吉(  よし)の作ってくれた握り飯を片手にして、それをじっと見てしまった。この一つのために命を落とすのか、為政者は一体何をしているのだとまた怒りが込み上がってくる。自分の思う所を書く。

 吾師(  わがし)清庵先生(二代目、建部清庵由正)は宝暦の飢饉を目の当たりにして民間備荒録を(あらわ)し、肝煎りや組頭という村役人等に普段から飢饉に備えよ、柿や栗の木等を植えて備荒策を怠るなと説いた。

 しかし、今、この城下(一関)や仙台の実情を見て思うに、村役人等に任せておいて良いものか。国の大小によらず各国の太守こそが深く心を用い自ら世話をやかせ給い、固く有司の輩に命じて行わしめたならば、貯えにて救えること、一、二年の凶事を凌ぐことも出来よう。民を餓死させたる罪は一人の君に有り、臣下農夫の技にはあらず。

   藩財政がひっ迫しているとて補い備え置くべき籾殻さえ売買の用になし、飢饉に際して慌て騒ぎ、天とするところの農民、黎民を餓死せしむるはこれ皆(あさ)()なる奸吏(かんり)()すわざと言える。

   去年( こぞ)九月の安倍清騒動などはかねがね豪商に献金を奨励して苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)を許し、諸役御免に藩の米を扱う総元締めの特権を与えてきたがゆえに起きたものだ。特権を得たとて、備え置くべき藩米の籾殻さえ売買の用になして良い、利益を得て良しするものでは無かろう。 

   飢饉に当たっても、吾、医者は草の根、木の皮の良毒を以って処することしか出来ないが、藩主には心を仁に用い、日頃から備荒の良法を工夫し給わんことを願う。それこそが農民、黎民を救う済世の君子足り得るのだ。

(大槻玄沢著、(てっ)桑録(そうろく)から筆者要約)

               十三 家督相続

   喪に服して五十日、四十九日が過ぎて八月も下旬になる。藩からの呼び出しが有って登城した。お城周りの青葉の繁る桜の木々等から蝉の声が響き渡る。(ひぐらし)の鳴く頃になったかと思いながら坂道を上った。

   家督相続のお許しが有ったと告げられた。父上の家禄のままに五人扶持だと言う。田村村資(たむらむらしげ)公の侍医(じい)となったことになる。

   感謝の言葉を口にするや否や、君侯が御目通しを許すと言っておるゆえ案内(あない)する、と即座に言われた。

「うん、よく来た。久しぶりじゃのう。其方(そち)も江戸を下がって何かと所用に追われていたみたいじゃのう」

若い君侯は発する言葉の重々しさとは裏腹に、何にでも興味があると若さを(みなぎ)らせている。

「勿体なきお言葉、恐れ入ります。先に帰郷のお許しをいただきましたこと、この場をお借りして深く感謝申し上げます」

   それからしばらくは、三か月前まで江戸に在った時の思い出話だった。そして、君侯が江戸下がりの道中にお目にしてきた仙台城下の飢饉の惨状、私が見て来た通り道の諸国の飢饉の状況の話になった。

   何時にか上訴したいと思っていたが故に、この時とばかりに徹桑録に認め置いた自分の意見、阿蘭陀語を学ぶ上で知り得た(かの)(くに)の食料事情等を述べることにした。

「肝煎りや組頭、村役人に普段から飢饉に備えよ、柿や栗の木等を植えて備荒を怠るなと説いても限界があります。農民、黎民を餓死させずにしうるは藩主の御仁(ごじん)(しん)仁政(じんせい)にあります。

   藩主が先頭に立って籾殻を十分に貯え置くなど、日頃から備荒の良法を工夫し給わんことこそ済世の君子足り得ると存じます。

 また、和蘭(おらんだ)の書の教えるところでは、彼の地は寒い国とて麦は取れても米は取れず。なれど、他の食物にて生命を全うし人倫に欠けたるところなし、各々生業(なりわい)が成り立つとあります。

   朝夕米に有らずとも口腹(くちはら)は満たされ喜ばれるとか。我が国は五穀豊穣の国、米以外の雑穀育成の奨励もまた備荒のために肝要で御座います」

   周りで聞き及んでいる臣の中に、鋭い目を向ける者も居る。(わざわい)は口より()づ、之を慎め、これを慎め、一瞬、清庵先生の教えの言葉が頭をよぎった。

其方(そち)の言うこと、しかと聞き置く。余の身が健やかに有ることも其方(そち)に任せ置くでな、宜しく頼む」

「勿体なきお言葉、(かたじけな)く存じます」

其方(そち)は福知山藩、朽木(くつき)(まさ)(つな)殿と一緒に阿蘭陀語を学んでいると聞くが、誠か」

「はい、築地は八丁堀日本橋の南、中津藩の中屋敷にて共に前野良沢先生の教えを受けているところに御座います。

良沢先生の所に通うに当たっても朽木殿にお世話の一端を頂きました。

 教えを乞う、席を同じにすることになったのは江戸に上った年からでございますれば朽木候とは四、五年になります」

「候は何ぞに興味をお持ちか?」

「はい。政務ご多忙にあられますのに異国の書を広く学ぶお姿は敬服の至りでございます。

特に万国の地理と世界の通貨に関心を寄せられております。

 貨幣の改鋳は幕府の財政立て直し、幕藩体制を維持せんがために行われるとて、ならば世界の通貨制度は如何なものかと心を寄せられたやにお聞きしております」

「うん。改鋳のう」

「また、江戸に上るカピタン、長崎出島の商館長等とも懇意なお方でございますれば、彼らの援助を得て各国の銭貨を収集しているとお聞きしております(三年後の天明七年(一七八七年)、朽木昌綱は「西洋銭譜」を発刊した)。

