六 、柴野栗山

 二里(約八キロ)も来て、京伏見の追分に出た。空腹を覚えるが、右に見えるのが山科(やましな)の山、左が和歌(うた)に聞く逢坂山(おうさかやま)との説明に胸が躍らない分けが無い。

 蝉丸(  せみまる)(平安時代前期の歌人)を祀る(やしろ)、今も木食(もくじき)上人(じょうにん)(出家して木の実、山菜のみを食して修行する僧)の(いおり)だと右左に説明を聞きながら、蹴上(けあげ)という所に至って腹を満たすことにした。

 八つ半(午後三時)に近かろう。蕎麦に握りめしと欲張った。

「お若い、お若い」

微笑みながら藤七殿だ。その彼は、一膳とても精の付くとろろ(・・・)蕎麦(そば)を注文した。

 粟(  あわ)田口(たぐち)という所を通り、かつて藤七殿が泊ったことのある宿だという京都三条の和泉屋(いずみや)次郎兵衛が宿を選んだ。まだ周りは明るい。

(長崎)遊学の途中とて、構えての京見物の時間は無い。それゆえ旅籠に荷物を託し、貴重品だけを懐と腰にして旅恰好のままに街に出た。

 初めて観る京の都だけに藤七殿が頼りだ。鴨川に架かる三条大橋を見ると、これが東海道五十三次の終わりの場かと妙な感慨が浮かぶ。眺めるだけにして、急かれるまま手前を左に折れ、縄手(なわて)(とお)りという所に入った。

 芝居小屋が建ち並んでいる。狭い通りは着飾った人、人、人だ。尾上(おのうえ)(ばい)(こう)の三回忌追善公演とて忠臣蔵の狂言(きょうげん)が掛かる小屋がひと際目立つ。尾上新七の幟、旗が何本も風に揺れている。

「見たいが時間がございません。今日の所は日本三大大仏と言われる(ほう)広寺(こうじ)の大仏(現在は方広寺も大仏も無い)と清水寺(きよみずてら)を明るいうちに先に見に行きましょう。

 その後、戻って祇園社(ぎおんしゃ)(八坂神社)にお参り方々宿に戻るとしましょう」

 行く先々に物知り藤七殿の説明を感心して聞いた。大仏は六丈三尺(約十九メートル)、奈良の大仏、鎌倉の大仏よりも高いと言う。また、家康が豊臣家との開戦のやり玉に挙げた鐘楼が有ったのがこの方広寺だと言う。

()()と家康の名がそれとなく鐘楼に刻まれたと書く滑稽本(こっけいぼん)を思い出した。

 清水寺までは結構な距離が有った。清水は奈良時代に創建された。何度も火災で焼失しているがその都度再建されてきた、今に残る本堂は家光(江戸幕府、三代将軍徳川家光)の寄進によるものだと語る。

 また、戻って参拝した祇園社は参道の灯篭の(あかり)と薄暗い中に浮かぶ朱塗りの楼門が記憶に残った。

「この一帯は花街です。花街ゆえに人の通りの多いのも江戸と変わりございません。舞妓さんも居るでしょう」

 藤七殿は目で通りの先方までも言う。格子戸の続く街並みが目の先に見えた。

 参道を出ると、案内のままに右手に折れた。東大路(ひがしおおじ)だと言う通りを過ぎて、暮れ方、(午後七時頃)に宿に戻った。

 旅の誇りを落とさねばと、夕餉の前に風呂を浴びた。明日には先生(杉田玄白)の使いを果さねばと思いながら床に就いた。

 

 二十一日。良い天気だ。ゆっくりした時(朝五つ、午前八時頃)に朝餉を摂った。

 藤七殿が宿の(あるじ)を通じて頼んでくれた小僧に少しばかりの駄賃で堀川通り上長者町という所に道案内してもらった。

街筋(まちすじ)に見える物は江戸と違って、神社仏閣から見る物すべて洗練された物に見える。

 これが歴史の重みのある街なのかと思いながら歩いた。右に見えた鬱蒼と茂る森が天子様(天皇)のいる(京都)御所だと聞いた。

 儒学者、柴野(しばの)栗山(りつざん)先生宅を訪ねた。先生(玄白)に託された手紙を渡すだけの用事だったけど、門弟なのだろうか一緒に宅の門を潜る十人ばかりの人と一緒になった。

 聞き耳を立てると、これから聞く今日の講義の内容を語っているようにも聞こえた。

玄関口に出て来た書生らしき若者に先生の在宅の有無を確認し、手紙を託した。

講義の邪魔をしてはなるまいとそれで失礼しようかと思ったけど、若者はしばし待てと言う。

 戻って来て、待つ様にとのお言葉でしたと語る。

 座敷に案内されて半刻(約一時間)近くも待たされた。初めてお目にかかる白髪交じりに八の字眉の老人は先生と同じ(とし)くらいだろう。

 江戸からはるばる来たとて、その後は過分な饗応だった。

(たすく)殿(杉田玄白の(いみな))は息災かと聞き、昨今の江戸の事情も聴かれた。これも先生の古くからの友人ゆえのこと。

 栗山先生の室(妻)は己と交誼のある小浜藩士の娘(藤田義知の二女、安順)だと先生からお聞きしていたことを思い出した。

 

