八 長崎へ

 十一月七日。空青く、船は五つ半(午前九時)にやっと出帆した。安治川から河口に出ると、万国(日本全国)の商船がそこここに係留している。帆船に小舟までが波に浮かぶ。 

 あの四天王寺の清水寺(きよみずでら)の高台から見た大坂湾の景色の真っ只中だ。これから赤間関(あかまがせき)(山口県下関の旧名)まで百三十五里(約五百四キロ余)とか。

 

 十一月十日。日暮れ前、(午後四時前)に赤間関(あかまがせき)という所に着いた。四日もの船旅から(おか)に上がるとホッとする。

 乗船して二日目も七つ(午後四時)後、右に明石の岸を見る辺りから船酔に悩まされた。嘔吐もした。それでも絶えられたのは三、四日目と天気が回復して瀬戸内の青い海原と右左に見える島々の景色に気が(まぎ)れたからだ。四国伊予の山々も左に良く見えた。

 備前屋九兵衛はこの赤間の地に所用がある、阿弥陀寺に泊るとかで別れを告げた。残った者は旅籠で思い思いに手足を伸ばした。私は風呂を使い、五日ぶりに月代(さかやき)を剃ってもらった。

 十一日。朝から雨だ。寒い。周りがまだ暗いけど急かされるように暁(午前四時)に再び船上の人となった。揺れは聞いていたほどには無い

「見えますか。あれが(宮本)武蔵と(佐々木)小次郎の戦った巌流島です」

 まだ眠い目をこすりながら、友永殿が教えてくれた。夜が明けぬままにその小島は黒い塊に見えた。

 明け半(午前七時)頃に小倉という湊に着いた。ここで大坂からの船に別れを告げた。近くに有った茶屋で朝飯を摂り、旅支度を整え直した。

 途中、播磨(兵庫県)の二子(ふたご)という湊から乗り込んだ客は筑前博多が住まいだとて行く道が違う。別れを告げた。結局、船の客は十人だったなと数えた。

 五つ(午前八時)を過ぎたろう。私を含め残る八人は長崎街道も黒崎という所へ向かった。一里半程行った所に筑前と刻まれた石が有った。歩いて来た豊前との境を示す。

 進むほどに妙な匂いが鼻に着く。

「何の匂いでしょうかな」

 友永殿に聞いたけど、横から石炭の匂いだと教えてくれた御仁の顔を見て驚いた。小西次郎兵衛殿が最後に門出の席を用意した、あの道修町の中にある小料理屋の主ではないか。

 聞けば、菊谷(きくや)()兵衛(へえ)と名乗る。大坂に店を持つようになった、小西殿に御贔屓(ごひいき)にしていただいているが生まれも育ちも長崎は酒屋(さかや)(ちょう)だと語る。改めて挨拶を交わした。身体の弱った両親の様子を伺いに行くが、商売柄、長崎に一月(ひとつき)ばかり居て年の暮れ前には大阪に戻ると言う。

「この辺りでは燃える石を焼いて暖を取っておるとです。

鍛冶屋が鍬や鎌等を作るにも黒い石を燃やしておるとです」

 江戸で見たこともない、ましてや田舎(東奥一関)で聞いたこともない燃える石、石炭なるものに興味が湧いた。

 黒崎の宿に至って昼飯を喰い、暫し休んで今日の目的地、()(やの)()の宿場に向かう。松並木が多く続いたけど、途中からは山坂続きの難所だった。仲間内でも若い友永殿も私も疲れた。着いた時には周りはすっかり暗くなっていた。

 旅籠の女子はもう暮れ六つ半(午後七時)になると言う。食事を貰い、兎に角に足を休めた。寝る前になって、明日の朝は五つ(午前八時)の出立でいかがでしょうと語る菊谷殿の提案に皆々が頷いた。八人が二手に分かれての相部屋だった。

