二十四日。朝飯が終わったばかりに、主が、所用があるとかで境(堺)に行くと言う。

「もし、時間がございましたらば、藤七殿にお会いして宜しくお伝えて下され。

確か実家は日野清と言う薬屋で、その隣で兄に当たるお方が魚屋をしているとお聞きしておりますが・・・」

「はい。良く存じております。藤七殿の兄に当たるお一人が店を継いでおります。

日野清に寄らせてもらいますー」

 ニコリとした顔を見せて、受けて(承諾して)くれた。

四つ(午前十時)過ぎに北堀江五丁目(現、西区北堀江四丁目)にある造り酒屋を訪ねた。

 軒から道までの大きな暖簾が店の入り口を挟んで右左に掛かる。松坂で見た豪商三井の暖簾を思い出した。

「へー、生憎(あいにく)、旦那様は(いま)出かけておるさかい、おまへん。

何時もの事で忙しくしておりまんがな。

帰りの時刻は当てになりまへんなー。

いかがいたしまひ(し)ょか。何か、お言伝(ことづて)でもございまっかー(ございますでしょうか)」

 手代に呼ばれて応対に出てきた番頭らしき者は、主人の木村兼葭(けんか)(どう)は留守だと言う。

さて困った。

「大槻玄沢と申します。先に江戸にある杉田玄白先生の紹介を受けて状(手紙)を送って御座いますが、江戸から来たとお伝えくだされ。

 また、一角(いっかく)に掛かることについて知りたいと話していたとお伝えて下され。

今は平野一丁目の薬種問屋、小西長兵衛殿が宅に逗留して御座います」

 言伝を頼んだ。

 手代は、一角?と聞きなおし、怪訝(けげん)な顔をした。

 表に出ると、山本町の須原屋彦太郎(・・・)が宅まで行かねばと思った。あの富士川の川留めを喰らった太郎(・・)兵衛(・・)殿の実家だ。

通りすがりの人に尋ねると、山本町(現、大阪府八尾市山本町)まではかなりの道があると言う。辻駕籠にした。

 居るだろうと想像していた太郎(・・)兵衛(・・)殿も留守にしていた。

「一角に掛かる原稿が遅れるかもしれない、兼葭堂に首尾よく会えなかったとお伝え下され」

 伝言を頼んだ。六十(  ろくじゅう)(歳)の坂をとうに超えているだろう彦太郎殿は了解したものの、目の前でしきりに咳き込む。気腫を患っていると診た。

言伝(ことづて)はわかりましたが、ついでに吾を診察してもらえまへんかー(もらえないでしょうか)」

 私に掛かる情報とても親子の間の江戸とのやり取りの(なか)なのだろう。私を医者と知っていた。

「鍼を打ちましょう」。

 持ち合わせの物で応急に対応することにした。この様なことがあるゆえ、医者は何時にも最低の物は持ち歩かねばならない。先生(玄白)にも中川先生にも法眼殿にも教えてもらった事だ。

 その後に、断りもしたけど、是非に腹ごしらえをして下されとて断り出来ず昼飯を御馳走になった。

 養生されよと言葉を残して表に出ると、もう一度堀江に寄って見ようという気になった。早駕籠の中で、兼葭堂よ、居てくれ、と何度か祈った。

 幸いに兼葭堂は家に戻っていた。座敷に案内されて相対(あいたい)したけど、挨拶の間にも約束している人が来たとて手代がしきりに顔を出す。(せわ)しない。

「すんまへん(申し訳ございません)。先の約束の有る方を優先せなあきまへん(なりません)。

杉田玄白先生にも、また前野良沢先生にも大槻様のことは良くにお聞きしております。

一角のことについても中川(淳庵)先生からお聞きしておるやさかい、明日の昼四つに改めてこちらから平野町に伺いまひょ(ましょう)」

 会えたのは僅かな時だ。体よく追い出されたと思わないでもないが、明日に来てくれると約束してくれた。しかも重要な案件でもある一角の件を自ら口にしてくれたのだ。

 中川先生を通じて江戸から頼んだことが確実に伝わっている。見たいものを見れる、知りたいことを良く知ることが出来るだろう。そう思うと、明日を待つしかないと割り切れた。

 まだ八つ半(午後三時)頃だ。歌舞伎の一幕でも見れるだろう、そう思うと道頓堀に行かねばと気が急いた。

 

 今日一日、随分と慌ただしかった。山本町行きも、腰と尻が痛くなった早駕籠のことも兼葭堂のことも、また帰りに寄った坐間(いかすり)神社(じんじゃ)のことも尾上丑之(おのえうしの)(すけ)の出し物も思い出される。 

 あの妖艶な慶子(けいし)(初代中村富十郎、女形)の芸が頭に浮かんで来る。本当に七十四(歳)なのかと思う。疲れがだんだんと眠りを誘った。

 

