霜月(つい)(たち)。外は良い天気だ。翻訳に精を出した。午後に顔を見せた権兵衛殿が兼葭堂へ行くとて、小手紙を託した。

 筑前に渡る船の手配を木村殿がしてくれる、兵庫(ひょうご)船主(ふなぬし)に手配をしてくれることになっているが、それがどうなっているのか知りたい。

 ところが、権兵衛殿が戻って来るまでの間に先に木村殿の手紙が届いた。凡そに船の手配が出来た、明日にでも時を見て来られたしとある。

 

 二日。借りた地誌の一角に掛かる翻訳を昼前に終えた。それと出来た翻訳の束を風呂敷に包んで壷井屋を訪ねた。所要があって来ていたという権兵衛殿も次郎兵衛殿も兼葭堂に揃った。

 筑前(  ちくぜん)(福岡県)まで乗せてくれると言う兵庫の船主が午後に顔を見せた。船賃に凡その航路と掛かる日数(ひかず)を聞いた。

 その談合が終わると、木村殿が餞別だと言って包みを寄越す。戸惑いを感じたけど有り難く頂戴し、お礼を言い、一角に掛かる翻訳が終わったとその草稿を託した。

「草稿が出来たと連絡を致しますれば、本町の須原屋から後の日に太郎兵衛殿が(草稿を)取りに来ます。

それまでの間に、お世話にもなりましたればご自由にお読み下され。

後に、須原屋に手渡して欲しく存じます」

 お礼を言いながらも、重ね重ねの世話をお願いすることになるかとの思いもした。

 微笑(  ほほえ)む木村殿は、一段落がついたとあれば今宵は手前どものニュウーエスタラード兼葭楼に御座れと言う。

 その夜、俄かに送別の宴だとて、兼葭()に長兵衛殿も次郎兵衛殿も権兵衛殿も一緒に上がった。順慶(じゅんけい)(ちょう)という遊郭が側に有ったが、誰も途中で帰ろうとしない。

 夜を徹しての話と酒に帰りは月が傾く頃となった。それにしても驚く名をつけたものだ。楼の名にニュー(新)にエスタラード(星)とは阿蘭陀語にも羅甸(らてん)()にも通じている木村殿とはいえ、江戸にも京にも横文字を使った楼も茶屋も見たことがない。

 この店に寄る客、いや大坂の庶民はニューもエスタラードもその意味を知っているのだろうかと大いに気になる。

 

 三日、今日も昨日に続き良い天気だ。快晴と言うのだろう。中庭から見える空は澄み渡り青々としている。

 遅くに起きたけど昨夜のお礼を言おうと思って女中に問うと、主(長兵衛)は安治川に行った、船場(せんば)を回って、そろそろに戻る時刻(ころ)だと応える。

 朝餉とも昼とも分からないまま、船場(せんば)で手に入れてきたと言うホタテの焼いたばかりをご馳走になった。

 帰りが朝方にもなったのに、良く早くに起きられましたなと言うと、飲んでも遊んでも商人(あきんど)は次の日にすべきことを考えていると言う。仕事を良くする者は商人にかぎらないだろうけど、長兵衛殿の考えと行動に感心した。

