夜半には雨戸を打つ風の音がしたけど、今、見上げる空は薄青い。風もない。今日は旅をするには良い天気になりそうだ。そろそろ明け六つ(午前六時)になる。出立することにした。

 これから一刻(二時間)もかからず原宿(はらのしゅく)だ。その何処ぞで朝飯を摂ろう。

それから吉原(よしわら)蒲原(かんばら)と進んで今日のうちに由比(ゆい)まで至る算段(さんだん)を三人で計った。

そういえば、初めて由甫(伯元)と江戸上りをした時のような旅の計画書のないのに気づいた。

 今井と言う村で三人とも馬に跨った。街道の道々、右手に富士の山だ。左手になる海は時折姿を隠すが岸を打つ波の音は絶えない。

 程なく原の浮島が見えて来た。百聞は一見にしかずとはこのことだろう。浮島のこの景色、言葉にし難くことのほか絶景だ。

馬も休め、酒・めしの小旗の揺れる茶屋にてしばし休むことにした。

 多四郎殿が名物の鰻を食べよう、江戸に上るも下るにも何時もここで鰻飯を食べると言う。藤七殿も私にも異存は無い。目にも腹にも贅沢な時だ。

 腹ごしらえが出来るとまた元気が出る。馬上の人となって沼津(ぬまづの)宿(しゅく)に一里半、(よし)原宿(わらのしゅく)へ三里六丁と有る追分に出た。ここから見える富士も良い眺めだ。

 江戸で目にすることのない大きな富士山が裾野まで見える。馬子の鼻歌交じりを聞きながらしばし松並木を歩んでいて、右に見えていた富士山が徐々にその姿を左に移した。

 

 午(  うま)(とき)(午後十二時前後)に吉原に着いた途端、富士川は川留めだと耳にした。昨夜の雨の水嵩が引くのに丸一日はかかるだろうとは、如何ともし難い。

 意外な人に出会った。大坂で会う約束をしていた須原屋太郎兵衛殿だ。江戸で出版を手掛ける須原屋の手代だ。

須原屋の主(須原屋市兵衛)の縁故と聞いている。藤七殿も多四郎殿も太郎兵衛殿を知っている仲だ。

「いやはや。致し方ござりませぬ。昨夕からこの駅に留められておりまする。

同じように川開(かわあ)きを待つ人も多かれば、皆様も早くに宿(旅籠又は木賃宿)を定めた方がよろしいかと存じます」

 二日も足止めになっているのかと、人の事とて気になった。三人で計って銭屋という旅籠を探し当てた。

頭陀袋等大きな荷物を預かってもらい、それから後に西町という所の(はずれ)にあった酒処で昼めしにした。

 何処に有っても見える富嶽(ふがく)は絵になる。

 

 夜になって須原屋が(われ)等が宿に移って来た。改めて酒を口にし、しばし富士にかかる話だったけど、その後は東海道の名所、名物のあれこれの話に花が咲いた

 

 江戸を発って五日目になる。

 空は晴れているけど川留めは解除されていないと旅籠の(あるじ)だ。

「(上方に)上る道とて、他にないものか?」

「はい、川も上流に遡れば川幅が狭まります。そこに先に進むことが出来る橋が架かって御座います。

富士橋という吊り橋まで、ここから凡そ五里の道になりますが・・・」

 さてさてどうしようかと三人で計り、その富士橋を渡る回り道を選ぶことにした。

吾らの決め事に少しばかり驚いた顔をした須原屋だ。川開けまで待ちます、別行動にすると言う。

 田舎道とて何処もデコボコしている。四十も半ばを過ぎている二人は宿駅から駕籠に乗り、私はまだ若い、歩けますと徒歩(かち)にした。

 伝宝村(  でんぽうむら)という所を通って杉田というところで一息ついた。多四郎殿が言う。

「この杉田という所が先生(玄白)のそもそもの御先祖様の地でございます」

 嘘か誠か分からない。しかし、ここから見える富嶽の景色も良い。喉を潤して先を目指すことにした。

 星山(ほしやま)というところを通り、(ぬま)(くぼ)(沼久保)村を過ぎて身延山に至るという別れ道が有った。参詣に向かうとて白木(しろも)綿(めん)姿に菅笠(すげがさ)手甲(てっこう)(きゃ)(はん)草鞋(わらじ)と身を固め、手に金剛(こんごう)(つえ)を持つ者もいる。