 二十五日。朝五つ半(午前九時)を過ぎたところで小西権兵衛(・・・)殿が来た。(しゅ)(長兵衛)から小西の本家に当たるのだと紹介された。何代目になるのか分からないが、主よりも年齢下(としした)に見えた。

「大槻様には江戸にて何かとお世話になっているお方だと日野屋さんからお聞きして御座います。(わて)()にとって、江戸もお医者様も欠くことは出来まへん。

 阿蘭陀医学が盛んになればなるほど、私等の扱う薬種も増えて御座います。異国の本の教える草木の有用な情報は世のため人のためになることゆえ()えことだす。

 杉田(玄白)先生にも、それからこの大阪や京から江戸に行きはった先生方にも是非に小西の薬をお使いになるよう、広めて下され」

 側(  そば)で長兵衛殿が無言のままに微笑みながら頭を下げた。

 約束通り四つの時刻(午前十時)に兼葭堂が顔を見せた。大坂の人々に良く知られた人とて、主も権兵衛(・・・)殿も腰を低くして迎えた。

 座敷を借りて、暫し四人で世間話になった。それで分かったのは兼葭堂が造り酒屋の主と言うだけでなく本草学から物産学に通じ、動植物の標本から書画骨董までも収集しているらしい。

 先生や中川さんから漢学にも阿蘭陀(おらんだ)()にも羅甸(らてん)()にも通じ、異国の書籍、地図を多く持っている人だとお聞きしていただけの人物では無かった。どうやら権兵衛(・・・)殿は兼葭堂に会いたくて来たらしい。

 昼時とて蕎麦をご馳走になり、兼葭堂と権兵衛殿と私の三人で天満宮をお参りすることになった。淀川に掛かる天神橋を渡った。平野(町)から十丁(一キロ)とて無かろう。 

 千百年の歴史があると言いながら、今のこの天満宮は享保の大火(千七百二十四年)の後に造られたものだと権兵衛(・・・)殿の説明がついた。お参りの後、所要が詰まっていればここで帰らせてもらうと兼葭堂だ。

 慌てて次に会える日時の約束を頂いた。肝心のユニコーンの話をしていない。また、長崎行きを思えばこの大坂に長居はできない。

「はい。明日、四つ半。必ずお伺いさせていただきます」

兼葭堂とは天満宮の大鳥居の前で別れた。戻り道、折角に御座います。今日これから是非に私どもの店にもお寄り下され、と権兵衛殿だ。

 お言葉に甘えて()(しょう)(まち)に構える彼の店に寄らせてもらった。確かに薬問屋の商いだった。丁稚に手代に番頭、忙しくしていた。お茶を貰って帰宅したときは周りも暗くなった七つ半(午後五時)に近かった。

 今日一日、そこまでは良かった。だけど夕餉をご馳走になった後、急に胃の辺りが痛み出した。夜が更けていくというのに痛みが増す。持参の半夏(はんげ)(漢方薬、半夏瀉(はんげしゃ)(しん)(とう))を飲んだけど、とうとう我慢できずに(はり)でも灸でもと医者を呼んでもらう世話を掛けた。

 主人(  あるじ)にでも聞いたのだろう、私を大槻玄沢と知って、鍼を打ちながら淡路町(あわじちょう)に住む(げん)(じょう)と申す者だと自ら名乗った。

 旅に有れば昼とて夜とて痛む(やまい)は難儀になる、病に貴賤は無いとの初老の言葉に同感だ。明日にまた来ると言ってくれたけど、どうしても出かけねばならない用事があると言って、明後日(あさって)にまた来てもらうことにした。

 玄城殿が帰ると、兼葭堂の顔を思い浮かべた。明日に大事な用があって行くのに、吾は大丈夫だろうか・・・、思いながらいつの間にか眠った。

 

 二十六日。(はり)の効果を改めて思った。胃の痛みも不快も無い。主の朝飯を粥にしたとの心遣いに感謝、感謝だ。後々のことも考えてまた半夏(はんげ)を飲んだ。

 良い天気が続く。約束通り、四つ半(午前十一時)に壷井屋吉右衛門宅を訪問した。出がけに主(長兵衛殿)から、兼葭堂とは彼の書斎の名、本当の名は木村吉右衛門、屋号が壷井屋なのだと教えていただいた。

 案内された所は前の時の座敷とは打って変わって、窓際に高さ四尺ばかりの大きな棚が据えられ、その側に高足の机と椅子がある部屋だった。畳の部屋ではあるけど、机と椅子が置かれてある所は緑色の絨毯が敷かれてある。

 言われるままに自分も椅子に腰を落として面と向かうと、昨日の天満宮の他に大坂市中で何処を見たのかと聞く。

 この三日の間に見て来た名所、寺社等を挙げて応えると、大阪は奈良や京にも負けない歴史のある町、大槻様にも掛かる医学医術の発展や各種薬草の研究だけでなく文芸、芸能等庶民を中心に栄えて来た街、庶民の街だと語る。