 八つ(午後二時)頃に宿に戻ると、藤七殿は既に出かけたとかで、その後を追った。約束の時が過ぎていたゆえ気が急いたけど、木戸口で待つ藤七殿を見つけてホッとした。

 尾上新七の忠臣蔵を見て、暮れ方(午後六時)に一緒に宿に帰った。いい芝居だった。

          七 大坂滞在― 小西一族、木村兼葭堂

 十月二十二日。藤七殿とも別れる日だ。そう思うと感謝の気持ちと不安な気持ちにもなる。寒い寒いと感じながらの旅仕度だ。暁七つ(午前五時)はまだ薄暗い。

 表に出ると霜が降りていた。肌寒いわけだ。伏見まで歩いて大坂(阪)に至る船を探した。

直ぐに出帆するとかで都合が良かった。近くの船頭相手の茶屋で急ぎ朝飯を食らい、勝手知った藤七殿が、船中でのものとだと言って握り飯を二人分作ってもらった。

 船の上の人となると、今更ながらに京の都をもっと見たかったと思う。

京の山々を眺めていると、藤七殿の説明がついた。

「見える山々のこの辺りが京と大坂の境になる山崎になります」

やがて、(おか)には城と長い堰と水車が見えてきた。

「あれが(よど)(じょう)。城に水を引く水車(すいしゃ)で一つは直径が八間(約十四、五メートル)。

小さい方でも六間は御座います。

川は桂川と宇治川の合流になります」

 海と違って船の揺れが少ない。気持ちが悪いと言うことは無い。船からも大坂城は大きく見えた。

 七つ半(午後五時)過ぎ、八軒()(瓊浦紀行には八軒())という船着き場に着いた。

そこから歩いて暮れ時(午後六時から七時頃)に平野町一丁目の小西長兵衛殿(近江屋長兵衛、現、武田薬品工業の祖)宅に寄った。藤七殿と懇意の薬種屋だ。

 ご挨拶と私の紹介が終わると、藤七殿本人は草鞋(わらじ)を脱がず、そのまま境(堺)の実家(父、日野屋清三郎、薬種業宅)に急ぐと言う。

 この夜から大坂にいる間、何かと小西殿にお世話になる。

「お世話になります。何卒宜しく頼みます」

 藤七殿を見送った後、改めて頭を下げた。

「何、ゆるりとなされ。余計な心配は要りませなんだ(要りません)」

と笑顔だ。商売人であるにしても気さくな方だと覚える。

 用意された部屋に入り、旅の荷を解き、それから風呂を貰い、さっぱりしたところで夕食を頂いた。

寝る前に、無事に大坂に着いたと伯元宛に状(手紙)を認めた。

 江戸を離れて今日で十六日になるのかと指折り数えた。先生にも宜しくお伝え下されと添えた。

何時(なんどき)になるのだろう、時を告げる太鼓の音が遠く聞こえて来た。

 

 二十三日。陽がとうに高くなっていた。良い天気だ。誰も起こしに来なかった。ゆっくりと寝させてもらった。

「もう、昼四つ(午前十時)になりますよってに、良く眠れましたか」

 顔を顔をのぞかせた(あるじ)(小西長兵衛)殿の顔はにこやかだ。

「お陰様で良く眠れました。足腰が軽く感じられます」

 少しばかり照れを感じながら応じた。

「大坂は初めてと聞いておます。

今日はこれから大坂の街をぼちぼちご案内させて貰いますー。

御一緒しまひょう(しましょう)」

 表に出ると良い天気だ。寒くもない。まずは大坂城に向かうと言う。

周りを見ると、そこここに薬を商う(たな)の看板が目立つ。

「平野一丁目にこの()(しょう)(まち)界隈は百年も前からの薬の街でおます。

(わて)も四年前、三十二(歳)の時に御上(幕府)から免許を貰い、和漢薬の商売(あきない)を始めさせてもろてます。

 まだ駆け出しやさかいに一族郎党皆必死に諸国、津々浦々に買い付け、売り出しに走り回っております。世に尽くせ、世に尽くせですわ」

 にこやかな顔のままに語る。四年前(天明元年)に三十二(歳と)有れば私より七、八

つ年上だなと計算した。

「大槻様のことは薬種仲間の内にも良く知られておます。

 あの解体新書を現した杉田玄白先生の所で修行し、今では異国の医学、医術を学びたいと諸国から来る方々に教えていてはる立場とか・・・。

 阿蘭陀語に卓越した方ともお聞きしておます。

 それが、更に長崎に遊学に行かれはると、江戸に在る日野屋にお聞きして是非に手前どもにお役に立つことが有ればとお引き受けしたところで御座います。

 この大阪にいる間は是非にもお世話させて貰いますー。

ええ、この大坂でも江戸でも物産会等を通じて本草学に詳しい中川(淳庵)先生も、桂川先生(甫周)も存じ上げております」

 道々に聞き、誘われるままにお城周りから玉造(たまつくり)稲荷(いなり)実相寺(じっそうじ)()天王寺(てんのうじ)まで足を伸ばした。

石の鳥居を持つ四天王寺の周辺は寺、寺、寺だ。

 諸々の塔の多いのにも大伽藍にも驚いた。四天王寺の別院だと言う清水寺(きよみずてら)の高台に至ってなお驚いた。一瞬にして大坂の街という街を眼下にし、海は千帆万帆の海原だ。

 あれが淡路島、あれが河内(かわち)の山々と説明を聞きながら、ただただ目の前に広がる景色に驚いた。絶景だ。

宿所に戻った時は暮れ(午後六時)も過ぎていた。

 夕食も御馳走になって一息ついていたところへ客が来た。(あるじ)に紹介された。

「吾が家の分家になる小西次郎兵衛に御座います」