ニ 箱根越え

 長旅は江戸と東奥(みちのく)の往復の事の他に知らない。先生(玄白)や中川(淳庵)さんのご配慮もあっての同行者だ。

道連れは心強いが、迷惑を掛けないようにと気も引き締まる。 

 昨日一日とて十里を超える道だった。馬をも利用したのに、少しばかり右足の(ふくら)(はぎ)に疲れを感じる。日頃の体力づくりの怠けを少しばかり後悔する。

 先は長い。無理は()まい。今日は山越えに備えて小田原泊りだ。その先は世に聞く箱根八里だ。

大鋸(だいぎり)(ちょう)立場(たてば)(藤沢宿、馬の継ぎ立て場)近くに来て、見上げる空の雲行きが怪しい。三人で話し合い、先を急ぐとて馬を利用することにした。

 蹄(  ひづめのカッポ、カッポと言う音を聞く間もなく、施しを乞う(わらべ)が足元に付きまとう。

「馬が危ないぞ」

言いながら、少しばかりの小遣い銭を握らせた。

「有難うございます。この辺りもこの二、三年、米や野菜が不作であのような子が増えております」

馬子の方から感謝の言葉を貰うとは思わなかった。

 四の宮とか言う平塚(ひらつかの)宿(しゅく)に出る手前でとうとう大雨に風だ。暫く農家の軒を借りた。

その後に馬を返し、馬入(ばにゅう)(がわ)(相模川下流)を無事に渡って平塚(ひらつかの)宿(しゅく)に至った時はホッとした。

 何時にまた天気が変わるか分からない。この先の川渡(かわわた)りが出来るのか気になる。三人で話し合って平塚をそこそこにして大磯へ急ぐことにした。歩きだ。

 途中、藤七殿が言う親鸞上人謂れの寺だという善福寺に少しばかり立ち寄ったけど、大磯に至っては()らこ(・・)()(曽我物語の曽我(そが)十郎(じゅうろう)(すけ)(なり)の愛人、虎御前に関わる石)を横目に見ただけで通り過ぎた。

 また西行の和歌(うた)(心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ)に惹かれて、わざわざ仙台から(しぎ)立沢に移り住んだと言う俳人、大淀(おおよど)三千風(みちかぜ)にまつわる石碑が有ったけど、それもまた少しの間の足の休憩だけにした。

左手にズーっと見えている海は広い。打ち寄せる波の音と塩の匂いが気を鎮めさせた。

 暫く続いた松並木の街道を抜けると、川を渡る景色が目の前に広がった。酒匂(さかわ)(がわ)だ。

六郷(多摩川、川崎宿、)も馬入川(相模川、平塚宿)も小船の渡しだったけど、ここは徒歩(かち)に頼る川渡りだ。途中の雨で心配したけど、まだ川留めになっていない。

 川(  かわ)会所(かいしょ)の駄賃表を確かめた。肩車(かたぐるま)川札一枚、四十八文と有る。水嵩(みずかさ)が増すと料金が違うらしい。胸で六十八文、乳で七十八文、脇で九十四文と有る。

 蓮台(  れんだい)一つの料金は肩車の倍だ。川に目を遣ると、その蓮台なるものは二本の棒に板を渡し客を一人乗せて四人で片棒を担いでいる。 

 安全を考えれば蓮台だろう。迷ったが振り分け荷物とて少ない、身は軽い方だ、聞けば今日はまだ水嵩が少ない方なのだそうだ、節約もせねばと考えて肩車川札一枚にした。

 川を渡る。川の中にある時は余計な声を掛けるなと人足が言う。彼らにとって今の水嵩は普通だったのだろうけど、いやはやおっかな吃驚(びっくり)、実際はヒヤヒヤものだ。ケチる必要もあるまい、今度の時は蓮台にしよう。

 小田( おだ)原宿(わらのしゅく)に入ると、強くなった雨風(あめかぜ)所為(せい)もある。客引きの女子(おなご)の声が早く早くと騒々しい。頭陀(ずだ)(ぶくろ)も着ている物もズブ濡れだ。宿賃が高くても枕を高くして寝られるよう、三人だけで泊る部屋は有るかと聞いた。