 その後、暫くは大阪の寺社仏閣に掛かる話に、庶民の間で話題の歌舞伎や浄瑠璃に辻話(現代の落語)、大阪相撲等の話を聞くことになった。伊達様の谷風は強いと語り、去年に雷電(雷電為右衛門)を弟子にしたと相撲にも詳しい。

 また、歩いて分かる様にあちこちに堀川通りがある。大坂は人工的に堀川を作り、川の流れを上手く利用してきた。大船小舟の水運で繁栄して来た水の都だと語る。

 天下の台所とも言われるように船で北から南から諸国の様々な食べ物が集まる、珍品が集まる、時間が有ったら是非に堂島の米市場も見て行きなされ、世の米価の基準になる所だと言う。

 頭髪の薄くなった面長の顔はいつも笑みを絶やさない。話は面白くも有り、人を引き付け置く如才ない語り口だ。

女中の運んできたお茶と和菓子が話の区切りの機会になった。

気になる大棚に時折目を遣っていたけど、それに気づいていたらしい。

「一服したら、棚の物をお見せしましょう」

 三段になっている棚は一つなのかと思ったら半間(はんけん)幅で三段になっている棚が三つ並んであるのだった。異国の本を参考にして机も椅子もこの棚も大工に造らせたと言う。

 机に一番近い棚は縄文や弥生の土器から骨董品の壺、皿等の陶器、食器に飾り物らしいものが並んでいる。土の焼き物で人形や家屋の形をした小物もある。それらの入手した経緯や造られたであろう年代等のことになると兼葭堂の説明に熱が入った。

 自分の足で探し、手にした物もあるが、最近は趣味がそれと知ってわざわざ持参して来る客や地元から送ってくれる友人知人が多いと語る。

 食器や陶器の(たぐい)には唐物と洋物が混じっている。スプーンや小刀、フオークなどもある。日本の物に限らない。

 滞在した朝鮮通信使や江戸参府の往復に立ち寄った阿蘭陀商館長や外国人医師が置いて行ったものだと言う。ここにあるのはほんの一部で、後は蔵の中だと語る。説明に分からないこと、理解しがたいことも有ったが、兎に角、驚きと感心して拝聴した。

 二つ目の棚には洋物の書籍が置かれてある。医学に限らず風俗、習慣や文芸を伝える書籍もある。言語、風俗、文学、化学、天文、地理、測量、医学、算術等々に区分して置いていると言うことだが、その積み上げられている数に驚く。

 医学だという所の一番てっぺんのブック(本)を手にしてみたが、初めて見る物だ。言語、風俗の区分の中には良沢先生や工藤殿の所で目にしたものと似たような物も有ったけれど、どれ一つとて初めて目にする物だ。二段目の真ん中に地球儀が置かれてある。書籍も書画も今見たいもの、用のあるもの以外は矢張り蔵の中だと言う。

 三つ目の棚は書画の置き場だ。一段目から三段目まで何本もの桐箱が積み重ねられて有る。目の前の床の間に飾ってある山水図は師匠でもあった池大雅(いけのたいが)(一七七六年没)の作だと言う。師匠はこの家に何日か滞在して描いたと語る。

 取っ手のドアがあるのだから部屋は洋間のようでもあるが、畳があるのだから床の間が有っても不思議はない。

部屋の片隅に異人の着る物とて一風変わったものが立て掛けてある。工藤殿の屋敷でも見た上着とズボンなるものだ。

 椅子に戻って、机の上の端に置かれてある和本綴じの表紙に兼葭堂日記と読めた。中川先生の紹介で吾も江戸から状(手紙)を認めてあるが、日記にそのことも、ユニコーンのことも記録されているのだろうか。

 やっと本題になった。

「へえ、一角(いっかく)さんは氷の上に住んでおんね。獣か海の中の魚の一種か、まだ分かりしまへん」

 兼葭堂が頭の中に描く諸説を面白くお聞かせ頂いた。一角に掛かる理解は江戸に在って粗方(あらかた)出来ているつもりでも、兼葭堂の持つ本もまた拝見してみなければ分からない。翻訳してみなければ分からない。

 江戸で少しばかり見たグリーンランド(瓊浦紀行には尾兒狼徳亜)地誌をお借りすることが出来た。

 食事をされてからお帰りなされと、思いもしていなかったことまでも世話を掛けた。戻りが宵も五つ(午後八時)になるとは思ってもいなかった。

 

[付記]:昨年の秋に、大阪に再々々度足を運び道修町から木村兼葭堂の銅像、お初天神、大融寺等々を回遊してきました。過去の大阪観光旅行は一体何だったんだろうと今更ながらに感じたところです。

 行きたい所、見たい所、その目的を持つことの重要性にこの年齢(76歳)になって気付いたところです。