第五章 長崎遊学

              一 出立

 明後日(あさって)にはいよいよ出立だ。旅支度の(かたわ)ら、心情を狂歌、詩歌(うた)に書き留めてみようかと机に向かったけど、早々に納得できるものが出来るものではない。それが良く分かった。

 荒井庄十郎さんからお聞きした長崎の丸山遊郭は実際にどんな賑わいなのだろう、工藤様に教わった吉原の遊びと如何(どう)違うのだろう。長崎と言えば異国の(やから)も丸山に遊ぶと聞いた。

 今や市中に人気の南畝(太田(おおた)南畝(なんぽ))や菅江((あけ)()(かん)(こう))、橘州((から)(ころも)橘州(きっしゅう))にあやかって狂歌風に「行く人は恋の(ふち)()にはまる山 唐も大和も寄合いの里」としてみた。どうだ、自画自賛だ。

 句に「師の恩のあつし小春の旅衣」。社中の皆様を思って「浦風(うらかぜ)はへだてて(ちか)(とも)(まもり)」ともまとめてみた。今の(おのれ)嘘風(こふう)嘘風(こふう)旅人(たびと)の作だ。

 花(  はな)(えだ)(たね)(しげ)と称して散文ふうにも書いてみた。

「男子生まれて四方(よも)(こころざし)有りを聞きたれば一とせ(年)思い立 西遊し侍らんと志し坊主あたまを毬栗(いがぐり)と変じ、けふ(今日)立(発)たんあす立たんと思へども、何くれとさわりいできて旅は(たち)のびうば玉の黒髪こそ(なお)(たち)のびたり 一筋の海道千里の独行大道(じか)にして髪の如しといひしを道には髪(神)の縁もあり 神の恵みに願う事叶ん時の至りとや

 漸々(せんせん)(ようやく)こたび思い(たつ)こととはなりぬ 一時の別れは悲しけれど程なくすぐるかへきの旅路、もとのくりくりあたま(頭)にするめまめて来る身と社中の人々へ。

(カッコ内は筆者。大槻玄沢著、(けい)()紀行に収録されてある。なお(はな)(えだ)(たね)(しげ)は、読み方を変えるとハナシノタネナリ(・・・・・・・・)となる)

 

 十月も七日とて、今朝は少しばかり寒さを感じる。まだ周りは暗い。一緒に寄宿舎に泊った仙安(中川淳庵の息子)も起きてきた。

 体調の悪い己に変わって見送りをして来いと父に言われましたと、昨夜に正直に語った仙安もまた良い人柄だ。出立の宴に姿が無かったけど、心配してくれる中川先生に本当に頭が下がる。

 自分自身、今朝まで興奮のままに浅い眠りでしかなかったけど、皆が見守る中で旅支度が整った。伯元も、伊三も、傍でその様を見ながら黙ったまま頷いた。

 外の景色を伺った仙安だ。

「間違いなく今日は快晴になります。青空が広がりますよ。

途中、品川(しながわ)宿(しゅく)辺りで夜が明けると思いますが、父が、きっと高輪(たかなわ)で有坂さんが見送りに出ているだろうと言っていました」

「お父上に宜しくな。元気に出立したと伝えてくれ」

 明け六つ(午前六時)。塾(三叉(さんさ)(じゅく)、天真楼塾)の敷居を跨いだ。長崎に向かう第一歩だと思うと心の中は言い表せないほどに気が(みなぎ)って来る。

 見慣れた二人の門番も軽く頭を下げて見送ってくれた。ここに戻ってくるのは来年の春だ。

道々、昨日の昼に塾の一室に集まってくれた先生(玄白)や仲間うちの顔が思い浮かんだ。

激励文を寄せてくれた良沢先生、それを披露した(とおる)さん(前野達)。進行役を務めた岡島さん。

 その岡島さんから、所用が有ってどうしても参加出来ないと有坂さんと工藤殿から連絡が有ったと報告された。

 歓送の歌を寄せてくれたのは(いち)(おう)何仙(かせん)、朽木(昌綱)殿だ。

 阿蘭陀語専修のために江戸から長崎に遊学するのは青木昆陽、前野良沢先生以来だと挨拶に立って語った先生の言葉が今も耳に残る。

茂質(しげかた)(玄沢)を長崎に送るとてと、披露してくれた歌も忘れてはなるまい。頭の中で復唱した。

(露のをく草のまくらに(なく)百鳥の 声きくごとにこころさゆらん  (たすく)(玄白の諱))