雨の中でも袖を握って離さなかった女子は上客と踏んだらしい。

宿場駅近くに宿を取った。軒下の灯り提灯には伊平とある。

 旅籠に入ると、手引き女子が他の女子も呼びつけて濡れた身体を着物の上から拭き、足を洗ってくれた。そのまま自分一人が部屋まで付いて来た。

 言われるままに三人揃って温泉風呂を使った。部屋に戻ると、頃合いを計っていたらしい。直ぐに顔を出してお膳をお持ちしますと言う。手際の良い女子だなと感心した。

 疲れをとるのに二合入りの徳利を頼んだ。聞けば、梅干しが特産だと言う。梅干しは菌を殺す、太りすぎを抑えるのに良い、血を鎮めるとその効能を思う。

 また聞かずともこの小田原に四つの本陣、四つの脇本陣があるのだと自慢げに言う。

 出立は卯の刻、七つ半(午前五時)と伝えた。明日に沼津まで足を伸ばすと言うと驚いた顔をした。小田原から三島まで三人とも籠を使うと言うと、納得した顔に、御大尽様でと言う。皮肉にも聞こえた。

 敷かれた床に横になると、箱根八里(はちり)の山越えはどうなるのだろう、三島の大社はどんなところなのだろうと思った。

旅慣れた藤七殿と多四郎殿は既に(いびき)をかいている。酒が眠りを誘う。天気が回復してくれるよう祈りながら目をつむった。

 

 雨は夜半に上がったらしい。天下の剣と聞き及んでいる箱根の山だ。

三人とも駅で輿(こし)に乗った。坂道とはいえ泥濘(ぬかるみ)もある。風がまだ時折強く吹く。轎夫(かごかき)とて大変な仕事だなと思う。一駕籠一里百四文は仕方あるまい。

 ひたすら雑木林の中を上るが、視界の開けたところで休憩になる。担ぎ手の休憩は客の眺望も考えてのことらしい。

断崖絶壁に続く霜の降りた山々の景色は青い空に実に眺めが良い。足腰を伸ばし両手を広げて一息ついた。

石畳を過ぎて(はた)宿(じゅく)という村に入ると、寄せ木細工の看板が目についた。轎夫(かごかき)人足の休憩地でもあるらしい。

 並ぶ売り物の品々に気を引かれたが、土産にすれば荷物になるとて買わなかった。三人打ち合わせて茶屋に入って蕎麦を喰うことにした。

 目の前に連なる山々が何と言う山なのか分からない。お茶も一服所望してから腰を上げた。三島に向かう箱根の峠まではまだ半分道だ。

 途中、関所越えが待っていると思うと気が引きしまる。

右手に二子山の山並みを見て石畳みを過ぎ、間もなく(うみ)が見えてきた。(さい)河原(かわら)から湖越しに箱根権現の赤い鳥居が見える。

一休み。足腰を伸ばしてその景色に見入った。大きな湖が広がる。これが芦ノ湖と言うものか。

 杉並木の間から見える小舟に目を遣りながら駕籠を進めた。鬱蒼とした杉並木が途切れると、突然、左手前に関所が現れた。

駕籠を降りて入口になる御門前の人溜まりで順番を待つ。三人で話し合い、藤七殿、(おのれ)、多四郎殿の順番で検問を受けることにした。六尺棒を手に鉢巻をした捕り手と言うのか番兵と言うのか、彼らの指示に従う。

