十五 本藩移籍話
時は巡る。菜の花も梅の花も桜の花も咲き誇り、散り、木々は日に日に緑を増し、菖蒲の紫、白、黄色の花弁が雨に打たれて水辺に咲いた。見える田畑も緑の色を濃くしている。
工藤様から本藩移籍の話が有ってからもう三月になる。昼に患者を診ていても、夜に翻訳のために机に向かっていても、その後どうなったのだろうと頭から離れない。
長崎遊学を確かなものにしなければならない。カピタン一行が長崎屋に滞在していた折(この四月)、先生は吾を目の前にして、吾弟子、大槻玄沢が近じか長崎表に行く、その節に何かとお世話頂きたいと随行して来た大通詞(吉雄耕牛)に頭を下げているのだ。
吾が自ら大通詞や通詞助役に頼める話ではない。
吾が会話出来たのは去年もこの春も同行してきた通詞見習や従僕にある者だけだ。
遊学資金の工面にも頭が痛い。吾の長崎行きは玄白先生、良沢先生はじめ(天真楼)社中の皆さんの期待も大きい。
資金の工面がつかず遊学できなかったでは大風呂敷を広げただけと笑い話になる。
関藩が資金を援助するとの話はまだ無い。玄白先生からは今用意できるものはこれ程だと先に心づけを頂いた。
良沢先生をもってしてもへーステルの外治(外科)の分からないところ、翻訳の進まないところを通詞達に教えて貰って来いとの宿題は嬉しい。遊学の目的の一つになるお話だ。
また、先生は朽木候にも資金援助をお願いしていると語った。世界の硬貨、銭に関心を寄せる侯を手伝って私が翻訳の一端を担っていると知ってのことだ。
手伝っているとはいえ金の無心は自分から言い出し憎かろうと、大先生自らが吾のために資金援助を申し出ている。感謝の言葉の外に無い。
工藤殿の援助は充てにすまい。してはならぬ。そう心に決めている。何事にも冷静でかつ人の世話を厭わない平助殿だが、それを聞いた時にはまさかと思った。
家々を焼失したのは大名家も大店も多く有る。それ故に世間では材木も大工も奪い合いになっていると聞いてはいた。工藤殿は火事の少し前に知り合い、後始末に助力してくれた男を信用しすぎた。
任せた建築資金をその男に持ち逃げされて仕舞った。
今、建てかけの家を泣く泣く人手に渡さざるを得ない状況にあると良沢先生にお聞ききした。
藩に借財とて望めるハズも無かろう。仙台藩の財務を執る工藤殿だ。藩の窮状を誰よりも知っている。飢饉の問題をも抱えているのだ。
八月になるというのに梅雨時みたいなぐずついた天気が続く。神経がイラつく日が多い。
それが今日は久しぶりの青空だ。藩長屋の空き地で身体を動かしてみる。体中から汗を出すのも健康の維持のために必要なことだ。今日は(天真)楼が休みなことも幸いだ。一日、ゆっくり出来ようか。
朝餉には何が食えるのか。米相場がまた上がったと嘆いていた賄いの小母さんの顔が思われた。辰の刻、朝五つ(午前八時)にはなるだろう。
汗を拭きながら敷居を跨いだところで声がかかった。振り返ると、六尺棒を手にしたいつもの門番と若者が立っている。
「大槻殿、仙台藩上屋敷からの使いだそうです」
門番が首筋の汗を拭う。若者がその言葉に合わせてペコリと頭を下げた。
門構えからしてさすがに本藩江戸上屋敷(港区東新橋、現在の日テレタワー辺り)だなと、余計な思いが浮かんだ。
客が来ると申し渡されていたのだろう、己が名を告げれば、玄関口に出た女中が直ぐに座敷に案内した。
右横の襖が開くと、間もなくガッシリとした風体の人物が入って来た。
床の間を背に座った。四十(歳)ぐらいになるのかなと思う。緊張を覚えた。
「仙台藩江戸番、組頭の松崎仲太夫と申す。
今般、藩にては外科針科の医師を新たに召し抱える話が有ってその吟味御用係を仰せつかっておる。
外部からとて、一関侯の所に居る其方が良いと推薦があった。
それで国許には其方の名を報告した」
それを聞いて、工藤殿のことを話して良いものかと迷った。
「わが藩の工藤平助殿との関りは何時頃からになる?」
先に工藤殿の名が出た。ホッとした。それから後は、前野良沢先生の所で初めて工藤殿にお会いしたこと、遊学期間の延長についてもお骨折り頂いたこと、赤蝦夷風説考に関わる翻訳の手伝いを法眼、桂川甫周殿と一緒にしたこと等を話した。
