玄関口に出て来た女中に従って、先生の居間に案内された。

「床を離れることが出来た様じゃな。良かった、良かった」

先生より先に工藤殿の言葉だ。

「今日はの、玄沢殿が新しく翻訳した物とて草稿を持参しておる。

(わし)に見せるより、先に良沢じゃろうて。

暇な(わし)も付いて来おった」

病気上りと言う感じだ。元気そうに見えない。工藤殿のお声掛けにも反応が鈍く、六十(歳)を過ぎたご老体が顎を引いて頷いた。

「はい、今日は蘭方医の方が今何かと口にする六つの物について翻訳してみたので、その草稿を持参しました。御目通し願えれば幸いでございます。

六つの物がどういう物かと、その薬としての効能をまとめてございます」

「六つの物とは?」

「はい、何かと話題になっているミイラに一角、人魚、それにサフラン、エブリコ、ニクズクでございます」

「それが蘭方医の話題になっている物だと?」

「はい」

風呂敷包みのまま先生の前に押し出した。中川先生や玄白先生に先に見て貰ったとは言いにくい。

「体調が(いま)(いち)での。お預かりしても宜しいか?」

「勿論でございます。ご意見等を賜ればと思っている所でもございますれば」

「訳が適切であるかどうかは、その元になる阿蘭陀書を見ずに言うことは出来まい。一角は何の阿蘭陀書から訳した物かの?」

「アンデルソンのグリーンランド地誌に書かれておる物を訳しております」

「色々と目を通しておるの。感心することじゃ」

冷や汗が出た。阿蘭陀書の訳とあればその元になる書はと、問われたことこそ初めてだ。

 流石(  さすが)に先生だ。翻訳に当たっては真摯に取り組んでいるけれども、目にすることの出来た阿蘭陀書をあちこち拾い読みしているだけなのだ。

「入門書の方は如何した?、出来たのか?」

「はい、初心者が阿蘭陀語を理解しやすいように日常の会話を入れよ、良く知られている格言や(ことわざ)を使え、例文を入れよとの先生の御意見に従わせていただいております。

 先生の蘭訳筌の中から例文を七つも引用させて頂いており余す。

(天真)楼に学ぶ方々に好評を得ているところでございます」

其方(そなた)は江戸庶民にも、阿蘭陀語を学びたいとする誰もが使える入門書にと言っていたではないか。さすれば、発刊せずばなるまい」

「それは・・・。考えてもございますが、先立つものが・・・」

「金に困らぬ(きゅう)(けい)が側に居るではないか?、江戸に置ける其方の父親みたいなものだろう。

如何(どう)じゃ、(きゅう)(けい)。其方が後ろ盾で、(わし)が序文を書くと言うのも良かろうて」

驚きと同時に(あわ)てた。先生は咳き込んだ。

「大丈夫ですか、勿体なきお言葉。その様なご無体は・・・」

「うん、一考に値するの。良かろうて」

「その様な・・・。有難うございます」

思わず工藤殿に向かって頭を下げた。

「何。実に、そうなってからお礼を述べれば良い」

「この六物(りくぶつ)の訳も楽しみじゃて?、見させて貰うよ」

 振り返って屋敷の門を見上げた。一呼吸大きく息をした。嬉しさ半分、本当に入門書を発刊できるだろうか。その様になれば自分にとって初めての出版物になる。

 道々、喜びがこみあげてくる。序文は良沢先生に、絵図と跋文は司馬さんに頼むのが良かろう、いや跋文は工藤殿でも・・・。今暫く居るという工藤殿を残してきた。

               十 飢饉の情報

 藩長屋が朝から騒々しい。本藩の国許(仙台)が大変な事になっていると大騒ぎだ。

四日前と言うから九月十九日になる。聞き耳を立てると、米不足と米の値段の高騰にあえぐ城下の町民が暴動を起こしたのだと言う。

 米を買えない者達が広瀬川の川原に集まり、その夜に仙台藩の米を扱う総元締めの安倍清右衛門の屋敷に押し込んだ。門や玄関に表塀を打ち破り清右衛門宅の蔵に在った米を収奪したのだと語る。