 

 伊予松山藩の中屋敷(港区三田)が近い。高輪(たかなわ)の道端に有坂さんを見つけた。もう、六つ半(午前七時)にもなるか。周りは明るくなった。

「何時から待っていてくれたましたか?、寒かったでしょう」

駆け寄って手を握った。嬉しさを越して、それ以上に掛ける言葉さえない。

「しっかり学んで来い。達者で帰れよ」

 不覚にも涙が浮かんだ。そっと紙包みを渡された。感触からも金子とわかる。言葉も無く頭を下げた。

「本当に良い人ですね。兄上ですよね」

道々、語る伯元さんの言葉に黙って頷いた。有坂さんは本当の兄のように思える。

 

 それから品川大仏(当時の芝高輪大仏。現在は品川区西大井に移転。養王院如来寺、通称・大井ぼとけ)の前にある村田屋と言う茶店で約束通り日野屋(ひのや)(とう)(しち)殿を待った。

 彼は芝に薬種を売る店を構えているけど、元は泉州境(大()(阪)堺)の出だ。大坂まで同行してくれることになっている。

朝五つ(午前八時)。約束通りの刻に姿を見せた。

「お早うございます。ご同行、宜しゅうお頼みします」

商人らしく、腰を低くして丁寧に挨拶する。

「こちらこそ宜しく」

「昨夜は、良くに眠れましたか?」

「はい。眠れましたけど、興奮していて早くに目が覚めてしまいました」

「吾は久しぶりに故郷に帰りますれば、うとうとと浅い眠りしか出来ませなんだ。

天気が良さそうで、何よりにございます」

藤七殿は空を見上げた。

朝餉にして、少しばかりの酒を飲み出立する。

「何人集まっているのでしょうね。秋の夕べはつるべ落としとも言う故、長居はできませんね。早々に()たないと・・・」

 大森村に向かう途中、伯元が言う。()(ぞう)は何時も後ろから付いて来る。

「うん、皆には悪いけど、そうしよう」

 大森村の尾藤の所に何人かが集まっているらしい。先日に、三叉塾で玄常先生の講義を一緒に聴講していた尾藤が、その終わった後に言って来た。

「長崎に行かれるとお聞きしております。それでお願いがございます。

大槻殿の阿蘭陀語入門書(和蘭鏡)を筆写させていただいておりますが、それを私が通う塾の者達皆が持ち回りで筆写の筆写をしております。

その者たちが皆で大槻殿をお見送りしたい、拝顔したいと申しております。それ故、是非にお立ち寄り下さい」

 それを藤七殿に話せば、大槻様は阿蘭陀語の有名人でございますなとよいしょした。

商人(あきんど)の言葉だと分かっていても悪い気はしない。

 

 尾藤の所では酒肴までもが用意されていた。だけど早々に辞して、彼が通っているという塾の生徒仲間達十人ばかりの見送りを受けた。

六郷の渡し(多摩川を八幡塚村と川崎(かわさきの)宿(しゅく)を結ぶ)を渡った後、先の村田屋で作ってもらった握り飯で昼餉とした。見える本牧(横浜)の入江は実に良い景色だ。

 伯元が言う。

「このままでは多四郎殿との約束の待ち合わせ時間に間に合わない、馬にしましょう」

 上方に向かう途中まで同行するもう一人、墨屋多四(すみやたし)(ろう)殿とは戸塚(とつかの)宿(しゅく)恵比寿屋(えびすや)と言う所で合うことにしている。

 約束は八つ半(午後三時)だが、とうに九つ半(午後一時)を過ぎているだろう。ここから徒歩(かち)では間に合いそうもない。

伯元の言う通りに、保土ヶ谷から戸塚宿までの二里九丁(約八・八キロ)を馬で行くことにした。

 普段、馬の背に乗ることは無い。一頭一里二百文(約八千円)もすると初めて知った。白米が一升五十文するご時世だ。四升分にもなる。

 馬の背の人となって、一関から江戸に上る時の白河の関のことを思い出した。懐具合を勘定しながらの時と比べれば、贅沢な身になったものだ。

 約束に少しばかり遅れたけど、前の晩から世話になっていたと言う。恵比寿屋伊平(いへい)方で多四郎殿と一緒になった。

彼は屋号の通り墨屋だ。江戸は日本橋本町三丁目の薬種屋が多い中に書道具一切を商う店を持っている。伯元さんも私も日頃から懇意にさせていただいている仲だ。出は和州(わしゅう)大和国(やまとのくに)、奈良と聞いている。

