十八日、指折数えた。江戸を離れて十二日になる。三人とも昨夜の楽しみとて朝の出立は何時もより遅い。
昨日同様に右に海を見ながら歩く。
これがお伊勢参り街道なのだと、途中、藤七殿が説明する。
月本という所の追分に奈良への道標が有った。しかし、多四郎殿は用事があるとかで、関まで一緒だと言う。
月本、雲津(雲出。大槻玄沢の瓊浦紀行には雲津)という所を渡しで過ぎ、津に至りて、めし処を探した。
「食事が済めば、この後、(津の)駅から馬にしましょう。山坂二里余も歩いたれば」
藤七殿の提案に、多四郎殿も私も首を縦にした。
「歩く疲れも有れば、昨夜の疲れもございます。
それそれ、大槻様はまだ化粧の匂いを残してござる」
私の肌身に鼻を近づける多四郎殿だ。
慌てて己の右左の肩の辺りを嗅いでみたがその様な匂いはしない。多四郎殿が笑っている。
昨夜の手にした白い乳房だけを思い出した。自分でも頬が赤くなったのが分かる。
悪い冗談はおやめなされと藤七殿が窘めた。自分で自分の頭を叩いた多四郎殿だ。
馬の背に乗ると、海の景色は見えなくなった。
関の追分まで凡そ四里半有ると馬子の説明だ。かかる費用が気にならないと言ったら嘘になる。
地元ではお伊勢参りの別街道と言っているらしい。半里(約二キロ)程して、一身田という所を過ぎた。大きな寺が右に見えた。
椋本などと言う所を過ぎて予定よりも早く夕刻前に関の駅に着いた。
馬を利用したが故に脹脛は丈夫だが、慣れぬとて長く馬に揺られた内股が少しばかり痛い、腰が痛い。
芳野屋という旅籠に泊ることにして、多四郎殿と改めて離別の酒を酌み交わした。
「この旅は、郷里で猫の額ほどの畑を耕す老いた母と、弟夫婦にその子どもを江戸に呼ぶためで御座います。
ここまでの御同行、何事もなく、また楽しい旅でした。
有難うございました」
飲みながらに、それまでの名所話等とは打って変わって神妙な顔をして打ち明けた。
「何処にあっても暮らしは楽では無いが、老い先短い母を江戸に呼び寄せるほどになりました。
母親にとって、それが良いことかどうかは分かりませぬ。しかし、・・・」
私は先回りして相槌を打った。
「それは良いことで御座います、親孝行になります」
その後に、藤七殿だ。
「親孝行、したいときには親は亡し、と言いますでな。
それが現世で出来るのですから、それは良いことで御座いますよ」
「田舎を出て、一年も経たずに父親は急な病で無くなっております。
最後の時は胸をかきむしったとか聞きました。
当時は便りとて届かず、親の亡くなったこととて七、八年も知らない有様でした。
両親と幼い弟妹を置いての出奔でしたから親にも兄弟にも、世間様にも迷惑をかけっぱなしで・・・。
江戸に達者で居ると二、三年前から便りを取るようになり、今やっと里に顔を出せます。父親の墓参りが出来ます。
二十年ぶりの帰郷になりますかな・・・」
藤七殿も私も黙って聞く。言葉が出ない。
過去には人それぞれに、それぞれの事情が有る。そう思いながら宿の女子に熱燗の追加を頼んだ。
夜四つ(午後十時)頃になって藤七殿がお開きにした。床に就いたけど、多四郎殿の言葉も有る。一関に在る母上と吉とまだ見ぬ赤子に弟のことが思われた。
多四郎殿の父親の死は話の内容からして心の臓の急な病だろう。
酒の酔いと疲れが眠気を誘った。
十九日、肌寒さはあるものの良い天気だ。明け卯の刻(午前六時)に宿を後にした。
町の途中にあった地蔵仏に三人が、それぞれに改めてこれからの旅の安全を祈願した。
宿場の端に至ると、左に大和街道、奈良の道標だ。
「春には江戸で必ずまた会いましょう」
約束をして、奈良に向かう多四郎殿を見送った。
歩き出すと、関は東海道も四十七番目の宿なのだと藤七殿が言う。聞くまで本街道に戻ったのだと知らなかった。
景色を見ながら坂を上り下りして坂下という所を通り、一段と険しい峠に鈴鹿の社(現、片山神社)があった。二十も年上の藤七殿なのに、その健脚ぶりに今更ながらに驚く。
茶屋で一息ついた。伊勢と近江の国境だと聞きながら鈴鹿の山々を眺めた。まだ残る紅葉の景色が大きく広がる。
疲れもある。二人で計って、下り道になるけど茶屋の側から駕籠を頼むことにした。
琵琶湖に流れる田村川を渡り、その側に有る田村大明神の鳥居を道ながらに拝み、土山宿に入った。
駅で降りて轎夫に聞けば、田村社の本社は鈴鹿社なのだと言う。(明治四十年に田村神社は片山神社に合祀されて今は無い)
土山から水口まで二里二十五丁(約十一キロ)あると言う。山坂が厳しくないとて歩くことにした。
途中、水飴と焼き鳥を売る小さな茶屋が有った。その組み合わせというのも可笑しけれども、飴は疲れを取り、焼き鳥は元気づける。旅行く人には好都合だろう。お茶も貰い、暫し休んだ。
