十二 長崎屋

 朝から良い天気だ。空気も和らいでいる。今日にも桜が咲き始めるだろう。もう四月半ばになるなと歳月の過ぎる速さを思う。

田舎に帰る日が刻々と迫ると、江戸に残りたい、まだやり残したことが一杯あるとの思いが込み上げてくる。

 そんな中、先生(玄白)から三日前にお聞きした時は、驚きとただただ嬉しさが込み上げた。昨日とて診察の合間にもいよいよ明日だなと何度思ったことか。

 異人を見ようとて長崎屋の周りに野次馬が多く居た。他に異国人を見る機会のない江戸の庶民にとってカピタンの江戸参府は大きな関心事だ。木によじ登って長崎屋を覗き見ようとしている者すらいる。

(参考:葛飾北斎の絵図です。外に北斎は木によじ上って覗き込む庶民を描いています)

 

 長崎屋は異国の薬までを扱う薬種屋であり阿蘭陀書の売り捌きも兼ねている。先生や中川先生等のお供で伯元さんも私も長崎屋に何度か訪ねているが、その二階に上がるのは初めてだ。

 階段下で記帳が必要だった。側にお役人様が顔検分するみたいに二人立っていた。先生、中川先生、甫周先生に玄常先生の後に続いて伯元さんも私も署名した。

 先生方の後について階段を上った。二階の大広間には先客が大勢だ。お侍様から町人に頭を丸めた者、総髪の者までが目に入ってきた。

 塾(天真楼)や診察の場で見た顔も有る。薬種屋の(あるじ)だと分かる者も居たけど、多くは誰が誰だか分からない。

驚いて見ていると横から甫周先生が、異人の参府はいつの年も商館長(カピタン)に書記と医師の三人だ。周りにいるのは長崎奉行所の役人に長崎の通詞達だ、それに江戸の監視役人にこの人々だからねと言った。

 何処ぞの蘭癖大名、お殿様、何処ぞの藩医、天文方に興味を抱いている者、地理や絵画に関心を持つ者、蘭学者と言われる方々が集まっているのだと言う。

 商館長とその側に立つ二人が異人だなと一目で分かる。その周りは人だかりだが、先生が近づいて行くと振り向いて道を開ける人が多いのに驚いた。

 商館長と先生方との会話をただ見守るだけだ。時折、通詞らしき者が間に入るが、中川先生と甫周先生は商館長等と直接に会話をする。握手をしていた。

 何を話しているのか分からないが聞き耳を立てながら周りを見渡した。高さのある卓子(テーブル)が幾つか置かれてあった。その上に大皿に盛られた料理が幾つも並んである。煮物から焼き魚に肉料理があるのは分かった。どの料理の上にも薄い布が掛けられ覆われている。

 端の方には小皿とコップにお箸とフォーク、スプーン、葡萄酒等が置かれてある。椅子が三、四つ片隅に並べられてある。中川さんが、間もなくに卓子が真ん中に出されて料理が並ぶ、芸子が呼ばれる、ここが宴会の席にもなると語る。

突然に、先生が伯元さんと私を前に出るよう手招きして呼んだ。

「こちらが倅の伯元。それに()が手元にいる大槻玄沢。

期待をかけている二人だけに、今後、何かとお世話をいただきたい」

 商館長への紹介だった。商館長の名はロンベルフと、長崎屋に来る前に聞いていた。

恰幅(かっぷく)の良い身体で鷹揚(おうよう)に首を縦に振った。自分の名前を言いながら目の前に手を出された時には驚いた。

 阿蘭陀人の挨拶のやり方、握手だ、とそっと甫周さんが耳打ちした。

 商館長の側に立っていた阿蘭陀人二人も片言の日本語で手を出してきた。

「書記のドロンコね」

「私は医者のブリーヒと申す」

 背丈にも顔の大きさにも、片言の日本語にも驚きながら、出された大きな手を思わず伯元も私も交互に握り返した。

その後に、長崎の通詞達もそれぞれに名前を名乗ったけど、周りの人達の会話と雑音に良く聞き取れなかった。

 大通詞の何とか、助役(すけやく)の何とか、小通詞の何とか等とそれぞれが役目を言いながら自己紹介をした。

先生の紹介も有って、白い髭の大通詞、吉雄耕牛だと言う御仁は名前ともども記憶した。正直、これが先生にお聞きしていた吉雄殿かとわけも分からず感激もした。

 大広間に詰める人はその後にも段々と増えた。商館長とその並びは崩れ、それぞれがそれぞれに旧交を温め、新しい出会いを楽しんでいるように見えた。

 先生方も商館長やブリーヒ、ドロンコ、通詞達と何やら話していた。ふと気になって足元を見ると、畳の上なのに誰もが靴、雪駄、草履のままだ。絨毯とかいう物が部屋一面に敷かれていた。自分とて、草履をはいたままだ。

