十四日、朝曇りの空に少しばかりの雨がぱらついている。それでも明け六つ(午前六時)前に発つことにした。袋井の駅から三人とも馬にする。節約が頭に有るが、自分だけ徒歩(かち)にするとも言えない。

 途中、幸いに雨が上がった。見附(宿場の入り口)の近くに盗賊、日本左衛門(盗賊二百人を率いた頭目。歌舞伎の白波五人男の日本駄右衛門のモデル)が獄門に掛けられと言う刑場(遠州鈴ヶ森)が有った。

 馬の背に乗ったまま多四郎殿が語る。

「昨日通った菊川の庚申堂(こうしんどう)。あそここそが日本左衛門が夜働をするための着替えの場所と伝わっております」

 小夜( さよ)の中山、夜泣き石のことも思い出された。

 

 天竜川に出た。目の前にしてかなりの急流だ。

「この川は信州も諏訪湖からの水で、遠州灘は(かけ)(つか)に流れています。

時折、この流れを利用して江戸に運ぶ木材の筏流しが見られますがその時には勿論舟渡りは出来ない」

 藤七殿の説明を聞きながら川舟に乗った。長さは七、八間有るものの幅は半間程しか無い。おっかなびっくり、(ふな)(べり)(しが)みつきっぱなしだ。

 

 川舟を下りてホッとしたと言うのが実感だ。

歩き出して程なく浜松(はままつの)宿(しゅく)の木戸に出た。奏者番(そうしゃばん)(幕府の典礼役)と寺社奉行を兼ねる井上殿(井上(いのうえ)正定(まささだ))の領地だ。

 奏者番と寺社奉行になることが譜代大名の出世の登竜門なのだと甫周(法眼、桂川甫周)殿からお聞きしている。 

 浜松藩と言えば東照大権現(徳川家康)以来の名門だ。見上げる城も立派なものだ。

宿場の中程になるのだろうか、そば(・・)めし(・・)処の小旗が軒に有る所で朝飯とした。

 追分に舞阪(まいさか)まで二里二十八丁と有ったけど、凡そ一刻(約二時間)ばかりの徒歩(かち)は潮風を浴びて気持ちの良い物だった。

 松並木とて街道の左手には遠州灘の海が常に見えた。

一丁(約百メートル)も先から良い匂いがしていた。

「食べて見なせえ。休んで行きなされ、(はまぐり)だよ。吸い物も有るだに・・・」

 これが良い匂いの元かと、赤い炭火と金網の上で焼かれる大粒の蛤に目が行った。焼く老爺(ろうや)の皺くちゃの手は黒く陽に焼け、節々が太く海の男の手だ。

「これが、この地の名物。焼き蛤」

 多四郎殿が私への説明もそこそこに茶屋の前に出されてある長椅子に腰を下ろした。名物、焼き蛤の旗が潮風に揺れている。

「お休みなせえ、名物は口にしないと。

疲れも取れます」

 藤七殿の声にも促されて腰かけた。

それぞれが大きな焼き蛤二つを口にし、蛤の吸い物で喉を潤した。

実に美味い。焼き蛤も吸い物も良い。広がる海原と岸に繋がれた舟を見ながら名物に納得した。

「この先、少しばかりまた舟に乗って新居(あらいの)宿(しゅく)です。

そこはまた鰻が名産でございますれば、ここを通る時は何時も飯抜きと決めております」

 多四郎殿が言葉を加えた。

「ここから新居までは・・・」

すかさず、藤七殿だ。

「何、舟とて心配はございません。

また乗り合い舟になりますけど浜名湖の水が海に流れているだけで、先の天竜川のようなことはございません。

 川を渡って関所前に着きますが、何、それとて心配することはございません」

 

   関所を関所を通ると、すぐ横に旅人目当ての鰻屋だった。中山屋とある。

「ここも良い匂いでしょ」

 多四郎殿の顔が蛤の時よりもニコニコしている。目にする鰻飯は湯気を立てている。匂いそのものが甘い。食欲をそそる匂いだ。

 山椒を振りかけ一口、鼻に抜けるかば焼きの匂いだ。実が柔らかい。美味い。腹が空いていた所為(せい)もあるだろうけどやっぱり鰻飯は美味い。

焼き蛤の潮風ほどの匂いは無いけど、これもまた名物だと納得した。

 江戸にあって食べるより美味いと感じるのは旅の所為(せい)か、名物、名産とい名の所為かと余り考えても仕方の無いことを考えた。

理屈では無い。美味い物は美味い。

「ここまで来れば、(しら)須賀(すかの)宿(しゅく)までは(あと)二里足らず。

夕も早めに着きますれば、ゆっくりと良い宿を探しましょう。

風呂にもゆっくり浸かりましょう」

 藤七殿の言葉を快く聞く。食べた後もゆっくりと休息した。馬を使かったけど今日も十里余は進んだと多四郎殿が言う。

 通った潮見坂の辺りは遠州灘が良く見えた。行き交う何艘もの帆掛け船の白い帆が記憶に残る。(しら)須賀(すか)は壺屋という所に宿を取ることにした。

 