 朽木殿の語学力は自ら阿蘭陀語を書き表してカピタン等と文通できるほどに相当なもので御座います」

「うーん。左様か・・・」

 時刻はもう酉の刻(午後五時)になるのだろうか。(ひぐらし)の声が一段と高い気がする。登城してしばらく待たされたとはいえ、君侯の前に凡そ一刻(二時間)も居たことになる。

 江戸に在った頃にこのようなことは無かった。緊張もしたけど、また口は禍のもとと頭をよぎったけど君侯と親しくお話させていただいたのだ、今は嬉しくも有る。

(城を)(さが)る坂道は何時もより更に軽快だ。

 

 伯元から届いた手紙には九月九日に小浜藩藩医、三人扶持を給せられた、役は御出馬お供を仰せつけられたとある。側に居たら、早速に伯元さんにも先生(玄白)にも祝辞を述べている。

しかし、私はそのことよりも、その次にあった文面に小躍りしたい気持ちだ。

 有坂殿(有坂其馨)が四国伊予松山藩の藩医になった、江戸詰めを命じられたとある。有坂さんには衣関(甫軒)さんも亮策(三代目建部清庵由水)さんも伯元さんも私も何かと一番お世話になっている。

あの解体約図に(しる)した者として有坂先生の名が有るように、先生(玄白)を陰でコツコツと支えて来た人だ。手紙には家禄が如何(いか)ほどか書かれていないけどそんなものはどうでも良い。有坂さんが藩医になったのが嬉しい。

 伊予松山の藩医と有るから隣国になる伊予大洲藩の江戸藩邸で十余年もの間ご奉公した先生の奥方様、登恵殿との関係も何ぞ有ったかと想像される。

 しかし、そんなこともまたどうでも良い。兎に角に嬉しい。有坂先生は(おご)ることなく常に控えめで、それでいて的確に私達に教えや忠告をしてくれるのだ。兄貴なのだ。

 その後の文面に、桂川先生(桂川甫周)が地球全図を著した万国図説を世に出そうとしているとある。手紙は江戸にある皆の動向を語っていた。

 江戸に戻りたい気がふつふつと湧いてくる。

 

 田舎で迎える久しぶりの正月に気が高揚する。かつて父上が在ったその席に自分が座ると、一家の主なのだと実感する。母上も妻も弟も息災だ。

 吉のお腹に宿った子が無事に生まれてくれればと思う。

今日だけは本家から分けて貰った餅であんこ餅も雑煮も食える。治作さんが持って来た()(うさぎ)と山鳥の肉に妻の作った総菜が目の前にある。感謝だ。

 この年(天明五年)はどんな年になるのだろう。飢饉の惨状は日に日に厳しさを増している。月に三度の炊き出し、救い小屋の設置ではこの寒空にさほどの用を足さないと分かっている。されど食べる物をということで己に出来ることは何も無い。

自分達の食べる物さえ日に日に少しずつ減らしているのだ。

 少しばかりの古着を救い小屋に届けたけど、それとて居並ぶ行列にろくに役立たない。それこそ無いよりは益しだというほどのものだ。

 何処ぞの神社にも、寺にも新年のお参りに出かけなかった。出かける気も失せた。神頼みや仏様を拝んで世を救えるのならば何度でもお参りする、何処ぞにも出かける。だけどその度に目にする城下の惨状の現実に己が憔悴(しょうすい)するだけだ。

 医者を必要とする前に食べ物だ。着るものだ。生きるために先ずは必要なものを呉れ。庶民の声なき声を思って医者であることに無力を感じる。

 人を救えるのは人だ、人間を救うのは人間だ、なのだが・・・。

 

 三日前に降った雪がお城周りの土手のそこここに残る。泥濘(ぬかるみ)を避けながら坂を(くだ)る。嬉しいのは確かだけどどのように伝えようか。

 父上を亡くして気力も身体の衰えも見せるようになった母上は決して喜ばないだろう。またお腹が目立つようになってきた吉も不安な顔をするだろう。

 呼び出されて、下旬には君侯にお供して江戸入りだと告げられた。

 今日は如月(きさらぎ)も五日だから出立の日までとて後二十日ばかりだ。嬉しいはずの江戸(のぼ)りに複雑な思いが錯綜する。

 

 御報告を兼ね、その足で清庵(由水、亮策)先生の所にお寄りした。浮いた気持ちではいられない情報がまた入ってきた。伯元さんから届いた状(手紙)に、暮れに江戸が大火に見舞われたとある。

 二日続きの大火で仙台藩蔵屋敷(現、江東区清澄一丁目)や西本願寺(現、中央区築地三丁目)、小田原町(現、中央区日本橋室町)辺りまでが焼土、焼き払われたとある。その辺りと言えば良沢先生に甫周先生、工藤殿の屋敷がある。

しかし、玄白先生宅や天真楼は災厄を免れたとしか書かれていない。

行く江戸の街が一層気になる。