 伯元と私は初めて見る場所と人に目をきょろきょろさせていたと思う。先生がまたこっちに来いと手招きした。

「滞在一ケ月ともなればお疲れでしょう。来年にもまたお会いしましょう。

この二人に江戸の名所絵図等を後に届けさせます。

 お若い通詞、お供の方の中には江戸が初めての方もおりましょう。

道中大変な思いをしてきたのに江戸の町を自由に出歩けない、江戸見物も出来なかったとご不満の方もお出ででしょう」

大通詞・吉雄殿に語る先生だ。

           十三 帰郷、父の死

 お役御免になって二月(ふたつき)になる。梅雨の鬱陶しさはまだ無いが、六月初めだと言うのに肌寒い日が続く。久しぶりに手にする吉の文(手紙)が嬉しい。

「お久しゅうございます。この春にお役御免とお聞きしておりますれば、如何(いかが)なりましたでしょうか。近くお帰りになれますでしょうか。一日千秋の思いでございます。

 実は御義父(おとう)(さま)の身がすぐれません。胸に痛みが来るようで床に伏せることが多くなりました。

今すぐにでも貴方様のお帰りが叶いますればと思っております。

御義母(おかあ)(さま)御義父(おとう)(さま)の床周りを良くしてございます。

陽助殿も何かとお世話下さいますが、貴方様のご帰国こそが待たれるところでございます」

 思ってもいない父上の身を告げる内容に手が震えた。来月(七月)に江戸を発つと、やっと侯御一行の日程が伝えられた。されど危急を告げる手紙にそれを待っては居られない。気が急かされる。

 郷里への土産物の買い出しをという今日の予定の気は失せた。君侯に今日にも先に出立するとお許しを得るのが先だ。

 

 驚くという他に何と言えばいいのだ。これ程とは思わなかった。途中に見て来た仙台藩領内よりはまだ良いけど、道端のそこここに(むしろ)を掛けただけの遺体が転がっている。異臭がする。

 やせ細った野良犬が死人の足に噛り付いている。役人が追い払おうとしても犬も必死だ。獲物を口から離さない。

救い小屋の前は薄汚れた着物一枚に裸足のままの老若男女が列をなしている。手を引かれた小さな子供までだ。

手にお椀とて持たない者もいる。

 吉の手紙に飢饉の実状の一端を語る言葉が有ったとはいえ、江戸を発つときに一関城下にこんな光景を見るとは思いもしていなかった。

 国許入りだと、築館(つきだての)宿(しゅく)で気の張った羽織(はおり)(はかま)に印籠に脇差で固めた己の()姿(なり)を恥ずかしく思う。国に在る御家老はじめ藩士の方々は、己が土地のこの光景を何と思って見ているのだろう。

 

 吾が家の小さな門構えに立つと、帰郷したのだと実感が湧く。

浅い眠りでウトウトしているよりはと今朝は築館(つきだての)宿(しゅく)の旅籠を暁四つ(午前四時)に出た。

もう未の刻(午後一時)になるだろう。奥に声を掛けると、直ぐに吉の姿だ。

義父(とと)上様(さま)の御様子が・・・」

急を告げる言葉と仕草だ。草鞋(わらじ)を解かず、土足のまま奥座敷に入った。独り寝の床が敷かれていた。

「何時からこうなのだ」

「今朝ほどに覗いた時には何時(いつ)もとお変わりなく。

床の上とはいえ、貴方(あなた)(さま)を今日は見れるのかと、お楽しみにした口ぶりでございましたのに・・・」

「・・・持ち合わせを煎じよう」

吉の言葉を聞きながら、炊事場のある土間に立った。

(ちょう)(とう)(こう)茯苓(ぶくりょう)半夏(はんげ)防風(ぼうふう)菊花(きっか)麦門(ばくもん)(どう)陳皮(ちんぴ)(かん)(ぞう)を使うことにした。

貴方(あなた)様の食事はどうなされますか?」

「うん。頼む。腹が()いておる」

母上と陽助が物事を聞きつけて顔を出した。狭い家とて音に気付いたのだろう。

「只今帰りました。息災の御様子で」

私の旅姿のままの格好に驚いた顔をした。

「はい、わだす(わたし)は良いども(良いけれども)・・」

白髪がまた増えていた。

「ええ、今()て、生薬を煎じております」

土鍋の火を仰ぐ団扇(うちわ)を陽助と交代した。

 

 帰郷して凡そ半月、暦は文月(七月)と変わって三日だ。この日を忘れてはなるまい。父上が私に気づいてくれたのは煎じ薬を処方するようになって二日目だった。

一時、目を開けて微笑んでくれたのを幸いだったと思うべきなのだろう。

帰郷した私に一言も言葉を発することなく他界した。

 寒い夏とはいえ磐井川や吸川の土手に蛍が飛び交い始めている、

 父は玄沢、玄良、元良、玄梁と己の名を何度となく変えている。それを以って師(仙台藩医、松井玄潤)との間に何か(いさか)いが有ったと私には推測される。

しかし、父は何も語らなかった。四十の歳を超えてやっと関藩(一関藩)の藩医にとお声がかかったのもその(いさか)いが(わざわい)となっていたのかも知れない。

 かつて清庵先生(二代目建部清庵由正)が度々口にした「口は災いのもと」は父にも当てはまる気がしてならない。父上の家禄は凡そ二十年もの間、五人扶持(ぶち)のままだった。

