九 崎陽滞在記

            ァ 稲部家に落ち着く

 先ずは手元に十一月十六日と記す。これから(なが)(さき)(長崎)での生活が始まると思うと、やっと来たなと言う感慨よりも、これからの半年、出来るだけのことはやるぞ、先生(玄白)の宿題を頑張るぞ、多くを知るぞと気持ちが昂揚して来る。

 朝から降っていた雨が午後になって上がり、友永殿に聞いたとて(稲部(いなべ)(しょう)十郎(じゅうろう)が訪ねて来た

「いよー、お元気でしたか」

 肩を抱き合った。彼が春にカピタンの江戸参府に随行してきた時以来だから七、八カ月ぶりの再会だ。

「おう、元気よ。長崎道に入って冷水(ひやみず)(峠)と()()の難所に雪と雨に祟られて大変だったけどな」

「ハハハ、早速に(きゅう)(こく)は甘くはないかて(ないぞと)洗礼ば(を)受けましたか」

 それから暫くは江戸の話に長崎のよもやま話になった。

 三好(  みよし)(すけ)(もり)が来た。彼もまたカピタンの江戸参府にお供して来て知り合った仲だ。友永殿から連絡があったと言う。

「この春は行かれんやったばってん(行けなかったけど)、去年に(江戸に)上った時には大変お世話になりました。有難うございます。随行も江戸も(私は)初めてやったし、毎日が天文から地理、医学に掛かる学者から薬屋、本屋、菓子屋、商人までもが長崎屋に来てカピタンやアルツ(arts、阿蘭陀語で医者)に質問攻めですけん(から)ね、驚きました。

 また滞在期間中、大通詞以下随行した者はあの二階の一角に押し込められて江戸見物も出来ないとは、いやはやそれも驚きでした」

 それを聞いていて思い出した。正栄殿もあの時に・・・居た。

「大槻様や伯元さんに江戸名所絵図や錦絵ば(を)頂いて、説明ばしてもろうたと。参府の行き帰りに江戸の街ば(を)少しばかり見たと(の)が記憶に残っとります。

 江戸の街のあちこちから富士山の(が)大きく見えたと(の)には驚きました」

「己が長崎屋に行ったのは去年の春、今年の春と二度だけです。

先生(玄白)に連れられて私も伯元もカピタン御一行に接することが出来たのは去年の四月が最初です。

 阿蘭陀人と一言二言の言葉を交わすことが出来たのも、随行してきた通詞の方々や皆さんとお話しできたのも去年が初めてでした」

 応えながら、去年の四月のお別れの会の情景と、その後日、何枚もの江戸名所絵図等を持って二日ばかり伯元と長崎屋を訪問した場面が思い浮かんだ。

「去年もこの春も、長崎屋で親しくさせていただいたドロンコ。彼もまたお元気でしょうか」

「ええ、元気、元気。元気かですたい。大槻殿が長崎に来たと彼に伝えておきます。

 ドロンコも、自分達は江戸の街ば見ることの(が)出来んやった。江戸見物の(が)許されんやったて不満たらたらです。

江戸の名所絵図、錦絵だけでは確かに満足出来んけんね(出来ない)。

 京(京都)では海老屋(えびや)に泊りますが、お奉行様のお許しがあって長崎に帰る出立の日に()恩院(おんいん)祇園社(ぎおんしゃ)二軒(にけん)茶屋(ぢゃや)清水寺(きよみずでら)(ほう)広寺(こうじ)大仏(だいぶつ)三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)を見物して下ります。

 また、大坂は大坂の長崎屋に泊り、やはり長崎に帰る日に住吉(すみよし)(神社)の御神楽(おかぐら)を見物し、天王寺(てんのうじ)五重塔(ごじゅうのとう)に上って市中を眺め、(どう)(とん)(ぼり)角座(かどざ)で芝居見物が出来るのです。

 住友(  すみとも)泉屋(いずみや)(大阪市中央区島之内に有った)で銅吹(どうぶき)(銅の精錬)も見ます。江戸は管理が厳しすぎますよ。窮屈でした。

 ところで、いつまで()らるっとね(居られる)。せっかく()られたのだ、一年はこの長崎に居られよ。

 ここに居れば阿蘭陀に限らず異国の事情を知ることが出来ます。大槻殿が思っている以上に異国は進歩発展しているお国です。大砲、鉄砲など武器に限りません。長崎の港を見ましたか。見れば異国の船の大きいことにも、その頑丈さにも驚きます。

