「おお怖い、怖い、恐ろしかった。見てきましたか?」
私の姿を見つけるや、おさんさんが肩をすくめながら声を掛けてきた。寄宿生のための朝餉の準備が一段落したらしい。
「うん、死体のことだろ?。見て来た。蓆を掛けられた死体が足だけ見せて河岸に並んでいたよ」
「おお怖い、怖い」
おさんさんが耳を塞いだ。江戸川のあちこちに流木が見られ、その中に、三日経って死体も混じるのだ。被災地の人馬の死骸が流れ来た。
役人が朝からその死体を川から拾い上げていた。医者としての本性だろうか。その死体を今後の医学の発展のために検分してみたいとも思う。
「噴火自体は落ち着いたらしいね。おさんさんも少しは気が落ち着いた?」
「はい。それは良かったのですけど、今度は米、米、米ですよ。
ご存じですか?。今、江戸市中、何処に行っても米が高くて驚きですよ。高騰しています。
今度は、米の入手にない頭を悩ませています」
謙遜の混じる何時ものおさんさんの言い方だ。だけど笑えない。この六、七、八の三月の間に江戸でも白米一升百十文が二百文と倍近くまで値が上がっていると聞く。
国許では米が予想以上に不作だと藩長屋の同僚から聞いたばかりだ。米相場の値上がりがまだ続くと予想し、国許での飢饉が殊更に心配だとも言っていた。
朝のおさんさんの言葉を思い出しながら一関に在る吉や父上母上、陽助を思い、貯めこむことの出来た金子五両を田舎に送ることにした。
息災かと尋ね、国許の米、野菜の出来具合はどうかと問い、周りの人々の近況を伝えてくれと認め、必ず吉から返事が来るようにした。
九 工藤平助の語る杉田玄白、小田野直武
今日から長月(九月)か。寒い夏だったな。暑いと感じた炎天の日はこの江戸でも何日となかった。浅間山の大噴火すら思い出される。久しぶりになる工藤殿は息災だろうか。
先日に届いた吉の手紙に驚きもした。想像がついてはいたけど田舎の重苦しい環境を伝えていた。家族は息災にあるものの、冬物を手放せない夏だったとあった。
また、去年に続き米は何時もの年の三割ほども実が入っていない。大豆は小ぶりでも実が入れば良く、寒さに立ち枯れてしまっている。
甘藷の茎や葉は寒さに縮み土の中の実が育つか今から心配だ。蒔いたばかりの大根、白菜は芽が出たけど育ちが遅い。柿も栗も例年に比べたら小ぶりだと農作物の出来と山の恵みの現状を語っていた。
そして、今のこの時期から喰う物がない、市中を徘徊する物乞いが日に日に増えているとあった。蔵米の拠出が噂されているけどまだお役所は動いていない。今のこの時期から救い小屋を建てて蔵米を施せば年を越せない、師走に悲惨な状況になるとてお役所も肝煎り達も我慢、我慢なのだと認めてある。
寒い時期に向かうのに食べる物が無ければ人の心は荒れる。
工藤屋敷が見えてきた。
「大分に遅ればせながらでございますけども、赤蝦夷風説考の完成、発刊、おめでとうございます。読ませていただきました」
「うん、それじゃて。欲が出ての。先にものにしたものと此度の物とを何人かに見せて読んでもらって批評を頂いておるところじゃ。
蝦夷地のアイヌとの交流、開拓。オロシヤとの交易の利を理解してくれる方々が多くての。それが幕府の財政を支える一つともなる。
日本のためになるとて長崎同様、蝦夷地に北方奉行所を置くべきと同調する手合いが増えておる。嬉しい限りじゃ。
して、今日の用向きは?」
「はい。特別の用事と言うことでもございませんけれども、前に本草学の一端でミイラに一角、人魚、それにサフラン、エブリコ、ニクズクについて翻訳をしているとお話致しました。それが纏まりましたので是非にご覧いただきたいと思い持参いたしました。中川先生にも玄白先生にも先にお目通しが叶っております」