水口の城下に入ると、山や野に自生する葛の蔦等を使って作ったという魚籠等を軒下に吊るし、大小の籠等を商う店とて多く目についた。
庶民の生活の足しになればと何時の代にかお殿様が奨励したことだと聞く。それが今に受け継がれている。
加藤様の領地だと藤七殿の説明を聞くが、それ以上のことは分からないと言う。
宿場を離れ、暫し歩いた。横田川という所で川舟の人になった。
「右手に見えるのが三上山で手前の赤茶けたハゲ山がホタイジ山(菩提寺山、瓊浦紀行にはホタイジ山)でがす。
あのホタイジ山から先、京までの山々にハゲ山が多くみられますが、京の都や大阪に砂や砂利とて山から取り出され送られるからでがす」
船頭が説明する。
舟を降りると馬の背に跨った。収穫の終わった周りの田んぼの稲株と稲架(稲を干してある棚)を見ながら進む。途中、馬子が語りかけてきた。
「米一俵は四斗(約六十キロ)が当たり前なのに、この辺りでは米一俵を四斗二升で計る。それが鎌倉時代からで、この土地を豊かな土地柄に見せたいがためでがす」
語るその口調は不満たらたらだ。飢饉だと言われているご時世に一俵に付き二升ばかり年貢が高かろう。子供騙しみたいなものだ。
そのまま馬にて石部宿に入った。夕暮れが迫る中、出場屋という名の旅籠を見つけた。
酒肴の夕餉の差し向かいになって、二人だけになったなと実感する。少しばかり、多四郎殿の事を思った。
「明日には京に入ります」
「えっ。石部から京都まで確か十二、三里・・・それを行くと?・・」
無理ではと、少しばかり驚いて口にした。京を目の前にして無理をする必要もない。
「石部から草津に凡そ三里、そのまま陸を歩けば更に京まで七、八里御座いますが、草津から一里先の矢部に出て、そこから大津に舟で行けば二里、三里歩かずに済みます。
時も要らず先に進むことが出来ます」
大津から京の三条(三条大橋)までは残り凡そ三里だと言う。
「少し早めに出立しましょう。暁七つ(午前四時)には遅くとも起きましょう」
今時の暁七つはまだまだ暗い。それでも明日にはいよいよ京入りかと思うと興奮を覚える。早めに床に就いたけど、なかなかに寝付けなかった。
二十日。時が時だけに暁七つ半(午前五時)にもまだ夜が明け遣らぬ。
それでも石部の駅は人馬でごったがえしていた。軒下に掛かる大きな提灯と、そこここに置かれた篝火が頼りだ。
京都三条まで凡そ十里(約四十キロ)。今日の明るいうちに着きたいとて皆考えることが同じなのだろう。
また、一人一馬より安いとて、藤七殿の提案のままに二宝荒神の人(馬の背の両側に枠をつけてそこに一人ずつ乗る)になった。
石部より三里(約十二キロ)進んで草津。馬を返し、酒肆(現代の居酒屋)で朝飯にした。もう朝半(午前九時)過ぎになる。
「通り過ぎましたけど途中に梅ノ木村という所が有ったでしょう。世間には旅人相手に道中の薬を売る所として知られております。
あの三、四軒並ぶ薬屋の中でも一番大きかった薬屋が和中散本舗。
家康(江戸幕府初代将軍、徳川家康)がこの地を通る時に腹痛を起こし、その時に飲んでたちまち治ったとかで、権現様が直々に和中散と名付けたと聞いております」
和中散は琵琶の葉や桂枝、辰砂、木香、甘草などを調合した物だ。しかし、その名の謂れを知らなかった。
藤七殿の話を面白く聞いた。しかもこの地が和中散の作られた所だと初めて知った。これもまた旅の楽しいことの一つだろう。
矢部から琵琶湖に出た。大きな湖だ。海にも見紛うほどで心が躍る。
「正面に見える山が比叡山。左に湖水近く見えるのが天台(寺門)宗の総本山、三井寺。大津、大津の城。
その更に左手に突き出ている所にある城が膳所城」
舟頭の説明に聞き入った。三井寺の大屋根ばかりでなく望楼に人影の動くのさえ見える。
あそこから見る琵琶湖はさぞ景色が良かろうと想像した。
その後に、藤七殿が城に目を向けたままに言う。
「ゼゼはお膳の所と書きます。天智天皇が都を大津へお遷ししたとき、御厨(料理をする所)の地と定めたことによってその名で呼ばれるようになったとかお聞きします。
お城は家康の代になって作られていますが、お社はお伊勢の外宮同様、豊受大神(食事を司る神)を祀っています。
それから、三井寺でございますが、本堂に至るまで急な坂道、石段になってご座います。織田信長公も上った道とかで、地元の方々は出世階段とも話してございます」
改めて藤七殿の物知りに驚かされた。
九つ(正午)頃になるだろう。着いた舟場で立ったままに二人で計り、大津の城下は横目に見るだけにして京に向かうことにした。
[付記]:昨年の秋に三井寺に行ってきました。お寺の関係者にお聞きするまで織田信長の出世階段の話も知りませんでした。
旅の楽しみ、取材旅行の楽しみと実感したところでした。膳所城跡の公園から眺める琵琶湖も良かったですよ。