七 草稿なる―和蘭(おらんだ)(かがみ)(えん)()六物(ろくぶつ)

 空は霞がかかる季節になった。診察の合間に外の空気を吸い、陽だまりに当たって一服するのも気持ちがいい。江戸の生活にも慣れて、時折、煙草を手にするようになったのはこの一年だ。

 先生の所での書生生活を離れたこととも関係あると言えばその通りだろう。また、田舎でさぞ美味そうに吸う清雄(大肝煎り)小父や治作さん、それに昔の仲間が大人になって喫煙しているのを見て自分も吸ってみようと思った。

 昨晩(  ゆうべ)の机の上の草稿を思った。(たばこ)の葉に幾多の種類があることは分かった。しかし、その葉を育てる、加工する等をまだ分かっていない。

(たばこ)に付いて書こうと思えばそれらのことを知る必要もあるだろう。試しに自分で()った物も(もら)った物も(きっ)してみた。

 分かったことは咽喉(のど)に刺激が強い、(むせ)ると言うことだ。故に身体に良い物と思えない。

しかし、私の関心を殊更に引くのはその(たばこ)を吸う烟管(えんかん)(たばこ)入れだ。実に様々だ。

彼国(阿蘭陀)の書から(みず)(たばこ)なるものを吸っている男と女の図だと荒井(庄十郎)さんに教えて貰って大いに興味が湧いた。

興味があるままにそれらを訳しただけでも阿蘭陀語の勉強になる。自分にとって一石二鳥だ。

 また、良沢先生や中川先生、桂川先生等が珍しい異国の烟管(えんかん)を所有しているのは分かっている。それらをお借りして図説にまとめてみるのも面白い。

参考:蔫録附図から(すみません、何度試みても絵図が回転してしまいます。清人、豊臣秀吉の煙管、中川淳庵、前野良沢(蘭花)の所有していた煙管です)

 されど、絵図を自分が書けるわけもない。阿蘭陀語の勉強のために(天真楼)塾に出入りするようになった石川(石川(いしかわ)大浪(だいろう)、洋風画家、狩野派)さんと司馬(司馬江漢、勝三郎)さんにそのことを話した。

年下(五歳年下)になる石川さんは笑いながら、お手伝いしますと言った。司馬さんも良いよと言いながら、必ず和蘭(おらんだ)(かがみ)(後に蘭学階梯と改称)をまとめて呉れよと言った。 

 良沢先生の所に通っていながら、今も阿蘭陀文字、二十六文字の読み方さえ覚束(おぼつか)ない司馬さんだ。その司馬さんのために銅版画の絵図の(あらわ)し方を訳したばかりだ。

 阿蘭陀書に書かれているボイスという人の技法をそのままに訳し、司馬さんと二人で試してみた。実にうまく出来た。

銅板の上に(びゃく)(ろう)を引いて代赭(たいしゃ)(せき)で下絵を書き、筋をつけ、その筋の上に強酸の液を流し込む。それをエッチングと言う。

 司馬さんは異国の絵画技法に驚くと同時に、改めて阿蘭陀語を学ばねば、自分でも翻訳出来ねばと思い直したらしい。

人の世の喫煙の起こり、煙草の栽培方法、産地、煙草の医学的用法と効果・影響、喫煙具に付いて私が調べ、まとめ、書き表すことにしている。司馬さんに頼むのはその後だ。

 日本における(たばこ)の歴史も百年や二百年になるらしい。豊太閤(豊臣秀吉)が使っていたという烟管(えんかん)や、清(現中国)の人々が古くから使っていると言う烟管を知った。

また、阿蘭陀人が馬に乗ったまま吸うという烟管や、珍しい形の烟管を良沢先生や中川先生が所有していることも知った。

烟管の形を図に表わし、その大きさ(長さ)、重さに素材や施されている装飾を記し、差し支えなければ所有者を表すことにした。

だけど、御禁制品だと御上のお叱りがあるやもしれないのだ。協力してくれた方々にご迷惑はかけられない。

(えん)()」(後に「(えん)(ろく)」と改題)として一応の草稿はまとめたけど、発刊するには慎重を期さねばならない。報帖(ひきふだ)(現代のパンフレット)で御上の出方を見た方が良いのかもしれない。