 十二日。皆の約束通り朝五つ(午前八時)に出立した。出立前に菊谷仁兵衛殿が、今日の宿は内野宿(うちのしゅく)にしましょうと言う。

内野まで凡そ九里(三十五キロ)、内野の手前、飯塚(いいづかの)宿(しゅく)からの凡そ三里は坂道だけど昨日のようなことは無いと言う。

 徒党を組む人数が多いと、おのずと音頭をとる御仁(ごじん)が出て来るものだなと思った。()兵衛(へえ)殿の提案に異存は無い。

 ()(やの)()から一里(約四キロ)ばかり進んで遠賀(おんが)(がわ)の川渡しを使い、直方(のおがた)小竹(こたけ)(こう)(ぶくろ)(瓊浦紀行には能方、小立、香袋、片料)と通って昼八つ(午後二時)頃に飯塚(いいづか)に至り、昼めしだけでも食べさせてくれるという旅籠に寄った。

 その後もさほどの苦も無く歩き続けたけど、内野(うちの)に着いたときは暮れ時(午後七時)をとうに過ぎていた。宿場外れの茶屋を兼ねた小さな旅籠に泊ることになった。

 昨日と同じように相部屋だった。部屋が狭いとて三人、三人、二人となった。友永殿と一緒の部屋にしてもらった。

 湯に()かり、食事と少しばかりの酒も頂いて寝物語に、内野に入る少し手前、遠賀川(おんががわ)の傍から右に大宰府(だざいふ)に行くと言う山道が有ったことの話をした。

「お出でになりたいのですか?」

 布団の上で煙管(きせる)を手にした仁兵衛殿が聞く。

「はい。そうそう来る機会とて無ければ、ここまで来たれば学問の神様、菅原道真公ゆかりの(やしろ)をお参りしたいものです」

応えながらに(前野)良沢先生を思った。阿蘭陀語の習得の未熟のままに、それを以って名声を得んとするところあらば神よ罰せよと良沢先生が誓いを立てたとも伝わる社だ。

 その誓いが誠か分からない。だけど、その誓いの言葉は吾の今の心境でもある。(天真)楼に学ぶ者のみならず、江戸市民にも、世の民にも本草、医術医学の事に限らず、天文、地理、測量,絵画、生活様式の有様等々まで阿蘭陀に学べ、異国の良い教えに学べと真に思っている。そのために、吾の身は阿蘭陀語等の翻訳に生涯捧げても良いのだ。翻訳専一に有っても良いと考えているのだ。

 吾こそ、蘭語の未熟のままにそれを以って名声を得んとするところあらば神よ罰せよだ。

「遠くから()れば、そのように思いましょう」

「遠くからとは?」

「ご本人が言わなければと黙っていましたが、大槻殿は江戸からお出でになった方です。あの解体新書を世に現わした杉田玄白先生のお弟子さんです。

 新学(蘭学のこと)に()けたお方で、これからお出でになる長崎では吉雄先生の所にお寄りする方です」

「えっ、あの吉雄(よしお)耕牛(こうぎゅう)先生?」

「はい。これから長崎に行かれるお方。異国の本に学びこの日本の医術発展のために尽くされるお方、阿蘭陀語を世に広めるお方とお聞きしております。

 江戸から来て、長崎も吉雄先生の所に行く方と大坂にてお聞きしました。その様に覚えております」

「それはまた。驚きでございます。小西(次郎兵衛)殿からは、長崎に行く親しい友人とだけお聞きしていました。

知らずとはいえ、ご無礼つかまりましたな」

 菊谷殿のお顔が、友永殿とのやりとりから私の方に向けられた。

「何、明日になれば枡屋(ますや)()兵衛(へえ)殿が、大宰府に行ったことが無いとて、一緒に行く御仁はいないかと言い出すでしょう。

船の上で、天満宮を見たことが無い。行ってみたいと申しておりましたからな。

 昨夜(  ゆうべ)の宿(()(やの)()の旅籠)でも、誰ぞ、ご一緒される方は居ないかとそのようなことを申しておりました。

一人旅はいかなる時も危のうございますれば、連れを探します」

「菊谷殿が(おっしゃ)る通り、ご一緒する方がおりますればそのようにされるのが良いかと存じます。

私がご一緒出来れば良いのですが、生憎(あいにく)寄り道するほどの(ふところ)具合(ぐあい)には・・・」

 苦笑いしながらの友永殿だ。銭は己が何とか都合つけられるけれどもと、それを言うのは失礼になる。朝を待ってみることにした。

 十三日。昨夜(ゆうべ)の床に就く頃からの風はとうとう雨雲を呼び、朝から雪混じりの雨だ。寒い。旅支度を整え、明け(午前六時)過ぎに表に出た。

 寒い、寒い。何時もより(あわせ)を一枚余計に着込んだがそれどころの寒さではない。兎に角、歩き出して身体を温めるしかない。

途中、草鞋(わらじ)足袋(たび)の濡れが身体の熱を奪う。己ばかりか、同行する皆の調子が心配になった。

 幸いに不調を訴える方が居ない。冷水(ひやみず)(とうげ)という所に差し掛かった。一息入れて難所に向かった。登り始めて見える山々の冬の景色は良けれど、足元は昨夜来の雪だ。

