伯元さんの顔を見ると、今日は帰りに先生の所に寄らせていただくと申し上げた。
その後に、ここで会えると思っても居なかったゆえに驚きもした。中川先生が何も言わずに後ろから私の右肩を軽くポンポンと叩いた。
間もなく患者が部屋に入って来る。
「先生、例の六物について一応の翻訳が出来ました。今日はその草稿を持ってまいりました」
風呂敷包みから取り出した。中川さんは私の草稿の束を立ったまま見る。しばしの沈黙の後だった。
「流石だね。翻訳が早い。木乃伊(ミイラ)は人の屍とはね。その薬石が如何のこうのとミイラの本質を知りもしないで言って居た連中は何だったんだろう。
もっとも、(私も)ミイラはてっきり本草学の範疇にある物と今の今まで思っていたけどね」
少しの笑いの後、絵柄も必要だねと言う。
「何事も絵図が人を呼ぶ、寄せ付ける。関心を持たれる、理解されやすい。折角の翻訳ゆえに誰ぞに絵を書いて貰った方が良い」
私の身近にいるのは石川(石川大浪)さんか司馬(司馬江漢)さんだ。石川さんには蔫録(蔫)絵図を頼んだばかりだ。
司馬さんに頼もうとそこまで思って、はたと六物翻訳の活用について考えた。和蘭鏡と同様に(天真楼)社中の皆さんの参考になればと思っていたのだ。
絵図は必要としない、皆さんが翻訳した私の文字を筆写すれば良い。中川先生にそのことを言った。
「今の今まで自分もそう思っていたよ。しかし、この草稿を見て、関心のある蘭方医に広く教える物として役立つ。
六物はその薬効が何たるか蘭方医の間で話題になっている代物ゆえ、外に発表しても良いと思う。それだけの価値がある良い翻訳になっている」
「お褒め頂き有難うございます。されど、世に出すとなれば何時も先立つもののことになります」
「そうよな。月の給金だけで賄えるもので無し。ま、後ろ盾を探す必要が有るね。
大槻玄沢の翻訳、そう言えば財布の紐を解く御仁を探す方が先だね」
冗談ともとれる話し方だけど、それが今の世の中だ。
(天真)楼の扉を開けた。待ちきれない患者がなだれ込んできた。
朝方に伯元さんに伝えたとおり、夕刻に先生の本宅に回った。
開口一番にお話しした。
「伯元さんから金子をいただきました。思っても居なかったことでもございますれば、果たして受け取ってもよろしゅうございますのでしょうか」
「其方はここに居た時は書生だった。
だけど今は、其方は一関藩お抱えの藩士、侍医の一人。大槻玄沢殿じゃ。
その身が医者として、藩籍も違う楼の診療を手伝っておるのだもの、その給金を払うのが当然じゃて。
気づかなかった私がうっかりしておったわ。
月に何日来ても、また所用で来られなくても月に三両。それでよいかな?」
「私には大金です。勿体なきご配慮に、謹んでお礼申し上げます」
「良い、良い、そう畏まるな。受け取って呉れ。今後とも宜しくな」
「有難うございます」
「ところで、阿蘭陀語の入門書が完成したとか。久しぶりにお会いした荒井(庄十郎)殿からお聞きした」
(当時、荒井庄十郎は福知山藩、朽木昌綱のところで地理誌の翻訳等の業務に当たっている)
「はい、荒井先生にも良沢先生にもお目通しいただいております」
「蘭学を学ぼうとする医者は勿論、江戸庶民までもが蘭学入門の端になればとまとめたものと聞くが・・・」
「はい。ご承知のように今や地理、天文、測量から医学、化学に絵画、物造りまでもが阿蘭陀に学ぶべきと江戸の庶民は知っております。
それゆえに市井の人々までもが阿蘭陀語を学ぶ機会になればと、書きまとめたものでございます」
「それを見せては呉れまいかの?」
慌てた。
「勿論でございます。まずは天真楼に寄宿する方々や社中の皆様に筆写してご活用いただければと思っている代物(和蘭鏡)でございます。
日を改めて、必ずやその草稿をお持ちいたします。
今日はまた、中川先生から翻訳してみてはどうかとお話の有った六つの物について粗方の翻訳が出来ましたのでその草稿を持参しております。
中川先生からは(翻訳が)良く出来ているとお褒めのお言葉を頂きました」
「ほう。中川君が時折その効能が如何のと言っておったミイラとか、一角とか、人魚とかいうものか?」
「はい、それにサフラン、エブリコ、ニクズクでございます」
「それは是非に見たい。その草稿を持っていると?」
「はい。これも(天真)楼に寄宿する方々や社中の皆様に筆写してご活用いただければと思っている代物でございます」
風呂敷包みのまま畳の上を滑らせた。
入門書のまとめも六物の翻訳も、先生に隠しごとにして取り組んできたものでは無い。だけど先生から見たら、そうも受け取れるのかも知れない。慌てた、冷や汗も出た。