 司馬さんの語る和蘭鏡の草稿の方は、良沢先生の御意見等を踏まえて加筆修正を加え、まずは了とした。司馬さんだけでなく、江戸の庶民までもが阿蘭陀語を学べるようにと意識して(したた)めたものだ。ごくごく分かりやすく、簡易にしたつもりだ。

 諸国から阿蘭陀医学を学びたいと楼(天真楼)に来る方々や、楼社中となっている皆さん(寄宿者、通いの塾生、門下生)が阿蘭陀語を学ぶのにきっと役立つだろう。皆が必要に応じて筆写すればいいのだ。

 先生(玄白)の御了解を得る前に中川さんや有坂さん、伯元さんに見て貰った方が良いだろう。

 

 朝餉を遅くに摂った。今日は藩の所用を足してから(天真)楼に顔を出させていただきますと伯元さんに事前に了解を取ってある。

 その伯元さんは正月も中頃(十五日)に小浜藩主にお目見えが叶ったとかで、今では日に日に自信を増した顔になってきた。

小雨混じりの寒い昨日と打って変わり、今日は陽気も感じるほどに青空が広がっている。

「おめでとうございます」

幾つもの、その声を最初に耳にした。中川さんや有坂さん、伯元さん、手伝っている何人かの社中の人々の取り囲みの中に甫周さん(桂川甫周、(いみな)(くに)(あきら))がいた。

久しぶりにお見かけしたけど、身形(みなり)が一段と立派になっている。

私を見つけた甫周さんの方から先にお声が掛けられた。

「玄沢よ、元気だったか」

「ご無沙汰いたしております。息災の御様子で何よりでございます」

「固い挨拶は要らないよ。うん、元気だったか。

それより、先生の所にご挨拶とご報告を兼ねてお寄りしたら、其方が阿蘭陀語の入門書を認めていると言っておられた。

出来上がったのか?」

「はい。自分では一応この辺でと区切りをつけております」

「それを(わし)にも見せてくれぬか?」

「とてもとても、翻訳を良くされている甫周さんにお見せするような物ではございません」

「江戸庶民にも阿蘭陀語が分かるもの、阿蘭陀語の入門書と聞いた」

「はい。今や地理、天文、測量、医学、化学に算術、絵画、物造りまでも阿蘭陀、阿蘭陀。国を閉じている世とはいえ、彼国に学ぶべきことが多いと、今や江戸の庶民は知っております。

それ故、そもそも横文字がどんなものか、いろは(・・・)と同じように何文字あるのか、何と発音するのか、そのような(たぐい)でございます」

「阿蘭陀医学(・・)を学びに来る者に、阿蘭陀語の入門書として大いに役立つだろうと、先生(玄白)は評価していた。

庶民の為にもなる?。何処(どこ)ぞから出版したら如何(どう)だ?」

「とてもとてもその様には。今、中川さんや有坂さんにも見ていただいているところでございます。

最初は、必要に応じて必要とする方が筆写するようにと考えております」

「そうか・・・・」

甫周さんは、笑顔を見せながら頷いた。

 中川さんや有坂さん、伯元さん等に混じって事情を知った患者さんまでもが楼の玄関口に甫周さんをお見送りした。

お帰りになった後に、伯元さんから聞くことになってしまった。吃驚(びっくり)した。先生の本宅から楼の方に回った甫周さんは(ほう)(げん)になったのだ。

 法眼と言えば幕府奥医師でも外治(外科)の最高位だ。私より五つ(五歳)上だからまだ三十二(歳)のハズだ。さん(・・)ではなく、桂川先生(・・)、いや、桂川甫周殿()だ。法眼殿だ。

 

 机に向かうと、半紙に書かれた六つを改めて見た。今、本草に関心のある蘭方医の方々の中で、その薬効が話題になっている代物(しろもの)だと中川先生が半年前に書き寄越したものだ。 