 勾配がきつく、途中何度か足を止めた。背を伸ばした。足先や手先の冷えとは反対に身体は汗さえ出る。

 やけくそ半分風流半分という所か、頭で何度も詩歌(うた)を考え、気を紛わせながら登った。峠の茶屋に着いた時にはホッとした。この先は下りだけだと聞く。お茶で身体を温めると、忘れてはならぬと折角の歌を書き留めた。

 雪の空 げに冷や水の名やひびく

 名にしあふ 冷や水峠雪降れど 身は汗水になりて山越え

 暫く休んだ。濡れた足袋と草鞋を履き替えた。下り坂は勢いがついたけど、膝がガクガクいう。山家(やまえ)(瓊浦紀行には山居)という所に程なく着いた。ここで皆さんと別れる。

 枡屋与兵衛殿は私より十歳ばかり年上だと言う。天満宮まで二つ駕籠で行くことにした。(大)宰府府(さいふ)(どう)は田の畔を行き、山間を通るものだった。半時(約一時間)ばかりを要した。天満宮はうっすらと雪化粧をしていた。お社の前に至って足を地にして一息つくと、吾の思いを(うた)にした良沢先生のあの句が頭に浮かんできた。

 将遊瓊浦偶題(まさに瓊浦(長崎)に行くとての句) 芝蘭堂主人

   曾抱千秋医国業将酬万里航海心

(かねてから行きたいと千秋の思いで抱いていた医の国、和蘭(おらんだ)。長崎行きはまさにその国の医学医術を身につけんとて万里を航海する心ぞ)

(カッコ内は筆者の意訳。瓊浦紀行にはこの後に、前野(とおる)(良沢の長男)の漢詩が続く。以前の投稿で「芝蘭堂についての一考察1,2」を記述させていただきましたが、これをもって、小生は芝蘭堂は既に有った、玄沢は芝蘭堂を前野良沢から譲り受けたと思っております)

 樟(  くすのき)の大木がまず目につく。石の鳥居をくぐり、心の字をした池に架かる太鼓橋を渡ると楼門があった。そこから本殿まではさほどの距離ではない。

 神前に(ぬか)ずき、欲張りにて、学業のことも旅のことも家族の無病息災も祈願した。その本殿から右の玉垣の中に名に聞く(とび)(うめ)が有った。東風(こち)吹かばの(かん)(こう)(菅原道真)の和歌(うた)東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅花(うめのはな) 主なしとて春をわすれなそ)が思い起こされた。

 見えるあちこちの諸塔を見ながら、なんぞ歌を(したた)めて見ようと思ったがまとまりがつかない。酒肴を出す宿坊で一息ついた。休めば、別れて先に向かった友永殿等が何処まで行ったかと気になる。少しばかりの休みで腰を上げ、門前から二人、また戻りの駕籠の人となった。

 山居(山家(やまえ))、石ビット((いし)(びつ))、乙熊((おと)(ぐま))と来て、松崎に五つ半(午後九時)頃に着いた。すっかり日暮れて、途中に休んだ乙熊の二つ並ぶ境界石には少しばかり呆れた。 

 筑前の黒田藩と築後の有馬藩の国境(くにざかい)を示すものだが、轎夫(きようふ)が言うには、どちらか一つで良いものを両藩が競って石の大小を(あらそ)っているのだそうだ。

 先に向かった同行者はこの宿(しゅく)を暮れ(午後六時)に通ったと聞く。与兵衛殿と計り、また駕籠を継ぐことにした。

夜通し駆けることなど初めてのことだ。金がかかるとても己のわがまま代だ。

 八つ半(午前三時)頃に、府中という所に至り、休憩を兼ねて朝餉を所望した。そういえば、昨日は夕餉を摂っていなかったなと思い返した。

 