 十月十五日、今日もまた天気は良いが、月も半ばとて夜の開けるのが遅くなっているのが分かる。()()バンバ(・・・)という面白い地名のある所を明け六つ前に通った。暗くて、景色も何も、橋の大きさも分からないまま通り過ぎた、

 橋を渡り終えてから、猿が出没する所かと多四郎殿に聞いたら思わぬ話が聞けた。

「秀吉公(豊臣秀吉)が(いくさ)のためにあの橋を渡って、側に有った茶屋で一服した。

柏餅(・・)を売っていたのだそうだが、歯の抜けた老婆の言うこととて柏餅が勝ち(・・)()(・・)と聞こえたのだそうだ。

 帰りにまた寄った秀吉は、言う通りに勝てたぞと、猿の顔に似た老婆に褒美を与えたのだという。

番場(ばんば)(ばば)で・・」

 通り過ぎたばかりの橋の名を改めて聞いた。だけど、多四郎殿は、さて(・・)と首を(かし)げた。歳は取りたくないものだと言う。三人で笑った。

 あの橋が遠州(遠江国)と参州(三河国)の境になると藤七殿の説明がついた。

 

 右に富士を見ながら二川(ふたがわ)を過ぎ、九つ(お昼)前に江戸から三十四番目の宿(しゅく)だという吉田(よしだの)宿(しゅく)に着いた。

 腹も空いていたけど先行きの空が気になる。故に三人で計り、船町(ふねまち)に急いだ。

川崎屋という所で伊勢に向かう船は有るかと相談をした。

 炭を運ぶ船が夕方に出る、それで良いかと聞かれて、良いも悪いも無い、その船に乗せて貰うことにした。

それから近くにあっためし処(・・・)で腹を満たした。

 藤七殿の忠告どおりに荷物を頭陀袋一つにまとめ、必要な物だけを懐と、風呂敷に包んで腰に括り付けた。

 日の暮れるのを待った。

             四 お伊勢参り

 吉田川(愛知県豊橋市の豊川(とよがわ))の大橋側から船に乗った。積み荷は既に整ったらしい。汐入(しおいり)の川で両岸の景色に見とれていると、大粒の雪が降りだした。

 参州(三河)の山並みも岸辺に見える人家の灯りも雪に霞む。雪の暮色は筆にも言葉にも尽くしがたい。

「対岸の灯りは前芝村(まえしばむら)だ。一足早い雪だ。なに、直ぐに止むでしょう」

船乗り人足の一人が教えてくれた。

 聞けば伊勢の大湊(おおみなと)という所まで二十里だと言う。この景色に何か記さねばと七言絶句に歌を考えた。

 凄風吹送一扁舟山碧沙明江月浮縹渺金波天如昼随潮直下参河州

(平たき舟に大風の吹き 見ゆる山は緑にして砂浜を明るく照らす 月は海に浮き はるかに打ち寄せる波の様も昼の如く見ゆ まさに潮満つる三河の地(中州)なり。筆者訳)

 はれ渡る 月を三河のたのしさを さしてこぎ行く伊勢の海原

 時は冬 月はまんまる 船の空

 何首か書き留めていると、戌の刻ばかり(午後七時頃)に帆が上がり、海原に漕ぎ出た。

 三人揃って船倉に下りた。お伊勢参りだという同じような客が何人か先に居た。

まずは己の荷物の置き場所と居場所を確保した。

 一息ついたところで、藤七殿だ。

「寒いけど甲板に出て見ますか、どのようにしますか」

「明日の朝には伊勢神宮ですよ、お伊勢参りは(おのれ)とて初めて・・、早く見たい」

多四郎殿が興奮気味に話す。

「それは先のこと。海上からは見えません」

その応えに、周りからも笑い声が漏れた。

 

 藤七殿が、海原も薄暗い中に見える島々を教えてくれる。あれが日間賀(ひまか)(じま)篠島(しのじま)だと説明してくれるが、岸に点く人家の灯りは分かっても島は黒く横たわっているだけで景色は分からない。

 それよりも寒さが身に染みて来る。亥の刻(午後九時頃)になるだろうか、沖合に出た船は段々と揺れを大きくした。気持ちが悪くなった。

五苓散(ごれいさん)を飲んで眠るが勝ちにございます。戻りましょう」

様子を察した藤七殿が言う。

 船倉に戻ると、大概の人は既に横になっていた。持参の五苓散を飲み、用意されてあった薄布団を引っかぶった。寒さ凌ぎの方法がそれしかない。

 船に当たる風と波の音が大きく聞こえてくる。眠り難い。