 翻訳しているうちに段々と分かって来たが、一角(いっかく)なるものは陸上に住む動物ではない。その(つの)のことではない。どうも一角と呼ぶ魚(一角魚、ウニコール)がいる。その魚の歯、(つの)みたいにもなった歯牙(しが)を粉にして解熱の薬にするのだ。

 saffraan(サフラン、洎夫(さふ)(らん))は日本でも栽培することが出来るものらしい。その種から長崎においても栽培していると荒井(庄十郎)さんからお聞きした。

 翻訳は出来たと思う。花の色は薄紫にして、そのめしべを乾燥させる。乾燥させたものをぬるま湯か水に浸すとやがて水は黄色くなる。それを消化の不良や不眠の症状がみられる患者に用いる。

鎮静効果もあるが、女子の子宮を収縮させるによって妊娠中は服用を避けるべし。

 natmeg zaad(ナツメグ、肉豆蒄(にくずく)科)はインドネシアという南国で採れるものらしい。香のある豆が木になる、その木は五、六間もの高さ(九メートル~十三メートル)で、一本の木から千もの豆が取れる。豆は粉にする。丸薬にもする。食欲増進に使う反面、腹下りを直すのに良しと訳される。

 訳したものがこれでよいかと見直しているだけで疲れた。机を前にして後ろに上半身を倒した。目をつむると、昼間に見た甫周さんの立派なお姿が思い出される。

 生まれながらにそういう人になるために生まれてきた人。御父上はじめ周りは医者、医者。漢学、漢方に蘭学を教えて貰える環境にあった人。数々の書籍、物産等々が見られる恵まれた環境で育った人。解体新書の翻訳に十九、二十(歳)そこらで参加出来た人。そう思うと、(幕府における)職位はどうあれ桂川甫周殿が羨ましくもある。

 自分の産まれ育った環境を思っているうちに、田舎に在る弟、陽助のことが思われた。確かもう十六になる。遅すぎる。十有五にして学を志すと論語にもあるのだ。

父上や母上の側に居て儒学や漢字を習っていても、それで生きる糧は得にくい。陽助もまた医者を目指すなら、まずは亮策さん(建部清庵三代目)の所で基礎を学ぶべきだ。

 父上はどうしたのだろう。陽助のことをどう考えているのだろう。(建部)門下に加えていただけるよう申し入れているのだろうか。気になりだした。

 阿蘭陀書も翻訳した草稿も側にして、父上宛に状(手紙)を認めることにした。

 

 四月だと言うのに曇り空の日が多く春らしからぬ陽気が続いている。桜も青空に映えることなく散ってしまった。

届いた父上の手紙には一関にも藩校が開設されたとある。(一関学館、後の教成館)。それは良いことだと思いながらも、それよりも陽助はどうしたのかと手紙の先が気になった。 

 幸いに亮策さん(建部清庵三代目)にご理解いただき、陽助は身近に見ることの出来る草花の薬効を知ることと、人体の成り立ちの基礎から学び始めたとある。良かった、良かった。

 中川先生の半紙にあった木乃伊(ミイラ)、噎浦里哥(エブリコ)、人魚の方の翻訳も粗方(あらかた)出来た。ミイラは薬効が如何(どう)のこうのと言う代物(しろもの)ではない。人の(しかばね)だ。

 薬効が何であるかと問われていたのだから驚いた。また、死んだ人の身体を保存すると言うことにも、その保存方法にも驚いた。使われている薬が何なのか分からないものも多くあるが、最後は包帯で遺体をぐるぐる巻きにするとある。一応の翻訳は終えた。

 エブリコは大きなキノコの一つだ。倒れて腐敗した松の木等に生えるとある。疱瘡に効くとかで貴重だが、手に入れるのが難しいだろう。粉末にして飲み薬にするとある。

 人魚は未だ見たこともない。上半身が人間の頭、身体で下半身が魚の様に尾ひれがついていると言う。海に居るものだと言う。その骨は止血に有用にして霊薬である。

訳し終えて、明日には中川先生にご報告だな、と思う。