「其方の遊学期間延長の経緯については吾が公からもお聞きした。
今回も工藤殿の願い出に応じて公が田村公(一関藩主、田村村隆)にお声を掛けておる。
其方の阿蘭陀語の翻訳に置ける力は相当なものだそうな?」
「恐れ入ります」
「其方が近日中に長崎表へ出立するとも聞いておる。それ故、その前に田村公に使者を送り、其方を本藩に貰い受ける話を進めよと国許から内々に指示があった。
公に信頼の厚い工藤殿の推薦とはいえ、御家老(平賀蔵人)やお側用人(茂木弘見)等でこの件を吟味しておるでな、まだ内密の事とて他言無用じゃ。
今日は顔見せじゃ」
私がここに呼ばれたことの経緯を口にしながら、顔は始終ニコニコしている。
「して、この話を進めることに異存は有るまいの・・・」
喜びと共に、身の引き締まる思いでその言葉を聞いた。
「有り難き幸せに存じます。何卒、良しなに」
「事が真になれば追って沙汰する。
本藩に移籍と有れば其方にもいろいろと申して置きたいことが有ろう。申したきこと、考えを良くまとめて置くが良い」
屋敷の門を出ると、心の中で万歳、万歳と叫びながら歩を進めた。藩財政が如何なと、頭の中から消え失せた。
振り返って見る仙台藩邸が頼もしくも思われた。
九月十一日、仙台藩袖ケ崎屋敷(下屋敷、品川区東五反田、清泉女子大学地)からだと言って股引に尻を端折った使いの者が来た。松崎(仲太夫)様の使いだと言う。
受け取った状(手紙)をそのまま長屋の玄関口で開けた。急をもって相談したいことがある。早速に屋敷まで来てもらいたい。其方にとって真に喜ばしき知らせと有る。
使いの者と一緒に急いだ。途中、袖ケ崎屋敷は品川下大崎になると聞いた。また、松崎様はどのようなお方かと聞いた。
四、五十(歳)にはなるだろう鬢の辺りに白髪の混じる使いは、一言も応えなかった。田舎に居る治作のことを思い出した。
仙台藩下屋敷を訪問するのは勿論初めてになる。
驚いた。高台にある屋敷から富士山が目の前に大きく見える。門構えもさることながら、広がる田園風景と富士山の景色だ。凄い。足を止めて見入った。
治作さんにも似た使いの者に、こちらえ、と促される始末だ。
女中に案内された座敷に座ると、松崎様がほどなく入って来た。
「うん。足を運ばせたの。遠かったか?」
「いえ、少しばかりは足に自信もございますれば」
「左様か。汗を拭くが良い。いや外でもない、先日の件じゃ。
御沙汰が有った。話が凡そに整った。
正式には其方の長崎からの帰り次第じゃ、戻ってくれば早速に思し召しがある。
して、先頃に話したが、何ぞ申しておきたきことは?・・・」
「はい。お心配り忝うございます。後に改めて口上の覚えを出させていただきますれば、恐れながら、今ここに己の考えを述べさせていただきたいと存じます」
この日が来ると信じ、先生(玄白)にも相談し、何度も頭で考えたことだ。
「うん。申してみよ」
「私が本藩に貰い受けになることは、ご本家様に対し田村様も本望のことでございましょう。私とて、ご本家様にお仕えするのは誠にあり難き幸せに存じます。
吾がご先祖にも、また一家親族の間にもこの上ない名誉なことでございます。
なれど、そこで一つお願いがございます。私が阿蘭陀医学を学んでいることは松崎様も先刻ご承知。その阿蘭陀医学を治めんがために彼国の言葉を日本の言葉に改める、訳すことが私の今の仕事の一つになっております。
師である杉田玄白先生は紅毛の書の翻訳はここ四、五十年の試みのことゆえ容易ならざる仕事と常々申しております。
その師は年老いて病を得ることもしばしばとなり、弟子の私に翻訳は国に益するところ、己の志を継いで欲しいと申しております。私は師の教えのとおり油断なく学び、修行してきたところでございます。
此度の本藩への貰い受けが整いましても、仮に私が江戸を離れ、遠国(地方)に引き籠り在っては師の志を継ぐ事は容易ならざるものになります。
また、これまでの同志と貴重な彼国の書物を交換し合って見ることも、翻訳に当たって意見を交わすことも難しくなります。