 午後になって日野屋藤七殿が来た。

「大坂での用事は済みましたか。一角は片付きましたか?」

「はい、中川先生の先の文(手紙)も有れば、兼葭堂殿に首尾よくグリーンランド地誌をお借り出来ました。

 一角に掛かるところを筆写、翻訳し、その草稿を昨日に渡して山本町の須原屋太郎兵衛に後々届くようお願いしたところです。

 大阪での用事はこれで無事に終わりました。長崎に行く船の手配も兼葭堂殿と小西の次郎兵衛殿のお陰で付いたところです」

「それはようございました。後で私からもお礼を申し上げますさかいに。

ところで船旅の同行者は何方(どなた)か、何人になりましたか?」

「いや、筑前までの船は私一人と聞く。同船する者は居ないと聞いているが・・・」

「あきまへん」

 声が大きかった。

「道中何が有るか分からしまへんよって。瀬戸の海は勿論、(おか)を長崎まで一緒に行かれる方をお探しになられた方がよろしいがな。

 小西殿もまた兼葭堂殿もお顔の広いお方よってに、そのように言えば必ず長崎までの同行者が見つかりますー。

大坂は学問の町でもあるさかい、もしかすると、通詞の方で丁度長崎表に帰る方とておるやも知れまへん。同行者を探した方が良うございまいます。

 それでなければ長崎までの道中の安全をお願いされた江戸の先生方(杉田玄白と中川淳庵)に申し訳が立ちまへん」

 心配してくれる藤七殿は江戸言葉と土地言葉とが混じる。

「明日の朝には約束した船主の所に一緒に参りまひょ。

事情をお聞きし、返事次第ではお断りしまひょ」

 そう言うと、これから次郎兵衛殿の店に顔を出し、兼葭堂に向かうと言う。

 

 四日。朝餉を頂いた後、泊った藤七殿と一緒に土佐堀川に架かる(みなと)(ばし)()徳島屋(ましまや)の船主の所に寄った。積荷の外に乗船する客は私だけと再度確認し、即座に仮契約を解除した。

 その足で四つ頃(午前十時)に次郎兵衛殿が店に顔を出し、同船する者のいる船を探してくれるよう改めてお願いした。また昨日、見せたいものも有るのでよかったら来られたいと兼葭堂から藤七殿へ言伝があったとて、その後に北堀江に向かった。

 一角に関わる再びの話から段々と諸国の話になって、兼葭堂から新訳の万国図を見せて貰った。少しばかりの驚きをもって見ていると、日本の地図ならこれが一番だろうと語る。

そして、見せて貰った地図をそのままに呉れると言う。驚きもしたが有り難く頂戴した。

 それから昔に(しゃ)()から伝わったと言う絵や置物に、今に法隆寺に秘蔵されていると言う多羅葉梵(たらばぼん)(もん)の写しと言う物を拝見した。

 その話の途中に、主(長兵衛)の所から使いの小僧が来た。

「へえ。今夕に出る良い船が見つかったと、それだけ伝えよとのことでした」

確かにそれだけで話は分かる。

 急ぎ暇乞(いとまご)いをして、途中、先日のお礼を一言と次郎兵衛殿が店に一旦顔を出し、宿所に戻った。主は用事があるとて出かけ姿が無かった。

 追ってきた次郎兵衛殿に、手紙と一緒に貰って来たばかりの日本国地図を江戸に送ってくれるよう託した。

 荷物をまとめ(あわ)ただしく旅支度を整えて部屋から出ると、時間がないけれども門出の席を設けたと次郎兵衛殿だ。菊屋仁兵衛の小料理屋に急ぎ酒膳の席を頼んだと言う。

 驚きもしたけど夕刻までには時間がある。腹も空いている。それほどの時間(とき)でもなかろうと、誘われるままに付いて行くことにした。

 表に出ると、目と鼻の先の高麗(こうらい)(ばし)辺に大勢の人だかりが出来ていた。通りがかりの人に何事かと聞けば、世に聞く造り酒屋、鴻池(こうのいけ)の名が出た。

 鴻池の分家に当たる市兵衛が所の手代(玄作)が新地(曾根崎)の芸者(()())と心中を図ったものの死に損ね、召捕られて今日より三日、高麗橋に身を(さら)されるのだと言う。 

 どのような事情があったか知れないけども、門左(近松門左衛門)の心中話しを地に行くようなものだ。お縄姿の二人を他人(ひと)の肩越に見ながら通った。哀れに思う。

 

 少しばかりの付き合いと思っていたが、一刻(二時間)もの酒の席となった。夕七つ(午後四時)を過ぎたばかりなのに霜月とて周りはもう暗い。

 宿所に戻ると、間もなく船からの使いだと迎えの人が来た。兵庫の魚屋伝兵衛が船からだと名乗る。

早速に荷物を背にして門口に立つと、次郎兵衛殿と主の奥方に番頭、手代に小僧、女中等が見送りとて共に店の前に並んだ。

 主が(たな)でこんなにも働いている人がいたのかと改めて驚く。並ぶ顔には見たことのない顔も多い。有り難くも有り、お世話になりましたと口にするときには少しばかり感傷的な気持ちになった。

