十四 長崎遊学を夢見る

   侯(藩主田村村資)の参勤交代に随行してまた江戸に来ることが出来た。かつて経験したことの無い、寒い道中だった。

二月末と言う季節の寒さだけでは無い。仙台領だけでなく上る街道の途中途中の道端に何度行き倒れの死体を見たことか。冬空に凍える物乞いの列を何十人と見たことか。

   いや、見かけた救い小屋に並ぶ者数百人と言うべきだろう。自分達は防寒着に身を固めた旅装束にあるものの、目にする惨状に身を切られる思いがした。

 藩長屋に落ち着くと、気が晴れないまでも江戸は暖かいと改めて思う。

田舎の気候との違いを肌に感じながら、ふと、長崎はもっと南国だなと思った。そうだ、長崎遊学の許しを得よう、いや申し出なければ・・・。

   去年には世話になった玄白先生や良沢先生、工藤殿、天真楼社中の皆さんに永の別れになると覚悟して挨拶をして帰郷した。だけどこの半年、田舎に在る自分が長崎も出島も知らないで阿蘭陀医師、阿蘭陀外治(外科)の看板を背にして良いものかと度々自問自答したのも事実だ。

   こんなに早く江戸に戻れるとは思いもしなかった。この江戸入りの機会を逃がしたら、自分は永遠に長崎に遊学することとてかなわないだろう。不意にその焦燥を強く感じた。

 

   旅装束を解いたばかりなのに、江戸詰めに有る上役(三代目曾根意三(まれ)(たか)、藩医)を通じて君侯に遊学の許しを申し出た。

実にあっけない。自分でも驚く。翌々日には遊学を許すと伝えられた。一関に在る時に為政者の有り方について意見を垂れていたこと、福知山藩、朽木昌綱殿の話に及んでいたことが功を奏したらしい。

   若い君侯の姿を思った。お許しが出て初めて旅費はどうする、滞在費はどう工面する、何時から何時まで行くのだ、行く目的は何だ、と頭が回転した。

 

   四日も経つと道中の疲れは取れた。久しぶりに青空が広がり春の陽を思わせる。

何かと藩の雑用に追われたけど、今日こそは玄白先生の所にも良沢先生の所にも御挨拶に伺わねば。

工藤殿の所にも出来れば今日のうちに御挨拶に回りたい。良沢先生と工藤殿の所、甫周先生の所の火事の被害状況も気になるところだ。

  浜町の街並みもこの通りも変わりないなと思いながら歩いた。先生宅の門構えを見ると嬉しさがこみあげてくる。何の連絡もせずに来たがゆえに在宅しているかどうかさえ分からない。

   先生は伯元さんと一緒に診療の場に出ているのだろうか。伊予松山藩の藩医になった有坂さんはもう居ないだろう。

玄関口に立って一瞬戸惑った。何と言えば良いのだ。そして、奥に声を掛けた。

「ただ今帰りました」

   顔を出したのはさゑ(・・)さんだ。驚きの表情を見せた。その後に直ぐに(せん)さんだ。背がぐんと伸びている。着物姿の肩は丸みを帯び、胸のふくらみも分かるほどになっている。

「関藩、君侯の参勤交代にお供して上京してきました。

江戸詰めになった故、またしばらくは江戸に居ます。

ご挨拶に伺いましたけど、先生はご在宅でしょうか」

「先生は今、奥方様と御一緒にお出掛けです。それは兎も角、お上がりなされ、お上がり下され」

「ご不在とあれば、またにご挨拶に伺いましょう」

「あら、一年もたたずに他人行儀な。

そう言わずと、お茶の一杯も飲んでお行き下され」

   しきりにさゑ(・・)さんに促されたけど、日を改めてお伺いさせていただく、伯元さんや中川先生にも宜しくお伝え下さいと言伝(ことづて)にした。

   この後に、良沢先生の所にお邪魔すると付け加えた。

 

   中津藩中屋敷も春の陽を浴びて瓦屋根が光っていた。火事の被害にあった所なのだろう、大工職人達が補修工事をしていた。

迎えに出た老女は何時ものことだ。私が言葉を掛ける前に、お久しゅうございます。ご案内しますと言った。まずは在宅していると知ってホッとした。

「よくぞ来たな。良かった。良かった。何時までおられる?