此度の長崎行きは己の意思でもがございますが、何よりも大事なのは、師の命を受けて彼の地の通詞(通訳)や紅毛達に直接に問いたださねば分からないことを知らんがためでもございます。
故にお話は本望至極でございますが、何卒私の任地についてご吟味下さるようお願いいたします。
仙台に居を定めよと仰せつけられては阿蘭陀医学の翻訳や研究に支障もございます。師の望むところも聞き入れ難くなります。そうなっては私にとって何とも不本意なものになります。
何卒、私が引き続き江戸に住めるよう、特にお取り計らい下さるようお願い申し上げます」
もう亥の刻(午後十一時)も過ぎたろう。薄布団を腹と足に掛けた。まだ気が高ぶっている。今日一日いろんなことがあった。
女中だけの見送りを受けて(仙台藩)下屋敷を後にした。あの場で江戸定詰めを望む申し出をして良かったのだろうかと気になる。あの時、有坂先生が藩籍(伊予松山藩)を得てそのまま江戸詰めの身にあることが頭に浮かんだ。
ご報告せねばと仮小屋の工藤殿宅に寄った。門前で溜息を付いた。
工藤殿は報告に大喜びで、なに、松崎のこととて手配に間違いはなかろうと言った。
浜町の先生(玄白)の所にも寄った。喜んでくれると同時に、その通りだ、其方が傍を離れるようでは困ると言ってくれた。
信任してくれている先生のあり難き言葉だった。
何時に寝たのか。やはり興奮の余韻なのだろう、ウトウトした眠りでしかない。周りはもう明るい。気になるのだ。起きよう、今のうちに松崎様に念押しの手紙を認めよう。
朝餉の前に早速に使いを頼んだ。仙台の国許住宅と外科専一の藩勤務となっては蘭学修行の本来の意思に背く。くれぐれも私の 申し出を吟味下さるようにと改めて松崎様と(仙台)藩の奥医師松井元斎先生宛に口上書を書き送った。
ホッとすると、なんぞ記録しておかねばと思う。
(大槻玄沢は天明五年(一七八五年)二十九歳の時から七十一歳で病没する文政十年(一八二七年)までの四十二年間、藩との間でのことを「官途要録」と題し書面で記録している)
でかした。良かった、良かった、吉よ、万歳。心の中で叫んだ。九月十七日と日付が有る吉の手紙を手にした。祝い事が続くなと思った。文机を前に両の手でこぶしを作った。体中に力が漲る気がした。
九月九日男子誕生。貴方様の言うとおりに陽之助(後の名は茂楨。大槻玄幹)と名付けてお七夜のお祝いをした、御義母様も陽助殿も大変な喜びとある。
男子なら陽之助、女子なら吉(良)く咲く花、咲と書き送っていたけど男の子だ。吉等の喜んでいる姿を想像した。早速に何を送り届けようか、祝いの品は何が良いのだろう。
喜びの反面、それから数日はまた気が気ではなかった。気もそぞろとはこのようなことを言うのだろうか。診察をしていても机に向かっても何処か落ち着かない。
末近くになって松崎様から待ちわびた連絡が来た。手紙には九月十八日に関藩を正式に訪問し、田村家がこれを承知して其方の本藩貰い受けの話が両藩で正式に決まったとある。勤務地については語られていない。
江戸になるのか仙台なのか。これでは気になる事を抱えて長崎に向かうことになる。
九月も晦日。小雨とはいえ昨日に続いて朝から雨だ。関藩にも口上書を差し出さねばならない。だけどその内容についてまだ決心がつかない。
江戸の留守居役にある小姓頭の山中宅右衛門殿を私は良く知っているわけでは無い。山中殿は私の移籍話を承知していても、弟のことまで知っているわけでは無い。初めて耳にすることだと不審を抱くだろう。厚かましいと思うかも知れない。
軒から落ちる雨の雫を見ながら、思い切って申し出ることに決めた。どのような結果になろうとも上申せねば事は始まらない。
まずは己の本藩への移籍について冥加至極とした。なれど、亡き父以来の関藩の御恩に報いず本藩に移ることは不本意でもあるとも認めた。
そして、幸いにも私には弟茂賢がおり、この者が一両年来、建部清庵先生の弟子にありて医術を学んでいる、まだ若輩で未熟者ながらこの弟に父の名跡を継がせたい。弟は必ず修行を積んで関藩の御用に役立ち、私に代わって藩のご厚恩に永く報いることも出来ましょうと一気に書いた。
長崎出立に当たり、弟の処遇の件も重々吟味されたいと申し出た。