 それから間もなくして富士川に注ぎ込む芝川という所に出た。吊り橋があった。

旅籠の主が言った吊り橋がこれらしい。長さ七、八間の吊り橋は両岸の石壁にしっかりと結んだ太綱を渡し幅七尺ばかりが竹と木で編み上げられていた。

 その真ん中に人の通り道とて二尺ばかり幅の板が敷かれてある。

風の吹く日は分からないが、左右に目を遣らず真っすぐに進む分には怖くもない。

 見る芝川は富士の山水とて透き通って川底に水藻が見える。清流とはまさにこれだ。群れて泳ぐ小魚の姿も多く見える。 

渡り終えると、しばし民家の軒を借りて休憩し、私も疲れたこととてここから由比まで駕籠に乗ることにした。

 

 二里の道も上がっては下りての尾根に瘤山(こぶやま)だった。由比川の河原に至って陽は傾き、月明りとなった。

暮半(午後七時)過ぎになってやっと由比の駅に着いた。直ぐに見つけることのできた小料理屋で少しの酒に夕餉とした。

(あるじ)に教えて貰った旅籠はすぐ近くで良かったけど、風呂無しだった。

三人が一部屋に早々と横になった。

 

 十二日、快晴と書き留める。明け六つ(午前六時)前に宿を後にした。何度となく往復している藤七殿らしく、東海道はこの由比の一里ほど手前に通らなかった蒲原(かんばら)の山越えがあるのだと教えてくれた。

 それから間もなく、倉沢という所で(ぼう)嶽亭(がくてい)とある茶屋に寄った。「めし・酒」の小籏が軒下に揺れている。朝早いのに混雑というほどの客だ。

 木の長椅子に三人揃って座ることが出来たけど、運ばれてくる料理を置く所とて無いだほどの客だ。目の前には富士と連なる山々が海を隔てて広がる。

「そろそろですよ」

と藤七殿だ。

 一瞬、何事かと思った。周りが白みがかる。赤焼けの旭日が上った。天城山の頂に太陽だ。

左はてっぺんに雪をかぶり山肌一杯に陽を浴びた富士山、目の前にキラキラ光る海と伊豆の山々と旭日。その絶景に言葉も無い。

「これをお見せしたかった」

目の前の光景は昇る陽に変化していく。目を離せないまま藤七殿の声を耳にした。

徐々に徐々に伊豆の山々、冬枯れの木々が赤みを帯びて照らし出されていく。

「富士山が雪で白一色になった時に、朝陽を浴びる光景もまた絶景ですよ」

 多四郎殿の言葉に、真冬の富士と目の前の海と山とをも想像した。

朝餉をすますと、下手と解ってはいてもこの感動を歌に書き留めたくなった。

 いつながら 海は日の出ぞ富士の雪

 そこから数百歩ほどして、()()()だと言う。左手に見える富士も右に見える駿河の大海原も見事なもので、一休みの間にまた一句洒落た。

 旅のうさも さったの海や友千鳥

 程なく行きて、(おき)津川(つがわ)の浅瀬を人足の肩の世話になった。渡り終えると、遠く左手に見えるあれが田子の浦、右手、目の前に見えるのが三保の松原だと藤七殿の説明がついた。街道筋から離れて見るせいか、三保の松原に噂ほどの風色は無い。

 興津(  おきつの)宿(しゅく)も過ぎ、その(はずれ)清見寺(せいけんじ)という寺が有った。屋根瓦に(あおい)の紋がある。庭先を借りて休憩をとった。

境内を掃き清めていた小僧が韓人の書があると言う。本堂の内にそれを見ることは出来たが、何と書かれているのか読めなかった。

 そこから進んで江尻(えじりの)宿(しゅく)駅から半里(約二キロ)、駿府の城下まで三人ともまた馬上の人となった。府中(城下)に至り、お城を横に見ながら名に聞く二丁町(にちょうまち)という遊郭をも通り過ぎたが、それほどのものには無い。