 押し込んだ群衆は数千人に及んだと言う。そして、聞いているか?、知っているか?それまでに藩内の至る所で餓死者が出ている有様だ、餓死する者は数知れずなのだと語る。

 まだ暴動が起きてはいないものの、一関も不穏な状況にあると言う。事情通の最後に口にしたそれが一番心配だ。

 去年の今頃から心配していた事だ。この夏の有様を伝えて来た父上や吉の手紙からも秋には飢饉になると想像はしていたけど、故郷(くに)の近況を知りたい。父上と吉宛に状を書こう。

 部屋に戻ると、自分で用意したばかりのものとは言え、膳に乗るめざし(・・・)と沢庵と汁物の朝餉が有難く思える。

 

 十月も半ばになる。待っていた状(手紙)がやっと来た。吉は父上も母上も息災であると書きながら、父上が時折痛みを訴えて胸の辺りを(さす)っていると(したた)めてある。(しん)(ぞう)の働きに何ぞ支障(さわり)が有るやもしれぬ。心配だ。

 けれども、診ずして処方も無い。食事を良くしてしっかりと父上の養生を頼むとしか書けない。陽助は元気に亮策さん(三代目建部清庵由水)の所に通っている、夜に、父上とも病の症状や草木の薬効を話し合う姿が見られるようになったとある、良いことだ。

 本家の稲刈りの手伝いに行ったけど、米は何時もの年の一、二割しか収穫できなかった。不作も不作。小父(おじ)様をはじめ本家の皆様から手伝いに来た人、小作人までもがため息ばかりだったとある。

 大根や白菜はまずまずだったものの甘藷(かんしょ)(サツマイモ)は実が小さく、大豆も実が入っていない、あるいはいじけた小豆(こまめ)になっていたとある。

 米の値が春先の三、四倍にもなっている。物乞い、浮浪者が城下のいたるところに見られる。やせ細り餓死した道端の遺体には大人に子供も混じる。その処置が間に合わず野放しのまま冷たい雨に打たれている光景はまさに地獄絵だと書き、一関城下の今の状況を思うと悲しいとある。

 吉の末筆の一行以上に腹立たしさが込みあがってくる。清庵(二代目建部清庵由正)先生の教えは如何(どう)した。籾蔵米の拠出は如何した。為政者(いせいしゃ)は一体何をしているのだと怒りを覚える。

 父上の手紙は医者の立場だ。夏も冬物を手放せない気候の上に食事も満足に得られない。それがために風邪だと訴え出た者、心の臓や胃の痛み、腎の不調に、足腰に痛みが出ると訴えて来た者、それらの殆どは食事を満足に口にすることが出来ない故の病だと書いてきた。

 薬の処方が如何(どう)のと言うより、先ずは食料の確保、救い小屋の炊き出しの粥に大蒜(だいさん)(ニンニク)甘藷(サツマイモ)、人参などを混ぜて拠出する、回数も増やすべきだと有る。

もう城下の餓死者は二万にもなるが、医者の手に負えるものでは無いと有る。

 その手紙を手に城下の街道、田畑、流れる川筋、救い小屋が目に浮かぶが、怒りの外に覚えることとて無い。

事情通は仙台城下では餓死者が四、五十万人にも上る。街道筋の道端や橋の下や、更には口にできる物を山に求めた山道のそこここに遺体がゴロゴロだと語っていた。

 また段々と知った。あの安倍清騒動、打ちこわしは、町民が口にする米さえ足りない、無いと分かっていながら、米相場の高騰に付け込んで藩米を江戸や大阪に輸送し大儲けを企んだが故に起きた暴動、結果だった。

藩米であるからには安倍清右衛門だけの考えだけでは無かったろう。為政者の民を思う心が何処にあるのだ。

              十一 惜別を思う

 四月四日(天明四年)をもって江戸勤番の御役目も終わった。江戸に在るこの五年間は実に有意義だった。

人知れず枕を涙で濡らしたこともあるけど、多くの出会いと学びに楽しかった。

 今度江戸に来るのは君侯の参勤交代のお供の時にでもなるのだろうか。それが何時のことになるやら分からぬ。関藩にも藩医は多く居る。参勤交代の有る無しや、人選にかかわることなく己が江戸詰めと言う時が早く来て欲しい。

 己でも阿蘭陀語の理解はかなり出来たと思う。和蘭(おらんだ)(かがみ)(後の蘭学階梯)も六物誌(りくぶつし)も好評だ。(天真)楼社中の皆さんに役立っているし、諸国、諸方から学びたいとこの江戸に来る方々にも役立つだろう。