 戸塚からは徒歩(かち)の五人組となった。初めての宿となる藤沢(ふじさわの)宿(しゅく)には(とり)の刻、暮れ六つ(午後六時)過ぎに着いた。周りはすっかり暗いけど、幸い旅籠探しに苦労はなかった。

 

 十月八日、雨の音と、遠く潮騒の音で目が覚めた。

 暁七つ(午前四時)に旅支度を整えて宿を後にした。

歩き出して程なく、あれが時宗遊行寺だと藤七殿が指さす方を見たけど、まだ薄暗い中によく分からない。

それから半里程進んで追分になる。その手前にあった開いたばかりの茶屋に入った。

「くれぐれもお体を大事に。無理はしないようにして下さい。

私が言うまでも無いことだけど、これまでが何かと言えばズーっと一緒だったから、心配になります」

 目覚ましにお茶を一杯口にすると、伯元が涙ぐんで言う。

「心配するな。ご覧の通りに同伴者が()る。永の別れではない。春には元気に帰って来るよ。

それよりも、この江の島湘南周遊の此度(こたび)の旅は(玄白)先生が其方(そち)の日頃の働きに感謝して認めてくれたものじゃろう。

それを良いことに余り羽を伸ばしすぎないように。

先生をくれぐれも大事にな」

 少しばかり、兄貴(あにき)(づら)して笑いながら口にした。

「はい。心得ております。伊三(いぞう)(下僕)も付いておりますこととて、ちゃんと監視されております」

同行の他の二人も一緒に笑った。

「お金は常に身から離さずシッカリ持っていること、仮にもお金に困るようなことが有ったら状(手紙)でも早馬でも飛脚にても、何時(いつ)にでも連絡して下さい」

「うん、有難う。感謝する」

「良い弟様で・・・」

 実の弟では無い。伯元を先生のところの養嗣子だと知りながら多四郎殿だ。由甫(伯元)と吾、二人が同郷であることも、一緒に江戸に出て来た事情も知っている。

 湯気の立つ味噌汁に米の飯はすきっ腹に有難い。かき込んだ。それから伯元と伊三(いぞう)に見送られて先に出発することにした。

伯元の言葉もある。途中、背中にした金子と懐にした金子とを思った。関藩から遊学資金を援助するとの話はとうとう聞くことが無かった。

 皆さんからいただいた餞別の金とて合わせれば三両にもなる。それに、お断りしたにもかかわらず、受け取れ、しっかり勉強して来い、世間の事もな、と笑顔を見せた工藤殿に頂いた五両、朽木殿から今までに手伝ってもらった翻訳料だと過分も過分に頂いた十両、紀行文を後で出版するとて旅の先々の(おも)(しろ)可笑(おか)しきことに地域で見られる土産(みやげ)(もの)、名物、景色を書き留めて来るようにと須原屋が先に呉れた二両、先生に頂いたお心づけとコツコツと貯めていた己の金とを合わせれば二十四、五両にもなる。こんな大金を身に付けたことは無い。

万が一のことを考えて金子を背中の振り分けの中と、懐とに分けた。同行者がいるとはいえ道中は追いはぎ泥棒の(たぐい)に気をつけねばなるまい。

 

付記]:「芝蘭堂」にかかる一考察

 ここで、この先、小生の小説を公開するにあたって、「芝蘭堂」にかかる小生の考えを公表させていただきます。

 「芝蘭堂」は、大槻玄沢の私塾です。(小生の小説・大槻玄沢抄・後編に書き込んでありますが)一関藩から仙台藩に移籍が叶った後(天明6年)、外宅(藩邸に住まないこと)を許されて、幽蘭堂という私塾を京橋のはずれに開きます。

しかし、数か月と経たず、日本橋本材木町(当時の商業地、八丁堀、鉄砲洲にも近い)の方に引っ越します。そして、私塾の看板も「芝蘭堂」とするのです。

 藩士等の方々の拠出金(当時の共済金)を借入してまで確保した借家に「幽蘭堂」の看板を掲げたのに、なぜほどなく引っ越したのか、「芝蘭堂」になったのか。そこに何があったのか。

大槻玄沢を取り巻く当時の事情等を考慮して、また、先人の学者、研究者等諸兄の著作物等を拝見させていただいて、浅学の身ではありますけども、こう有ったのではないかという考えを構築するに至り、それに沿って作品に臨みました。