「玄白殿がお目通しと有れば吾がどうのと言うほどのこともない。それより良沢殿に見せたのか?。
翻訳したものとなれば貴奴じゃ。其方の第二の師匠であろう。いや、翻訳の師匠は良沢が第一であろう。
前に阿蘭陀語の入門書になるものをまとめているとも話していたが・・・。翻訳したものが世に出せる物か如何かは良沢の意見が最もでござろう・・・」
「いや。まだ・・・」
赤面した。今日の訪問は中川先生の言葉に心を奪われてなのだ。発刊は月の給金だけで賄えるものでは無い。後ろ盾を探す必要が有る。大槻玄沢の翻訳と言えば財布に紐無しという御仁を探す方が先だ。その心を見透かされたような気がした。
「拝見させて頂くことにしよう。良沢が見た後で良い。後で貴奴の所に一緒に顔を出そう。時の方は大丈夫か?」
「はい。今日はこの後に何も用事はございません」
お腹を大きくした奥方様が、お茶をお持ちしたと声をかけて、湯飲み二つに饅頭の載った小皿を持参した。
二人の間に置くと直ぐに退散したが、私には気持ちを立て直すのにちょうど良い合間だった。
「久しぶりに来たのじゃ、少し話相手になってくれ。
ところで、浅間山の大噴火には驚いたの。どうして居った?天真楼は如何した?」
「はい、臨時休業と看板を出し、二日ほど診療を休みました。
噴火が小康状態になっても風が吹けば窓と言う窓から表に積もった灰が吹き込む有様で診療の場の衛生を確保するのに大変でした。
あの広いニ万坪もある敷地内の灰をことごとく取り除くのに藩長屋に住む藩士、楼の寄宿生から門番、小間使い、出入りのおばさんたちまでが総出で凡そ七、八日。灰の除去作業に四苦八苦でした。
診察の場の拭き掃除等はそれからでした」
「江戸市中、何処でも灰の始末に難儀したからの。
伝わってきた死者の数に驚くこともさることながら、被災地一帯は農作物が全滅だそうじゃ。それで思うのは故郷(郷里)のことよ。
東北は二年続きの冷害だ。其方の一関も吾の仙台も吾らが思うよりも大変らしい。国許(仙台)では春先の白米一升百八文が三百文にもなっていると聞いた。
恐ろしいことじゃて。喰う物が手に入らなければ人心が荒れる。
餓死する者が出て来るのは必定じゃ。君侯の適切な処置を望みたいものじゃて」
「飢饉になるのは間違いございません。妻からの手紙にも、米の不作に大豆など農作物の出来が悪いとありました。
また、日に日に市中を彷徨う物乞いが増えていると有りました。
天候は自然の物で如何ともしがたいところでございますが、病や餓死を防ぐのは人(人間)のするところでございます。
お話の通り、このような時にこそ上に立つ者にしっかりと対処していただきたいものです」
「物騒な世の中になってきたとも伝わっておる。泥棒、物盗りの類が増えた、証拠隠しのためにその後に火付けをするらしい。夜もおちおち眠れぬと手紙にあったわ。
この江戸でもこのまま米や野菜の高騰が続けば火付け盗賊が横行する。心配じゃて」
「・・・・」。
「さて、そろそろに、良沢の所に参ろうか。
三日前に会ったばかりじゃが、貴奴は体調を崩して床に伏せっておったわ。それも心配じゃて。
其方の先生でもあるから見舞って帰るのも良かろう」
「えっ。ご病気で?」
「何、吾の診たてでは寒かった夏なのに夏負けじゃ。
本人は季節の変わり目じゃて、風邪だと言っておったが。どっちにしても医者の不養生とも言うでな。大したことは無い。
貴奴も久しぶりに其方の顔を見れば喜ぶて・・・」
私の顔を見て話す工藤殿は笑みを浮かべている。
月謝など要らん、今までどおり通うが良いと良沢先生には有難いお言葉を頂いている。
しかし、去年の八月に再び江戸に上って、一関藩に身を置くようになってからは月に一度有るかないかの訪問だ。