 着ている物、日用の品々、女子(おなご)の化粧道具、大槻様の医学に関わる書籍、本、医療道具にお薬に、健康を維持するために異人達の行う予防方法などにも驚かれるでしょう。

 天文から地理、測量、算術、化学、ありとあらゆる事に驚くでしょう。()とて阿蘭陀語だけではありません。あの地球儀の示す通り世には色々な国が有って、そこに使われている言葉も綴りも皆違っております。

 今やこの長崎ではオロシヤの語に()(らん)西()語、()()(りす)語、西班(すぺ)(いん)語などの勉強、翻訳が既に始まってござるけんの(ございます)」

 甫盛が語ることを聞いているだけで胸が躍る。それ故に、外科医術をより知ること、へーステルの外治本の翻訳に力を借りたいのだと長崎に来た目的をはっきりと言った。

 ここに滞在するための御上への届けをどうしたら良いのか、また、寄宿する場所をこのまま本木殿の所で良いものかと二人に相談した。

「滞在に掛かる必要な手続きは私が致しますけん、何時頃までおいでなさる御予定やろか?」

 松十郎が問う。

「凡そ半年、来年の春には江戸に戻りたい。江戸に在る先生(玄白)ともその予定で話し、己の(属する)一関藩の藩侯のお許しもそのように頂いてきた」

「旅人の届けはそんげん難しかことにありません。ただ他所(よそ)と違うと(の)は長崎ゆえの事やっけん(事とて)宗門(しゅうもん)改めの(が)ございます。その役にある者の(が)尋ね来ますけん、驚かれんごと(驚かれないように)」

 甫盛が間に入って教えてくれた。

「手続きは早か(い)に越したことはございません。また住まいの事は私の父とも友永殿とも相談しますばってん、明日からにも私の所に来られる方が良かかて思います」。

 そう言うと松十郎は早速に腰を上げた。

「宜しく頼む」

「何、(まつ)(松十郎のこと)に任せておけば心配は要りません。松は今、見習いの身に有りますばってん(有りますが)小頭昇格の話の(が)出ていて張りきっております」

 松十郎が出て行くと甫盛が語る。松は商館長がイサーク・チチングのときから商館長部屋付きになり今の商館長ヘンドリック・カスペル・ロンベルフになって内通詞小頭見習から小頭昇格が噂されているのだと言う。それを聞いて通詞の組織に興味を引かれた。

 聞けばその上に、稽古通詞の見習いから稽古通詞、小通詞助役(すけやく)、小通詞、大通詞助役、大通詞、通詞目付(めつけの)(すけ)に通詞目付と役職があると言う。役目の大方は世襲制だと語り、本家分家に新興とて通詞にも凡そ三十家があると言うのに驚いた。

「自分は万年(ない)通詞(つうじ)小頭(こがしら)ですたい」

 甫盛は笑いながら言った。屈託なく語る顔に人の好さが表れている。そして、カピタンの江戸参府に随行する人の手配は江戸番の大通詞と小通詞が行うのだと言う。

 

 夜も五つ(午後八時)を過ぎたところで牟田六(むたろく)兵衛(べえ)が来た。彼もまたこの春に長崎屋で知り合い、松()と一緒に江戸の町話(まちはなし)に加わった一人だ。

 己(  おのれ)が家でもないのに、本木殿の奥方様が用意してくれたご馳走に彼が持参した酒と魚も交えて小さな(うたげ)となってしまった。

長崎の事よりも、江戸の話が尽きない。

「また何時か、江戸に行きたか・・・」

 聞いていることが多かった正栄殿が言う。顔にも目の色にも好奇心が溢れている。

年齢(とし)なんぼ(・・・)になる」

「ナンボ?」

「ああ、失礼しました。何歳になるかということです。吾の田舎(東奥(とうおく))言葉が出ました」

二十歳(はたち)になるとです。ついでにおい(私)も話して置くけん。

 周りの人の(は)、時折、おいば(私を)ソーンと呼ぶとさね。和蘭(おらんだ)、和蘭とおいが口(うる)さか。そーじゃけん、そーじゃけんば(を)代わりにして、おいば(私を)ソーン、ソーンと呼ぶようになったとさ」