 

まず①、芝蘭堂は大槻玄沢が看板を掲げる以前に有ったのか、②、有ったとしたらその看板は誰の物か、どうして譲り受けることが出来たのか。

 結論から公表しますと、①、芝蘭堂は既に有った。前野良沢の教える蘭学教授の場が通ってくる子弟達に芝蘭堂と呼ばれて(・・・・・)いた(・・)、②、芝蘭堂の看板は前野良沢から譲り受けた。病弱な長子(前野(とおる))に代わって、良沢は玄沢に期待した、託したとなります。

 芝蘭堂は、大槻玄沢が看板を掲げる前に有った、杉谷(・・)()()()私塾(・・)()蘭堂(らんどう)」を受け継いだとの説もありますが、小生が前野良沢から芝蘭堂を受け継いだという結論に至ったのは次の理由からです。

 一つ、安永年間(1772年から1781年の約十年)はまだ、蘭学に対する江戸庶民の関心は無かった、薄かった。

 二つ、蘭学に庶民の目(少なくとも医者の目)が行くようになったのは、解体新書が出版された安永三年(1774年)以降だ 

 った。

 三つ、当時に蘭学を教えていたのは鉄砲洲(現在の聖路加国際病院辺り)、中津藩の前野良沢である。

 四つ、前野良沢は和蘭訳筌、和蘭語の会話集をも編纂し、解体新書編纂に関係する杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周、朽木正綱

    等々に蘭学、翻訳を指導していた。

 五つ、中川淳庵、桂川甫周、朽木正綱等々は、蘭学を学ぶため、医書翻訳のためにに前野良沢の所に通いもしていた。

 六つ、中津藩屋敷の近くに、芝地区が存し前野良沢の所に通っていた人達が、自然に芝の蘭学を教えるところ、芝蘭堂と呼ぶよ

    うになっていても不思議はない。

     芝新明町、芝大神宮、芝の増上寺等「芝」の冠を頂くところがあった(現代にも存在している)

 七つ、大槻玄沢も前野良沢の所に通うようになった。前野良沢を蘭学、翻訳の師と仰ぐようになっていた。

 八つ、玄沢は、前野良沢の和蘭(おらんだ)(やく)(せん)を参考にして天明3年(1783年)に和蘭鏡をまとめた。和蘭鏡は後に「蘭学階梯」(天

    明8年発刊、1788年)に改題されるが、その中の和蘭語の会話集は前野良沢の和蘭訳筌に収録されている。

     蘭学階梯によって、江戸市民のみならず全国にも蘭学に関する興味が広がった。しかも、医学医術のみならず天文、地

    理、測量、生活の有り様等までも関心を持たれるようになった。

 九つ、杉田玄白の居住するところは、浜町で、芝の地域から遠く離れている。

 十 、杉田玄白の西洋医学医術を教授する塾として天真楼塾、三又(さんさ)塾と門弟達が語り、呼び、その場を芝蘭堂と呼んでいたとい

    う記録が見当たらない。

     また、外に玄白が蘭語だけを教えるところを擁していたらばその記録が残されていると考えられるが、細目(こまめ)に日記等を

    残した玄白自身にその記録もない。

 十一、玄沢が自ら執筆記録した長崎遊学にかかる「瓊浦紀行」(遊学は天明5年の秋から6年の春)の冒頭に「芝蘭堂主人」の

    発句が掲載してある。ここでいう芝蘭堂主人は「大槻玄沢」自身だとの説もあるが。玄沢が私塾を持つようになったのは

    長崎から帰ってきた後(6年夏以降)のこと。初めての私塾・幽蘭堂を持つ前に芝蘭堂主人と名乗ることはありえない。    

     同紀行の二番目に、前野良沢の長子、前野(とおる)の句が掲げられていて、その後に、同僚等の贈る言葉、句、短歌が続き、

    その中に「(たすく)」、すなわち杉田玄白の名((いみな))、の作品を見ることが出来る。

     掲載の順番からして、一番目に来ている「芝蘭堂主人」は前野良沢と考えられる。そうでなければ、玄沢の蘭語の一番

    の師であり、玄沢の長崎行きを喜ぶ良沢の贈る言葉が一つもないことになる。

 十二、前野良沢に長子、(とおる)が存在するのに芝蘭堂の看板を玄沢に譲ことがあるのかと疑問もわくが、達は当時病弱の身である。

    実際、数年後に若くして亡くなっている。