 当初は先生(玄白)の使いで良沢先生に教えを乞うだけだったへーステルの外治本の翻訳作業も、目が不自由な先生(玄白)に代わって潰瘍篇(かいようへん)の後からを翻訳した。

 その翻訳も創傷、骨折、脱臼、腫瘍、海洋の各篇で四百三十頁、下巻は手術、包帯編で七百四十六頁にもなった。今思うと、阿蘭陀語の()を学ぶにも阿蘭陀医学(・・)を学ぶにも先生の使い役であったこと、宿題が自分自身に大いに役立った。

(天真)楼はこれからも大いに隆盛を誇るだろう。正月早々に先生の長男(十歳、杉田玄白の系図にも名が不明)が亡くなると言うご不幸があった(十一日)けど、伯元さんが先生の後を継いで立派な臨床医師に成るだろうし、家塾の経営の面でも先生を大いに手伝ってくれるだろう。

 また、工藤殿はまだまだ活躍されるだろう。五十過ぎて嬉しくも恥ずかしくもあると言いながら赤子(四女、拷子(たえこ))を手にしていた。

 先月初めにお会いしたときにお聞きしたことが今も頭の中だ。誰ぞと聞かなかったが、工藤家に出入りしている田沼様の側用人が問うたとか。

「主君は禄にも官位にも今や不足なし。故に主君には田沼の世にしたことと永く後世に語られことをしておきたいとの願いが有る。

どのような事をしたら良いかの?」

「蝦夷は松前から地続き、交易も有り日本に従っている国。

その蝦夷地を開発して貢租を取る工面を為せば、後の世に日本(ひのもとの)(くに)を広げたのは田沼意次と人々に語り継がれる、と申し上げた」

 ご自慢の進言はきっと幕府のためにお役に立つだろう。幕府は今、蝦夷地に大きな関心を寄せて蝦夷地調査の派遣を本気で検討していると聞く。

 カピタン一行は何時もの通り先月に参府した。今の江戸の話題はその事にも有るけど、若年寄りの要職にあった田沼様の長男、(おき)(とも)様が江戸城内で切り殺されたという瓦版に吃驚(おどろ)いた。

 田沼政権は賄賂政治、出世は金と縁故次第と江戸市民は噂していただけに下手人である旗本、佐野善左衛門を世直し大明神だと手を叩く者も居る。

 だけど、果たして世間通りに評価して良いものか。田沼様の時代は十数年にもなる。

悪化する幕府の財政立て直しのために殖産振興、重商主義とか言うものを推し進め、商人等から税を取る、米農主義の米、米、米の公租一本から新しい税制を考えた。その実践は間違いでは無かろうと思う。

 政治に(うと)い私だが、江戸の商人の羽振りの良いこと。あの連中から税を絞りとっても良いではないか。

市中の享楽に()かれて土地を捨てる小作農民が後を絶たない、農地が荒廃すると不満を募らせる諸大名も多いと聞くが、米の上がりからだけで幕府や藩の財政を支えること(仕組み)自体、今の世に合わなくなっている(あかし)ではないか。

 今や多種多様な商品が市中に流通し商人の世だ。庶民に不満が鬱積しているのだ。(おき)(つぐ)様への天罰と手を叩くのには、小身の旗本の子息の身から老中にまで上り詰めたというそのやっかみと今の世情が大きく影響していよう。

 今こそ田沼様には思い切った施策と庶民を救うための良策を望みたいものだ。それこそが田沼の世にしたことだと永く後の世に語られることをという願いに叶うものだ。

 

 良沢先生には一昨日(おととい)の講義の後にご挨拶をしてきた。この一、二カ月の間に江戸を離れることになる、また何時(いつ)江戸に来られるか分からないのでと先回りした挨拶だ。

 先生にこそ黙って江戸を離れることは出来ない。先生の健康を願ってきた。何度でも状(書簡)を出させていただく、質問を(したた)めるとそのお許しをも得てきた。

「一関に在っても翻訳の精進を続けよ、見たい欲しい阿蘭陀本が有ったら書き送れ、用意できるものは(とおる)(前野良沢の長男、良庵)を使ってでも其方(そなた)の言う通りに送る」

 有り難い、嬉しい師匠のお言葉を頂いた。