「ハハハ、それはまた面白い。日本人でありながら異人の名にも聞こえますな。

まあ、江戸に来るときは先に声を掛けて下され」

 そう言うと、甫盛が吾もまた江戸に在りたい、滞在したいと言う。

 また、六兵衛が、長崎も良い所が一杯有る。出島も唐人屋敷も見て御座れと言う。何処から見ても長崎は夕陽が綺麗だ、海に浮かぶ島々が良い、湊の景色が良いと語る。阿蘭陀帆船が先月末に出帆(しゅっぱん)したのは残念だとも言う。

 お開きは四つ半(午後十一時)にもなった。彼らが帰った後の寝る前に、興奮の残るまま洒落(しゃれ)(したた)めた。

  音に聞く船はおらんだ 是非なくも (から)(空)のはなしを聞くばかりなり

 

 十七日。今日は朝から良い天気だ。暮れも近いとて本木殿が家でも煤払(すすはら)いをせねばとの話にもなる。また、午後になってソーン(正栄)と阿蘭陀話になった。阿蘭陀人の生活習慣を知らねばといきなりの説明だったけど、大いに勉強になるとて聞き入った。

 主人(良永)が今日は当直だと言って七つ(午後四時)過ぎに家を出た。ソーンに聞くと、出島に行ったのだと言う。それを聞くと直ぐにも出島に行って見たい気持ちになった。当直は明日の夕方までの勤めだと知った。

 間もなく、ドロンコが来た。旅人届けのことも有り、今日はこれから松十郎が家に移るのだと説明した。

「聞いとるよ(聞いています)。そのために松の代わりに迎えに来たと」

 再会を喜びながら、ドロンコともども奥方様の夕餉の手料理に舌鼓を打っていると、今度はブリーヒともう一人、稲部と名の入った提灯を片手にした老人が迎えに来た。

 本木家を出たのは五つ(午後八時)前になる。昼間に天気が良かったためか師走も近いのにそれほど寒さを感じない。

 道々、ブリーヒは何時まで長崎に居るのかと聞く。

 半年は皆さんにお世話になると言うと、それは良い、江戸の一か月は短すぎるとこの春のカピタン御一行の江戸滞在期間を出して不満を言う。長崎(なま)りが入る片言の日本語だけど上手だ。

 西上町(  にしうわまち)という所に至って、稲部と表札のある家の門の前に出た。

「今日はこれで帰るけん。滞在期間の長かれば一杯会える、話せる機会の(が)一杯ある」

 ブリーヒが笑顔を見せて言うと、ドロンコも出島の出入りの監視が(うるさ)くて、煩くなって一緒に帰ると言う。二人ともトッツツインッ(Tot Zⅰens、阿蘭陀語で、さようなら)と言いながら右手を振って別れた。

 暫し二人の背中を見送っていたが、提灯を手にした老人がお入り下さいませと言う。柴垣を巡らせてある家だ。内に入り玄関の戸を開けると、老人が奥に向かって帰ったばいー(帰ったよー)と声を掛けた。

 松十郎と彼の母親らしき女人が迎えに出てきた。彼に目で挨拶したばかりで、大槻と申します。御厄介になりますと女人に御挨拶を申し上げた。明かりの消えた提灯を女人に手渡した老人が言った。

「荷物ばお預かりして、先にお部屋の方に置いておきましょう」

「いや、重い物で」

「大丈夫、おい(私)が持つけん」

 松十郎がご老人に代わって私の少しばかりの荷物を手にした。

 女人の後をついて行く。町人の家にしては大きな造りだ。代々続いている家やっけん(家ゆえに)古う(く)てボロボロでしたい(ボロボロです)と言う。

 案内された所は床の間のある八畳ほどの座敷で、真ん中に卓子(テーブル)が置かれて有る。お座り下さいと促されて座布団に座ると、お尻が温かく感じられた。

「お茶ば淹れてまいります。暫くお待ちください」