前触れもなく訪問者が多く、玄関口に迎えに出たさゑさんが驚いた顔をした。先生は書斎よという言葉に釣られて四人が一緒に顔を出すことにした。
開けた襖戸から伯元さんが中川さんと私の来訪を告げる。四人が目の前に立ち並ぶと、先生もちょっと驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔に変わった。
「座れ、座れ、目が思うようにならなくての。
楼にも患家にも顔を出せずにいる。年齢は取りたく無いものじゃて」
今年初めて耳にする先生のお言葉だ。
「玄沢よ、達者だったか?」
「はい。お陰様で。暮れにご挨拶を欠いて申し訳ございませんでした。
「何、こちらに見えずとも其方が診療を手伝いに来ていると聞いておったよ。
阿蘭陀語の方は如何じゃ、良沢先生も息災か?」
「はい。暮れにお元気なお顔を拝見しております」
阿蘭陀語の入門書になる原稿を良沢先生に見てもらっているとは口にしない。どこぞの医学書を訳しているわけでは無い。そう考えて口にしないことにした。
「目が見えなくなったら翻訳どころか、彼国の教える治療の術を学ぶことも出来なくなる。それが心配じゃて」
「またそのようなことをおっしゃる。
心配せずに少しでも良くなるよう養生した方が良いですよ。
東海殿(衣関甫軒の号)に一度見てもらった方が良いかもしれませんね」
伯元さんが応える。先生の口から思っても居なかったことが発せられた。
「伯元に玄沢殿を目の前にしているから言うが、この先、本科(内科)のことは伯元に、外治(外科)のことは玄沢に託す。
玄沢殿よ、懲りずに楼を手伝ってくれ。
中川殿が二人をしっかりと補佐してくれ」
「またまた何を弱気なことを言われる。先生らしからぬお言葉です。
甫周殿が、かつて先生を指して草葉の陰殿、草葉の陰と綽名をつけたように、またそのように言われますぞ。
弱気になっては成りませぬ。
それぞれの役割は今更言わずともお二人は良く承知してございます」
中川先生の言葉から本科は伯元、外治は吾(私)、と先生と中川さんの間で何度か交わされている会話だなと推測された。
「見ての通り楼に来る患者は引きも切らず、患家に呼ばれることも年々多くなっている。
翻訳せねば、阿蘭陀に学ばねばと思ってもその時を取るのも容易ではなくなった。
へーステルの外科書の翻訳はまだまだじゃ。
其方に今も翻訳の一部を手伝ってもらっておるが、この先、引き継いで翻訳して欲しい。心残りになる事は後の世に残したく無いでの。
また、玄沢殿の翻訳の力からして、寄宿生等に阿蘭陀語を教えてほしいのじゃ。
(天真楼)塾に来るものは、阿蘭陀医術もさることながら阿蘭陀語を学びたくて来ておる。
有坂君や中川君と同様に教壇に立っては呉まいか」
先生が私を殿付で語るのは初めてだ。
解体新書は何度も読み返した。目にすることが出来た異国の書で本科のことも外治のことも勉強してきた。本科(内科)のことは伯元に、外治(外科)のことは玄沢に託すということも何度かお聞きしていることだ。
また、へーステルの外科書の翻訳をお手伝いさせていただくことも承知できる。しかし、塾で教鞭をとると言うのは如何なものか。どのように考えればいいのだろう。
私はいまや関藩の身だ。先生や中川さんは小浜藩の籍。藩に由緒書を出してあると言うから伯元さんもやがて小浜藩に属する。天真楼は先生の私塾だ。
恒常的に講義を受け持つとなると関藩のお許しも必要になるだろう。己が先生に認められたことは嬉しいが・・・。
夕餉の仕度が整いましたと奥方様が顔を出した。
久しぶりの食卓は先生を囲むように配膳されていた。伯元さんに中川先生、私、有坂さん、向かい側に奥方様、長男長女によちよち歩きの次女(八曾)。それにさゑさん。
私を家族の様にも迎えてくれた席だった。心配りの席と手作り料理にやっと正月を感じた。
酒で火照る顔に当たって通り過ぎる風は心地良い。愛宕下に並ぶ茶屋や蕎麦屋の明かりが途切れると、間もなく藩長屋の塀が見えてきた。
今日は七草粥だと思っても、誰ぞその仕度をしてくれるわけでは無い。春の七草を思えば雪に囲まれた田舎の山々が思い出される。また工藤殿の所で御馳走になった日が思い出される。
今日にも工藤殿の所に新年の挨拶に顔を出さねばと思う。診療が終わったら出かけられるだろうか、天真楼から工藤殿宅までの距離とかかる時間を改めて思ったりした。
朝から雪がちらつく一段と寒い日なこともあるのだろう、夕七つ(午後四時)を過ぎると患者が急に減った。
その様子を見て、工藤殿の所に新年の挨拶に顔を出したいと伯元さんに早めに切り上げる了解を取った。
昨秋に歌舞伎を初めて見させて頂いて、その後、一度顔を出しただけだ。
三か月振りの訪問になるなと思いながら、途中、西本願寺前のお菓子処で手土産にまんじゅうを買った。己の懐具合を見れば今はこれが精一杯だ。
「元気だったか?、上がれ上がれ」
相変わらずお元気な工藤殿だ。
「新年あけましておめでとうございます。
以前にも七草粥の日は御家族水入らずの安息日のようにもお聞きしていたので今日の日の訪問は・・・・と思いながら来てしまいました」
「良い、良い。其方は外におる家族同様じゃて。
挨拶は抜きにして、来たばかりで悪いが長崎から届いた手紙の翻訳に早速に力を貸してくれ」