良沢先生の所に通うことが出来たのも、その時間的なご配慮も、またへーステルの外科書の翻訳の分からないところを良沢先生にお聞きして来いと宿題を出してくれたのも先生だ。それが阿蘭陀語の勉強にも医学を身に付けるにも大いに役立ってきたのだ。
今、私が阿蘭陀語を翻訳出来るのは先生のお陰だ。今度からは何が有っても事前に玄白先生にお話ししようと反省の気持ちだけが浮かんでくる。
額にも脇の下にも汗がびっしょりだ。
腹が減った。藩邸まではまだ先だ。途中何処かで蕎麦でも食おうか。六物翻訳の草稿を包んだ風呂敷包はそのまま先生の手元に置いてきた。
月に三両(現代の約三十万円余)は火事の多い江戸の花形職業と言われている大工一人分の月の給金にもなる。大金だ。有り難い。
八 浅間山の大噴火
「赤蝦夷風説考」上巻を完成させて上梓したと、使いの者がその一冊を届けて呉れた。しばらくお会いしていないが、お元気で精力的に活動する工藤殿が想像された。
それにしても、己のやっかみが出る。綺麗に製本された物を見ると羨ましくもある。金が無ければ刊行も出来ない、金、金、金、金が要る。
文月(七月)と月が替わって、もう六日になる。この時期、梅雨とかで前の月から続いて長雨になることが多い。例年のことだと分かっているが、暑さ寒さはその年による。
身体の不調を訴えて診療に来る老人達は未だに冬物を手放せないでいる。去年に輪を掛けて寒い夏になるのだろうか。米どころの郷里のことも田舎に在る家族のことも心配になる。
明け六つ(午前六時)に藩長屋を出た。通いの店番頭や大工職人や天秤棒を担いだ魚の運び屋、売り子等に出会うのは何時ものことだ。
楼に着いたら雑巾がけだ。私を待つ患者も居る。そんなことを考えながら歩を進めていると、空から灰が降ってきた。
手の平を広げた。間違いなく灰だ。何処ぞで火事なのだろうかと耳を澄ませたが、半鐘の音も騒ぎの音も無い。遠くを見やると町並みがかすんで見える。
宿舎に寄宿する何人かが表に出て、灰だ、灰だと大騒ぎだ。
こんなこともあるのかと思っても誰もその原因が分からない。吹き込んだ灰が天真楼の廊下を薄っすらと白くしていた。
歩けば足跡が後ろに付いて来る。雑巾がけどころではない。
窓と言う窓を点検しなければならない。吹き込む灰を何とか止めねば診療の場の衛生を保てない。
有坂さんと伯元さんと、少し遅れて来た中川先生と話し合って今日の診療は休業と決めた。即決だ。臨時休業の張り紙が用意できると、門番まで使いを走らせた。
寄宿生や通いの塾生に小母さん達にも手伝ってもらって、あちこち建物全体の隙間塞ぎだ。水瓶に灰が入らないように木蓋の上から二重に布で覆った。
百味箪笥(薬入れ)や医療用の器具を入れた整理棚、箱等にも布をかけだ。
昼四つ(午前十時)頃にお顔を見せた先生(玄白)が、良く遣ってくれた、守ってくれた、良かった良かったと言う。灰が降る原因が分からないままだ。
通いの小母さんの一人が家に戻って良いかと尋ねた。それを機に、家に帰って良い、自分の家、身を守れと皆に先生のお言葉だ。
原因が分からないから余計に不安が募る。天変地異、そんな言葉が頭に浮かぶ。
藩長屋に戻っても、空から降って来る灰の話だ。こんなこともあんべが(あるのか)と誰もが言う。ズーズー弁混じりの仲間内の話になると余計に田舎の様子にも思いがはせる。
一夜明けて、浅間山が大噴火したのだと分かった。号外の瓦版だ。
七月六日の朝、信州浅間山大噴火。熱湯の山津波(火砕流)で近村の村人凡そ二万人が死んだ、関八州(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)や江戸にも風に乗った灰が降りかかった。八王子の宿は灰が一寸(約三センチ)も積もった、と伝えている。
時折、まだ空から灰が落ちて来る。今日も引き続き臨時休業にした方が良い、先生のお言葉でもあると伯元さんの伝達だ。
有坂さんと中川先生の姿はない。通いの塾生の顔も見えなかった。それぞれが自分の家の掃除が大変だろうと想像がついた。
寄宿生と、その寄宿生の賄いのために出勤した通いのおさんさん(小母さん)と一緒に、灰まみれの廊下の拭き掃除をした。
それから屋敷周りに降り積もった灰をそっと寄せ集めた。風に吹かれて灰が舞い上がればいつまでたっても衛生的な診療の場が確保出来ない。
昼九つ(正午)前に解散した。各々気を付けて帰れ、身の回りのことをせよ、と昨日の先生に代わって今日は一緒に掃除をした伯元さんの言葉だ。