 十四日。住吉に朝半(午前九時)に着いた。約束の船着き場で無事に皆さんに会えるかと気を揉んでいたが、追いついた。

また道中気を張っていた所為(せい)もあるのだろうそれほど寒いと思いもしなかったが、今は寒さが身に(こた)える。

 船に乗ると、(あわせ)をもう一枚重ね着にした。空は青い。この寒さが無ければもっと良いのにと思いながら友永殿に聞いた。

「この川は筑後(ちくご)(がわ)と言います。この住吉から有明の海(有明海)に出て、対岸になる諫早(いさはや)までは二十五里あります。

長崎へは内野から神埼(かんざき)宿(しゅく)小田(おだ)宿(しゅく)(うれし)野宿(のしゅく)を通って街道筋を行くことも出来ますが、何せあの冷水峠の難所ですから。

その後に続く嬉野や()()の山坂越えとて容易ではございません。それ故、少しでも楽な方をと、この船を頼りにする方が多くなりました。

 船で一夜を明かすことになりますが朝になれば諫早(いさはや)です。

天満宮は如何(どう)でしたか、私も一度行っただけですが・・・」

「菅公を祀る社とて大層立派なところでございましたな。欲張って様々に祈願してきました。

話に聞いていた(とび)(うめ)の木は思っていたよりも大きなものでした」

「左遷された菅公ば(を)慕うて、一夜のうちに都から飛んできて(た)と言われとりますばってん、(とび)(うめ)にはもう一つの謂れの有っとね」

 不意に長崎弁が絡んだ。いつの間にか横に来た菊谷仁兵衛殿だ。

「京の都(平安京)で(みち)(ざね)公と親しくしとった人物のおってん。

そん(の)人物が大宰府に下る際に公の邸宅に立ち寄り、夫人の便りば(を)お預かりするとともに、梅の木の根分けば(を)して持参したとです。

 公はそれば(を)人には「梅の(が)飛んできた」て(と)言うたとが。飛梅の始まりげな(始まりとか)」

 これまでに交わした言葉は少なかった。仁兵衛殿の長崎弁を聞く。

吾が、「千里飛梅万世流馥一夜生松百代増緑」とまとめたばかりだが口にしない。

(主を慕って千里の道を飛んで来た梅の木は時を越えて今の世にも馥郁(ふくいく)と香る。今宵一夜見る松もまた長い年月に緑の葉を生い茂らせている。筆者訳)

 筑後川は濁り川だ。富士の裾野に見た澄んだ川が思い出された。進むほどに行き交う上方の大船を見た。

「この川にも諫早(いさはや)の河口にもムツゴロウが一杯居ります。可愛いか物ですよ」

 友永殿の言う言葉に、良く聞けばイモリの如きものだと言う。泥沼から目の大きな顔を出し、飛び跳ねて前に進むのだと語る。

見える中州に目ば(を)凝らしてみなされと言われたが、船からの遠目には見つけることが出来なかった。

 海上に出ても穏やかな波だ。右に備前の山々、左前に島原の半島が見える。上った月は晴朗にして闇の海面を照らす。幸いに薬は用無しだ。心穏やかでいられる。

波を切る静かな船の音を聞く。

 

[付記]:素人作家ゆえに、方言の記述には大いに頭を悩ませております。早稲田大学(所沢キャンパス)を訪問した際に、クラウドと言う方言指導、翻訳等を職業とする専門家が居るのだと御教授賜りました。ネットで調べもしましたが、どれくらい金銭的支払いを要するのか理解が出来ず、また、年金生活者の身を考慮して小生の周りから方言にかかるアドバイスをしてくれる人を探して作品を仕上げております。

 それゆえ、おかしな表現だと思われる方もいるかと思いますが、すべて小生の責任です。至らないところが多々あるかと思いますが素人作家ゆえとお許しください。

 この先の、大槻玄沢の長崎行き、滞在にかかる方言は、日本赤十字社長崎原爆病院事務部長、村田誠氏、長崎県庁OBの荒田忠幸氏、長崎の歴史文化等を学ぶ学習グループ「長崎楽会(がっかい)」でご活躍している理事兼事務長の若杉徹氏にご支援、ご協力を頂きました。この紙面をお借りして改めてお礼を申し上げます。