭陀東インド会社側から日本側に支払われる、それを出島の管理に当たる御上(幕府)と今の地主の土地の持ち分に応じて分けられるのだと語る。また出島の住居、倉庫等は地主の負担にあるものの、その内装等は阿蘭陀人の費用にてどうにも変えられると言う。出島の歴史を聞きながら、早くに出島に行って見たいと興味が余計に湧いてくる。
夜も八時過ぎ、稲部家に戻って夕餉を頂いたところに、松の弟だという宗次郎殿が来た。松の紹介に寄れば、阿蘭陀から持ち込まれる砂糖の商いをしている、勝山町の方でお菓子の店を出しているのだと言う。
「江戸でも喜ばれる、あのカステーラを作っていると?」
「はい。カステーラは南蛮人(葡萄牙人)が日本に持ち込んだもの、今の紅毛人(阿蘭陀人)に始まったもん(の)では無かとよ」
笑顔を作りながらの答えだ。甘いものに目の無い自分と、歴史に疎い自分に赤面した。笑い顔は松によく似ているなと思いながら、どうして通詞にならなかったのだろうと頭の片隅で思った。
イ 吉雄耕牛、阿蘭陀屋敷
二十五日。昨夜来の雨がまだ軒を叩いている。
天気が悪くても今日は行かねばならないところが多くあるなと頭の中に一日の予定を描いた。
朝餉の後に風呂屋に行き、伸びた月代を剃ってもらった。四つ(午前十時)になって身を整え、呼び出された今町(現、金屋町)にある番所の旅人改め方に出かけた。
緊張もした。だけど稲部家から吾身の請合書が出されているとてお役人様の取り調べは思いのほか簡単に済んだ。
西上町まで戻ると、その足で早速に組頭や乙名(町内の行政事務を扱う町役人)に挨拶に回った。松に事前に書いてもらっていた地図と名前が役に立った。
九つ(正午)になって雨がやっと上がった。雲間から青空も見えるようになった。八つ(午後二時)になってドロンコが迎えに来た。まだ時間があるとて、先に桜馬場の威福寺に案内すると言う。
一町(約一.一キロ)ばかりついて行くと、寺で有りながら天満宮もある所だった。ドロンコは、江戸に上る際にはこの寺にカピタンも随行する阿蘭陀人も通詞達も勢揃いする、見送る人と別れの盃を酌み交わす場だと説明した。境内を見渡しながら百人もが集まるというその時を想像した。
その桜馬場から外浦町の本木家に寄ったけど、良永殿は出島の当直とかで留守だった。ドロンコは事前の約束をしていなかったらしい。道々、良永殿は小通詞助役の身に有ると語る。先に教えられたことから判断して和解(通詞)の中ごろの役どころかなと思った。
それからさほど離れていない平戸町(現、万才町)に回った。約束は夕七つ(午後四時)だという時にはまだ早い気がする。
初めて見る吉雄耕牛先生宅だと言うその家屋敷に表からして驚いた。武家屋敷の様に大きい。
「これが、あの大通詞、吉雄耕牛先生の家?」
「そうでーす」