 遅くに藩医となった父上に藩医としてめぼしい功績は無かろう。されどあの民間備荒録の跋文に校訂協力者として大槻玄梁の名を見ることが出来ることを私は誇りに思う。

 また、何時(いつ)何処(どこ)で入手したのか聞かないままになってしまったが、手元に残る父上が呉れた阿蘭陀語の藁半紙(わらばんし)の束が今の私に宝物だ。

 父上の(ひつぎ)を清庵先生(二代目)の眠る(しょう)雲寺(うんじ)にも近い街道筋の(ずい)川寺(せんじ)に埋葬した。卒塔婆に書かれた戒名((きょ)(はく)(けん))と享年(六十三歳)を見ると父の死を改めて実感した。

 本家の大肝煎り(六代目、清雄、専左衛門)から治作さんに亮策さん(三代目建部清庵由水)等父の生前に交誼(こうぎ)の有った方々や、かつての同僚に町の人々までが参加してくれた野辺送りに感謝だ。

 私は、墓前に翻訳専一、阿蘭陀医学の隆盛のために、日本(ひのもと)の繁栄のために豪傑になると誓った。

(百十余年後、大槻玄沢の孫、大槻文彦と大槻如電は玄梁の墓を大槻家のすべての墓がある一関市中里の龍沢寺に改葬した。

その際、(ずい)川寺(せんじ)の墓から朱漆で刻まれた礦誌(こうし)(銅板に刻まれた記録)が出土した。「玄梁(げんりょう)茂蓄(しげずみ)柩也(ひつぎ)、あわれみて掘ることなかれ。享保七年(みずのえ)(とら)九月九日生、天明四年、(こう)(たつ)七月三日卒、六十三」と有った。大槻玄沢の書いたものである。)

 

 埋葬を終えたばかりとはいえ、藩の習いだ。翌日早速に藩医大槻玄梁死す、大槻玄沢家督相続のお許しを得たくと藩に由緒書((いっ)季書(きかき)(だし))を提出した。

その帰り道、お城から(さが)る釣山の坂道で結城君(後の一関藩藩医、結城家七代目、結城宗琛(ゆうきそうちん)英彦(ひでひこ))に出会った。彼は旅装束の姿だ。

「何処ぞに行って来た?」

「本藩じゃよ。所用が有って仙台からの帰りじゃて。その報告に上がるところよ。

それよりも、大変な事よ。仙台城下の辻という辻は到る所に野垂れ死にした人、人だ。

 皆痩せ細っている。その遺体が放置されたままなのじゃ。男も女も子供までじゃて。救い小屋の炊き出しは閉じられたままじゃよ。

 まるで死んだ街だ。犬猫の姿さえ見えない。犬猫を捕まえて喰うどころか、夜な夜な死んだ人の肉を焼き喰うと噂されておる。羅生門じゃよ。

 恐れて誰も街に出ておらなんだ。泥棒、かっぱらいを恐れて商店(みせ)という商店(みせ)は閉じられたままだ。

畑という畑は荒らされ放題じゃ。馬鈴薯(ジャガイモ)はまだしも、この時期、甘藷(サツマイモ)はまだろくな実にもなっていないだろうに掘り起こされて実が無いのじゃ。その茎や葉っぱさえない。

畑に喰えるものは残されていない、土ばかりじゃ。

 藩内の餓死者は四、五十万になると噂されておる。本藩に救いを求めるのは無理な話じゃ」

「この一関よりも酷いと?」

「そうよ、其方(そなた)も江戸からの帰り道に見ておらなんだか?」

「うん、白河(しらかわ)よりも(いわ)()、磐城よりも仙台。北に向かうほど(飢饉の)状況が酷いと知ったが、それほどにはなっていなかった。

仙台城下も閉じている商店(みせ)は有ったけど、炊き出しに並ぶ庶民を見てきた。確かに長い列だった。

いや、帰郷を急ぐあまり、恥ずかしながらその惨状の実態に気づかなかったのかもしれん」

旧交を温めるどころの話ではなかった。お城に向かう結城君を見送った。

ガッシリとした背中に関藩を思う立派な青年藩士になったなと思う。

 

家に帰ったら上訴文を(したた)めてみよう。

それにしても、あの吉原や芝居小屋等々の喧騒、狂歌の流行り、黄表紙の飛ぶような売れ行き、江戸の賑わいは一体何だったんだろう、同じ日本(ひのもと)か。隔世の世と思う。