いきなりの誘いだ。後を付いていくと、書斎の文机を前に、座れと言う。
机の上の半紙には横文字が一杯に並んでいた。その横に置かれた和紙には似たような文章と単語が幾行にも記されてある。
机周りには書き損じが散乱していた。
何度も思考し、書き綴り、翻訳に四苦八苦していたと思われる。座れと言われた所の座布団は暖かかった。
部屋の隅からもう一つの座布団を持って来てしばらく私の横に座って居た工藤殿だったが、途中、寒くはないかと聞き、大丈夫ですと応えると部屋を出て行った。
戻って来た時には赤い液体の入るグラスが乗るお盆を手にしていた。そろりそろりと入って来た。
後ろに続いて来たのは十四、五(歳)に見える少年だ。何やら白くも灰色にも見える物が乗る小皿を手にしている。
「もう六つ(午後六時)も過ぎた。半刻(一時間)以上にもなる。少し休んで呉れ。
其方の仔細も聞かずに頼んだこととて、休め、休め。
葡萄酒に彼国ではカース(Kaas、チーズ)と言うものだそうだ。
倅の元保(工藤平助の長男、幼名、安太郎)だ。覚えているか。今年で十八(歳)になる。いずれ吾の後を継ぐ。宜しくな」
確かに覚えている。前に見た時よりも背丈がぐんと伸びている。
「父同様に、今後とも、宜しくお願いいたします」
「こちらこそ。お父上にはお世話になりっぱなしです」
元保殿の顔を真面に見た。
何処にでも見られる少年だ。父親のがっしりした体つきと違ってホッソリしているが濃い眉の形は同じだ。口数少なく、それだけで部屋を出て行った。
しばし休んで、それからまた二人で半刻ほど机に向かった。
五つ半(午後九時)にでもなるだろうか、おなかを大きくした奥方、遊様が顔を出した。
「何時ものことゆえ先に夕餉を頂きました。いかがなさいますか」
それがこの日の翻訳作業の終わりを告げた。
工藤殿の案内で、覗いた部屋にはお膳が用意されていた。
「今日は春の七草の日ゆえ粥にさせていただきました。
宵のお腹には粥が消化に良いともお聞きしていますゆえ、その様にさせていただきました」
開けた櫃から湯気が白く立った。奥方様が直接に碗に粥を盛る。女中が多く居るだろうにと少しばかり驚いた。
膳には薄茶色い餡をかけた豆腐と梅干しが添えてある。
周りの寒気のせいもあるのだろう、暖かい粥が胃に落ちるのが分かる。
「今日はお泊りでしょうか。その様にお仕度いたしましょうか?」
工藤殿が応える前に、慌ててお断りした。
「明日は早くに用事が有りますれば今日は帰らせていただきます。
今日の続きは明後日の朝早くからにでもお邪魔してさせていただきます」
言葉尻は、工藤殿のお顔を伺った。
「そのように出来るよう、吾の方も都合しておこう」
笑みがこぼれた。そして、問われた。
「今日は春の七草じゃが、秋の七草は何と何か御存じか?」
七草、粥の日、正月の飲み食いした胃袋を休める日と知ってはいても、その七草の種類を私は言えない。
ましてや秋の七草を問われても応えられるハズもない。
ふと、医者であることを工藤殿に試されているのかなとも思った。
「ご承知の通り吾に二男三女がある。多くが秋に生まれておるでの、それで子供たちを秋の七草に例えて綽名を付けておる。
長女あや子が葛の葉、葛で、長男元保が藤袴、
次女のしず子が朝顔で三女つね子が女郎花、
次男源四郎が尾花(ススキ)で、これから生まれてくる子に綽名じゃが、萩、、撫子をと考えておる。
長女のあや子は葛、他人に蔑まれるような綽名だと言って怒っておるがの」
「そもそも人を花になぞらえることが可笑しゅうございます。
綺麗な花、可愛い花ならともかく、七草は草と言う通りに春にも秋にも地味な名のものばかりですもの。
子供らは喜んでは居りません。
主人に何度か、子等は貴方のお付けになった名前を頂いております。皆喜んでおります。故に、他に綽名は要りませんと申し上げてございますのに」
奥方、遊殿も子供らに味方して不満らしい。語る途中から私に訴えた。
「泊った方が良い、朝早くに出ればよいではないか」
奥方様の言うことに委細構わず、工藤殿のお言葉を頂いた。しかし、まだ帰れる時刻だと伝えて帰ることにした。
「気を付けて帰れ」
背中にも聞いて表に出ると、積もり積もった雪で道も木も真っ白だ。
もう、四つ(午後十時)になるだろう。海鳴りの音が遠くに聞こえてくる。
市中に出ると、いつもの日よりも余計に街は静かだ。まだちらちら降る雪に夜回りの火の用心の声と拍子木の音が寒気を割いて響き渡る。
あの翻訳が本編(赤蝦夷風説考)にどう活かされるのだろう。耳にはしていたけどゼオガラヒーを始めて見た。
(ドイツ人、ヨハン・ヒュブネルが一六六八年に書いた地理書、ヨーロッパ各地で評判になり発行部数は十万を超えた)
見ながら、蝦夷地が広いこと、その土地の活用方法について期待していた。また、そこに住む人々や蝦夷から北にも横にもある異国との交流等も熱く語っていた。
話の中に出て来た長崎の吉雄耕牛殿は解体新書で知り、先生(玄白)等や良沢先生からも少しお聞きしているけど、松前藩の勘定奉行、湊源左衛門殿、藩医、前田玄丹殿はどのような人物なのか知ら無い。
引き続き翻訳を手伝う約束をしてきた。夏までに上巻を完成させるのだと工藤殿は意気軒高だった。
お断りしても帰り際に持たされた金子の包みは懐に過分に重い。