正直、其方が居なくなって暫くの間というもの、(とおる)(良沢の長男、前野達、良庵)も朽木殿(後の丹波福知山藩主・朽木昌綱)も寂しくなった、(訳の)意見を交わす相手がいなくなったと、嘆いておったわ。

  吾      わし)も変わり者と言われるが、あの司馬(江漢)とか言う鼻高男。

奴は其方(そち)が居なくなってから、心を入れ替えて学びますれば今後ともよろしくと改めて言って来おったわ」

   珍しい先生の笑顔につられて私も笑い顔になった。司馬さんの尖った鷲鼻(わしっぱな)の顔を想像した。

「はい。侯の参勤交代なれば一年は江戸に居られるものと思っております。

しかし、先日、長崎遊学について侯からお許しが出たところで御座います。

準備が整えばすぐにでも長崎表に行きたいところでございますが・・・」

「真か。それは良い。うん、良い。一度は是非に行って見るべきじゃ。

長旅にはなるが、阿蘭陀人の生活習慣が如何(いか)なるものか見る物聞く物に興味が湧こうと言うものじゃ。

後の翻訳に必ず役立つ。行くが良い。

   金か?。藩から許しが出たとあれば何としても工面せねばなるまい。平助にでも頼むとするか?。

酷い火事に有ったとはいえ鍋島藩から五十両、付き合いのあるあちこちの権門や役者、商人等から見舞金が十両、二十両と届いておると聞いた。

   これまでの彼の医術、人柄、人望のたまものじゃて」

「有難きお言葉にございます。

なれど、先ずは関藩にご支援を頂き、己で工面し、その後に誰ぞのご支援を頂きたいと思っております」

「其方の阿蘭陀語の実力。翻訳にかかる力は既に皆の知るところじゃ。

関藩も遊学の許しをして置いて後は知らぬとは言うまい。

しかも、(わし)の経験から言うと旅費も滞在費も多く有った方が良い。

   長崎に行って目にする書、珍しい物を必ず欲しくなる。日本(ひのもと)に無い物とて多いからの。何から何まで後に役立つ物ばかりじゃよ」

   申の刻(午後四時)になるのだろうか、お(いとま)を告げて通りに出ると西空に浮かぶ雲が赤く染まり始めている。

その後に続いた雑談にも良沢先生はご機嫌だった。腰痛が出る年齢(とし)になった、若い時に痛めた右腕の肘の筋が時折痛むとか言っていたけど、(とおる)殿の手伝いも有って芝蘭堂の方の運営も何とかなっていると語った。

 

   五丁(約五百メートル)とて離れていない工藤殿の屋敷(毛利屋敷)への道も懐かしく思う。しかし、行けばいくほどに目にする物に驚いた。

   堺橋を境にして、渡ると周り一帯が焼け野原なのだ。左に目にする西本願寺とて瓦屋根の一部が春の陽に光っているだけで大きな被害にあっていた。

良沢先生が酷い火事だった、この先、焦土と化していると言っていたけど、これ程とは想像もしていなかった。

   二階に風呂のあるあの威容を誇った工藤屋敷は跡形もない。桜や躑躅(つつじ)の木の有った美しい庭園も無い。風に乗った潮の匂いがまともに鼻につく。

   敷地の端に、急遽拵えたらしい工藤の表札の掛かる仮住まいの家があった。

奥方様に迎えられた。二間(ふたま)もあるのだろうか、工藤殿は脇息(きょうそく)を前にして両肘を附き身体を預けていた。その脇息を横に片付けながら良沢先生同様に、よく来たよく来たと歓迎の言葉だ。右手は目の前に座れとの合図だ。