 緊張した。誘導された(おもて)番所(ばんしょ)には(かみしも)姿(すがた)のお役人様が三人並んでいた。脇の下から汗も出る。

真ん中に座るお役人様は差し出した往来手形(現代の身分証明書、檀那寺(だんなじ)が発行)に関所手形(大家が発行)を手にした。

「長崎にはどの様な仔細があって参る?」

「京にも大阪にも長崎にも医術習得のために御座います」

 阿蘭陀語の勉強のためにと思いながら、咄嗟に医術習得のためにと口にした。阿蘭陀の()の字も言ったら根掘り葉掘り何を聞かれるか分からない。

「通られよ」

通行の許しが出て、厩を右に見て通る時にはホッとした。

西から江戸等に下る人溜まりで藤七殿が待っていた。

「いやー、慣れぬ事とて、冷や汗が出ました」

「何、おどおどしとったらあきまへん。

堂々としはっとったら何の問題もおこりませんがな」

その忠告、先に言って欲しかった。

やがて多四郎殿も姿を見せた。人溜まりの柵を出て、やっと気持ちが落ち着いた。

振り返って関所を見る気にもならない。

 しばし歩いて、お茶、めし処の旗が揺れる店先の長椅子に腰を下ろした。関所超えだけでどっと疲れを感じた。注文した甘酒が美味しい。 

「京にお(のぼ)りですか」

聞く茶屋の娘子(むすめご)に、無言のまま頷いた。

「羨ましい」

前にも何処(どこ)ぞの茶屋でこのようなことがあったなと、由甫(伯元)と初めて江戸に上った時のことを思った。

「旅が出来るのが羨ましい。

 この箱根(はこねの)宿(しゅく)は三島と小田原からそれぞれ五十戸ずつ移転させられた時に始まります。

今では本陣六つに脇本陣一つが御座います。

お大名様の連れが泊る旅籠とて三十を数えます。旅行く人のために温泉の質が良いのが何よりで御座います」

 聞かずとも話した。旅の土産話の一つにして下さいとの最後の言葉に、なるほどと感心した。

また駕籠に乗ることにした。高札に駕籠一里百二十四文と有る。

 下りは楽だろうにと思うが、轎夫(かごかき)は、かえって坂で傾く駕籠の調子を取りにくいのだと言う。

そうは聞いたが下る坂道はかけ声も良く軽快だ。エイ、ホッ、エイ、ホッの人足の掛け声が心地よい。口にこそしないがいつの間にか合わせてエイ、ホッ、エイ、ホッと調子をとっている自分だ。

             三 富士山と行く

 目にする富士山は夕焼けを背に美しい。江戸では決して見られない裾野までの姿だ。

何度となく轎夫(かごかき)人足の足を止めさせた。足腰を伸ばすが、目の前の雄大な景色に溜息がでる。

「山を下りたら駕籠を返します。その足で三島大社にお参りをして、そこから沼津に参ります」

 藤七殿の説明を聞きながら、彼の昔からの(よしみ)だと言う今夜の宿の伊右衛門殿とはどのよう人だろうと思った。

三島の大社は立派なものだ。来ねば由緒は分からない。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵し、勝利の願を掛けたところだと初めて知った。

しばし社のあちこちを歩き回り、門前に戻ると草鞋(わらじ)を買い足し明日からの都合をつけた。

 三島から(およそ)一里半(約六キロ)、沼津(ぬまづの)宿(しゅく)に着いた時には既に周りは暗かった。

伊右衛門殿とその家族は良くしてくれた。風呂を貰い、焼魚の名は分からなかったけど夕餉に出された海の幸は美味(うま)かった。

 

[付記] 今日のブログ、投稿時間が遅れたことをお詫びいたします。

 小生自身、正直困っています。投稿は小生の小説の生原稿を複写(コピー)して掲載しているのですが、ここ数回、数日、原因が分からずに正常に複写(コピー)出来たものが、投稿場面に「貼り付け」が出来ないのです。右クリックしても「貼り付け」の指示項目が出てこない、という現象なのです。

 昨日に、遠隔サポート契約をしているjcomの指導を受けても同じで、いろいろ原因を探っている現状です。

昨日は、指導を受けている最中に二つを試行して、一つが正常に「貼り付け」出来て、一つがダメでした。

 今日はこの時間になって、ワードの再起動をしなさいとのパソコン診断から正常に「貼り付け」が出きましたけど、またいつに「貼り付け」のトラブルが生じるのか、不安を抱えています。

 読者の皆様の中にはいつも投稿時刻を知って朝午前四時を待っている方もあり、恐縮しております。しばらくの間、再度ご迷惑をおかけすることがあるかもしれません。謹んでお詫び申し上げます。

 今後とも正常に動くことを期待しつつ、今日を締めくくらせていただ来ます。

 なお、パソコンは、2月25日に買い替えたばかりです。