 駿府の城下を離れ、安倍川(あべがわ)を肩車一人四十八文(約千二百円)で渡り、名物安倍川餅の旗が風に揺れる茶屋でその餅を口にした。茶を飲み、暫しの休憩とした。

「これから先の丸子までは一里十六町、(約、五・七、八キロ)。丸子から岡部までは凡そ二里(約八キロ)。今日は岡部までで、もうひと踏ん張り。足の方は大丈夫ですか」

 藤七殿が聞く。いつの間にか藤七殿が三人のまとめ役、親方だ。

「丸子はトロロ飯が名物だ。それを夕飯にして、岡部では寝るだけにしましよう」

多四郎殿も私も異存は無い。

 

[付記]:「芝蘭堂」にかかる一考察・2

 前回水曜日の投稿に少しばかりトラブルが発生し、投稿をあきらめていたのですが、パソコンが回復したので、ここに「芝蘭堂」なかかる一考察・2を掲載させていただきます。

 大槻玄沢は、一番最初に日本橋本材木町に芝蘭堂の看板を上げました。それ以降、引っ越しをするたびに、その看板を抱えて移転します。

 まずは、日本橋本材木町な何処になるのか、国会図書館データから探し出しました。見つけた「築地、八丁堀、日本橋南地図」(別紙1、下記)と

 

過去に入手している人文社の「大江戸地図帳」とを照らし合わせて、現代の築地、日本橋、新橋、浜松町辺りの地図に落とし込んでみました。(地図2、上図)

 

 それで、大体、芝蘭堂の位置と、杉田玄白の天真楼塾(三又塾)、前野良沢の居た中津藩の位置、芝の増上寺、芝大神宮、芝新明町との位置関係が分かると思います。

 今日、増上寺の右方後ろに大きく東京タワーが見えます。またその右横から現代にも芝公園が大きく広がります。

 瓊浦紀行は天明6年に大槻玄沢が長崎帰りで筆記した物です。それゆえ、紀行文の冒頭の句は芝蘭堂の主人となった大槻玄沢の句だという説も有ります。

 確かに句の内容は、玄沢が瓊浦(長崎)に行くに当たって喜び勇む心情を吐露しているとも受け止めることが出来るものになっていて、玄沢の句だ、句の後に芝蘭堂主人とあるのは大槻玄沢その人だとの説も成り立つようにも思います。

 しかし、考察1で小生が申し上げた通り、冒頭の句の2番目に前野良沢の長子、その後に、杉田玄白や、玄沢の先輩、友人、玄沢自身の句等が後に続いている。

 前野良沢自身が、自分の和蘭訳筌にあるオランダ語会話集をもっと使えと玄沢の和蘭鏡の充実を励まし、蘭学の普及のために玄沢の長崎行きを一番喜んだ前野良沢の句がないのは不自然です。

前野良沢の長子、達(とおる)の前に来るのは、小生には前野良沢以外に考え有られません。

 玄沢自身、西洋医学医術の師匠は杉田玄白、されど、蘭学、翻訳の師匠は前野良沢と思っていたのです。

 瓊浦紀行の冒頭にある「芝蘭堂主人」の句は次の通りです。( )に示した小生の意訳を参考にして、瓊浦紀行の冒頭にある芝蘭堂主人とは誰か、と読者ご自身で推理してみてください。

    将遊瓊浦偶題       (まさに瓊浦(長崎)に行くとての句)

  曾抱千秋医国業将酬万里航海心 (かねてから行きたいと千秋の思いを抱いて

                  いた医の国、和蘭。長崎行きはまさにその

                  国の医学医術を身につけんと万里を航海す

                  る心ぞ)

 

 なお、この句は小生の小説の上では、玄沢が太宰府に至り、社を前にして思い浮かぶ師(前野良沢)の句として書いてみました。

 江戸でベストセラーとなった解体新書に本来あるべき前野良沢の名がなかった経緯(いきさつ)等を考慮して小生なりの小説仕立てにしたつもりです。

 そうこう頭を悩ませている間に、過去の前野良沢の居住しているところ、杉田玄白の天真楼塾のあった所の小生の表示に大きな誤りがあったと気づきました。(別図3、下記)

 この場をお借りして、読者の皆様に深く、深くお詫びも仕上げます。ごめんなさい。