   そして、最初から驚かされた。去年のうちに赤蝦夷風説考が幕府勘定(かんじょう)奉行(ぶぎょう)の松本伊豆守(松本秀持(まつもとひもち))殿から老中田沼(たぬま)(おき)(つぐ)殿に及び、幕府は蝦夷地調査隊を先頃に出立させたのだと言う。

しかも、その調査隊一行の中に、あの(平賀)源内先生の遺体を最初に引き取った平秩(へづつ)東作(とうさく)殿が含まれていた。

また、法眼殿(桂川甫周)にもお聞きしていた今の世に評判の狂歌師の太田南畝殿や版元の須原屋の主までもが見送りに立ったのだと語る

「奥州路、其方の江戸上りと反対だから、何処ぞで探検隊とすれ違ったハズだて。

伊豆殿(松本秀持のこと)は探検隊の通る仙台藩や南部藩、八戸藩に蝦夷地見分役の派遣について申し渡したと申しておったわ。事前に了解を取り付けたということになるの・・・。

それにの・・、うん、(わし)を蝦夷奉行にと言う話も出ておると言っておったわ」

「えっ。工藤様自身が幕府(じき)(しん)となると言うことで・・・」

   驚きも驚きだけど、吾自身、改めて蝦夷地、まだ見ぬ北国に夢を見る思いになった。

そして、その後に続いた言葉に思わず絶句した。

「大槻殿もそろそろ自分の身の置きどころを考えた方が良いかも知れぬな。

一関から仙台、本藩に居場所を替えたらどうだ」

   玄沢、玄沢殿が大槻殿になっている。

「えっ、その様なことが叶いましょうか」

   一度とて思ってもみなかったことだ。

其方(そち)の阿蘭陀語の力、翻訳する技は関藩のみならず本藩でも知るところじゃて。

これからの世は地理に天文、測量から医学、化学に物造りまでも(かの)(くに)に学ぶべきだと其方(そち)は言っておったではないか。

本藩の知識ある者共とてそのことを良く心得ておる。

支藩から本藩に優れた人材を引くのはそう難しいことではない。

(わし)が君侯(仙台藩七代藩主・伊達重村)に其方(そち)を推薦しようて。異存は有るまいの」

「・・叶いますれば是非にそのように・・」

   胸が早鐘を打った。

 

  表に出ても、しっかりと承諾の返事が出来たろうかと思う有様だ。それにしても工藤殿の腹の座った態度に今更ながらに驚いた。

「自分は藩邸に出かけていて留守だった。普段なら(工藤家に)出入りの者が直ぐに駆けつけて呉れたろうが、彼らの家が先に燃えている、駆けつけることも出来なかった。

   家財の持ち出しに役立つ者は弟子の玄丹(松前藩藩医、前田玄丹、当時、寄宿の書生)しかおらず皆々焼失したのも仕方あるまい。

   災難にあったものの祖母(ばば)も妻も子も無事じゃ。

   湯殿も百味箪笥も燃えてしまったけど、容易(たやす)く手に入らぬ書物の大半を先に(せい)寿館(じゅかん)(幕府奥医師、多紀(たき)元孝(もとたか)が明和二年(一七六五年)に開設した医学専門の私塾。千代田区神田佐久間町)に寄贈していたがゆえに燃えずに済んだ、不幸中の幸いよ。

工事を請け負う業者がまだ見つからんが、見ての通り、雨露凌げるところを直ぐに手配できたのだ」

   笑みさえ見せながら語った工藤殿が、道々思い出される。

   工藤家に近い桂川家も全焼だ。そこここで工事が始まっていた。甫周先生に会えなかったけど、身は無事だとお聞きした。挨拶はまたの機会がある。

(参考図)