 湊( みなと(ばし)までは次郎兵衛殿とその手代と、主の所の番頭と手代が付き添ってくれた。船を目の前にすると、感謝の気持ちを込めて主(長兵衛)殿への和歌(うた)を認める気になった。朝に少しばかりよそ目に見ただけで別れの言葉も交わさなかった。何と言っても一番にお世話いただいたのだ。次郎兵衛殿に短冊を託した。

 なにとまる 小蝶のなごりつきせねど 気も春野に帰り小惣(こそう)

 

 船上の人となって、乗り合わせる人は十一人だと聞いた。また直ぐに出帆するのではなく、明日の夕に沖に出る予定だと言う。ホッとしたというのか気が抜けたというのか・・。

 

 五日、曇り。肌寒い。船の上と言うばかりではあるまい。やはり霜月だなと思う。

 昨夜は波の音はすれども揺れをそう感じずに眠れた。一日時間があるとて最後の大坂を見ようと思い、四つ(午前十時)に一旦下船させてもらった。

 坐間(  いかすり)神社(じんじゃ)にお参りし、中(道頓堀の中座)の芝居を一幕見て、それから難波の稲荷(八坂神社)まで足を伸ばした。

 戻って来ると、兼葭堂からだと言う小手紙とメモリーブックを受け取った。

(凡そ二百三十余年前、大槻玄沢自身が瓊浦紀行にメモリーブックと書いているのに筆者は驚く)

 夜半になって四人が乗り込んできた。旅は道連れとて船底でそれぞれが名を紹介し合った。その中で、長崎で生まれ、長崎で育ったけど今は大坂で商売をしている、この船の主の倅だと名乗った備前屋九兵衛殿が印象に残った。大坂と長崎を行き来して諸物を扱っているのだそうだ。

 

 六日、曇り空に、波が高い。今日もまた早々に船を出さないと聞いた。ことは一体どうなっているのかと思いもしたが、昨日に受け取ったメモリーブックを()ちょう(・・・)(手帳)、と呼んだらどうかと訳して北堀江まで行った。だけど、兼葭堂は出かけていて留守だった。小手紙と伝言にして早々に引き返した。

 何処ぞの半鐘の音が船にも聞こえて来たけど、火事は大事には至らなかったらしい。七つ(午後四時)頃になって積み荷の作業を興味深く見させてもらった。

 夜も五つ半(午後九時)、同船になる人がまた四人乗り込んできた。どなたも大坂にそれぞれの所用が有って来ていたとかで、長崎に帰る人だった。

 昨夜に乗り込んできた四人と合わせて都合九人となった。船の出る、出ない(出航)は、どうやら天気や海の都合ばかりではなさそうだ。乗り込む客集めもまた出船を見計る算段の内らしい。そうでなければ私に今日の夕に出帆するなどと急かせて数の内にする必要も無かったのではないかと思う。

 四人の最後に乗り込んできた友永恒蔵殿こそ、あの日野屋藤七殿が探し当ててくれた人だった。友永殿はこの春四月末に大阪に出て、あの混沌詩社で漢学に書や和歌を学び長崎に帰るのだと言う。長崎は諏訪町にお腹を大きくした妻が待っていると語る。

 大坂に出る機会を与えてくれたのが、この先、長崎に行って私がお世話になる吉雄(よしお)(こう)(ぎゅう)殿と本木(もとき)(よし)(なが)殿だと言った。

 大坂の町を知っておくことも大事、カピタンが時に尋ねる屋敷、主ともなる木村吉右衛門殿(兼葭堂)と(よしみ)を通じておくが良いと送りだしてくれたのだと語った。自身、通詞見習いであり、あの出島にも出入りしている人だった。

 江戸に在る先生(玄白)から頂いた紹介状を渡す相手(本木良永)を良く知る人と知って、これ程心強く思うことは無い。