阿蘭陀語の入門書然り、己の翻訳した物が如何かとご意見を頂くだけの関係になっている。
だけど、阿蘭陀語の翻訳については誰が何と言おうと工藤殿の言う通り良沢先生が第一の師匠だ。先生だ。
工藤殿の所から先生の住まいのある中津藩中屋敷(築地、奥平大膳太夫邸)まで何度か歩いているけど、そう言えば工藤殿と一緒に歩くのは始めてだ。
「人が人を知ると言うことは大切なことよ。蘭学医として今や杉田玄白の名を知らぬ者はこの江戸に居らぬ。京や大阪にも玄白殿の名は良く知られておる。
いつか其方が建部清庵殿のことを言っておったように、あの解体新書によって蘭方医杉田玄白の名を知らぬ医者は世間(全国)に居らなんだ(居ないだろう)。
解体新書には日本、若狭、杉田玄白翼訳と有るが、本来ならば前野良沢の名が有って然りじゃ。少なくとも訳した者とて二人の名が並んでおっても良いのだ。
良沢はターヘル・アナトミアを翻訳するに当たって玄白や淳庵や甫周殿等を指導した。仲間内が良沢を翻訳の盟主としておったのじゃ。
されど貴奴は、あの解体新書発刊の序文に名を記さないどころか、自らは訳した者として名を出さなかった。
世の中の事情を知る者の中には、ご禁制の書の発刊だと良沢が幕府の咎を一番に恐れたからだという者もおった。
また、何処ぞから聞き及んで、貴奴が大宰府天満宮に阿蘭陀医術習得の願を掛け、未熟のままに名声を得んとするところあらば神よ罰せよと祈願していたからだと話す者もおった。
されど、本当の所はそうではない。和蘭医学医術の実用に重きを置く玄白殿は功名心から翻訳出来たところだけでも世間に発表しよう、実用を図ろうと急かした。
一方の良沢は、翻訳はまだ途中、不完全。それを知っていながら世間に発表はできないと翻訳者としての矜持から発刊に賛成しなかった。故に序文も無ければ、訳者として記すことも固辞した。二人の間に確執、葛藤があったのだ」
良沢先生が何故に序文を書かなかったのか、かつて有坂先生からお聞きした話を思い出しながら、驚きをもって工藤殿の話に聞き入った。西本願寺の通りを過ぎた。
「其方が良沢の所に通うようになったのは実に良かった。二人が寄りを戻すキッカケになったからの。
其方の阿蘭陀語を学ぶ真摯な姿勢が貴奴と玄白の間を仲直りさせたと言っても良かろう。
玄白殿の下手なへーステルの外科書の翻訳を良沢が添削するようになったのも間に其方が居たからじゃ。
其方は医者としての道なのか、翻訳者としての道を選ぶのか、これからが大事なことじゃて。
二兎を追う者、一兎も得ずとも言うでな。
そう、そう、ついでに話すとな、あの解体新書の絵図を書いた小田野直武殿、彼の絵図が解体新書の理解をより分かり易くしていることは誰しも認めるところじゃ。好青年だったよ。
されど、跋文じゃよ。其方も既に何度も目にしておろうあの跋文を本当に小田野殿本人が書いたと思うか。
彼が必死に絵図を書き認めたのは事実だ。だが江戸に来て一年やそこらで二十も年齢上の玄白殿を指して、跋文の出だしにあるようなわが友、杉田玄白のために絵図を書いたなどと、わが友と言うか?。
あの跋文はな、秋田から小田野殿を連れて来た平賀源内が代わりに書いたものよ」
「えっ」
驚いた。初めて耳にすることだ。
「良沢は喜んでいたぞ。其方が阿蘭陀語を本当に理解し、阿蘭陀語を世に広めようとしていることが嬉しいのじゃ。
其方の草稿を吾も見せて貰った。
其方に刺激を受けての、貴奴が十年も前に書き表した阿蘭陀語の入門書、蘭訳筌の改訂に取り組むとか言っておったわ。
また、其方が否と言わぬ限り其方の入門書の序文も書くと言っておった」
目の先に中津藩中屋敷の外塀が見えてきた。