一度家に戻り、平服に身支度を整えて建部家(たけべけ)を訪問した。

「待っていたよ」

(あご)(ひげ)を蓄えた亮策さんが、態々(わざわざ)玄関口に出て迎えてくれた。

 招かれた部屋に着座するや否や、江戸はどうだと聞く。目が期待するように輝いている。やはりかつて居た江戸に、まだ心残りがあるのだろう。

「江戸は今や阿蘭陀、阿蘭陀、阿蘭陀流行り。地理、天文、医学に絵画、殖産振興が(かの)(くに)に関連して語られます」

「うん。地球には先を行くいろんな国がある。日本(ひのもと)は世界に学ばねばならない。

御禁制の品々が出回っておろう。

取り締まりが緩んでいるが、それもまた世界を知る重要な手がかりだ」

 亮策さんが先回りして語る。その後も、お話していて世の中のことも医学事情のことも認識と意見が一致するところが多かった。

 そして、亮策さんは由甫さんの養嗣子の件は双手(もろて)を挙げて賛成だと語った。   

「玄白先生に由甫を任せて大丈夫。

由甫はいずれ其方と一緒に陸奥(みちのく)に阿蘭陀医学をもたらす懸け橋ともなるだろう。

それはこの田舎に住む者にあっても良い事であり、建部家にとって名誉な事だ。

 父上に宛てた由甫の手紙には何とかお断りしてくれとあった。父もまたお断りする考えであった。

しかし、(父上を)説得したよ。これからは外治のこと内科のこと、甫軒さんのように眼科専門、また、小児専門、婦人専門などと診察の上でも医者は得意分野を分かち持つべき時代だ。医療の専門分化だ。

 医者が医者として専門分野を極める。それが人々の治療、治癒の向上につながる。

外治のことは其方、内治のことは由甫と玄白先生のお考えを手紙で知った。

二人に対する先生の期待が大きい。それを知ってうれしかったよ。

 亡くなった父上は由甫を豚児とか言っておったけど、是非もなく承諾した方が良いと進言した」

 近く、江戸に居た人でなければ医療の専門分化などという意見は出てこない。東奥(とうおう)の辺境の地にありながら、それを語る亮策さんに改めて感心した。

 嬉しさの余りに、再度江戸に行くことになりましたとお伝えしそうになったけど、口にしなかった。

関藩の居並ぶ医師は勿論、この建部門下にあって学んでいる人々も江戸遊学を夢見ているのだ。私が日をおかずに藩の許しで再び江戸に行けるとなれば、その日が来るまでの間に何処から横槍(よこやり)が入るか分からない。

三代目清庵由水(亮策)さんと雖も報告をしなかった。

 診察の場に足を運んで、かつて見送りしてくれた方々にご挨拶をと思ったが、明日の夜には亮策さんの襲名披露の宴が用意されている。恐らくは皆さんも参加するだろう。顔を出して僅かな時間で旧交を温めることは出来そうもない。

そう思って玄関口でそのまま亮策さんと奥方様の見送りを受けた。三つになるというご息女が手を振ってくれた。

 

 中里に至るこの道は本当に何年ぶりだろう。夕暮れの田畑や新緑の山々に目を遣りながら歩く道々そう思った。

また近くに見る野辺のたんぽぽ、フキノトウ、ヨモギ、セリ等の薬草としての効能を頭に復唱しながら歩いた。

 思っていた時よりも少し早い気もしたが大槻家の長屋門をくぐった。

迎えてくれた清雄小父(大槻専左衛門)は四年前よりもさらに精悍な顔をしていた。頭にも(びん)にも少し白髪が混じる様になっていたけど大槻家六代目大肝煎りの風格と貫録が増していた。

 昼は使用人、小作人に臨時の雇人も交えて田植え仕事に忙しかったろうと思う。親類縁者から使用人等も交えての宴席は私のためのものだ。

 今夜の主客だと(かつ)がれて小父の隣に座らせられた。小父も江戸の話を他人(ひと)よりも聞きたかったらしいが、今年は冷害になるやもしれぬ、一向に気温が上がらぬと先々の田畑の出来具合や民の生活を思いやる大肝煎りだった。

 最後は、私の嫁取りの祝い話にもなった。父も母も陽助も私も、小父のお言葉に甘えて一晩、本家のお世話になった。

 

 帰省三日目にして、やっと花のお墓参りだ。昨夜(ゆうべ)の宴の席で治作さんに、明日は花のお墓参りに行くよ、とそっと伝えた。

彼は同道した。白髪が増え、乗る毛も薄くなっている頭だが相変わらずの健脚だ。

 江戸の生活に慣れた私は坂道の途中に息が上がった。一休みしましょうと声を掛けると、治作さんはニコリと微笑んで応じた。優しい心は少しも変わりない。

 振り返って広がる視界に、これが私の故郷なのだなと改めて思う。後ろに北上山脈の山並みをいただき、一関の市中と田畑の間を流れる(いわ)井川(いがわ)(すい)(がわ)の川面が陽にキラキラと光っていた。

「お彼岸に草取りをしたのに、もうこんなに草が生えている。春ですね」

しゃがんだまま、笑顔で手を動かす治作さんは二つの盛られた土に向かって言った。

「元節様が来てくれたよ」

玄沢と名が変わっていることは昨夜の宴席でも披露したのに、花には元節なのだなと思った。

 持参した少しばかりの花とお線香を小さな墓石にあげると、もう四年が経ったと月日の流れの速さを実感した。

心秘かに嫁を貰うことにした、七月にはまた江戸に行くよと花に報告した。

 

 夜には昨日に続き亮策さんの居宅に寄った。寄って初めて関藩の医師有志と清庵門下生の身内だけの襲名祝いの席と分かったけど、私の帰郷を祝っての席でもあった。

 上座の亮策さんの左隣に私の席が設けられていた。思わず感謝の気持ちが込み上がった。

ご配慮によって今の建部清庵門下の方々に一遍に合うことが出来た。四年前の出立に見送りをしてくれた方々に、見知らぬ方々もおられたが嬉しい。

 宴たけなわとなると、決められた己の席を立って旧交を暖めるのは世の常だ。かつて机を並べ、掃除も一緒だった結城君も曾根君も小田君も、うずうずしていたかのように私の席の周りに寄った。

三人は、この四年の間に(ひげ)も伸びる青年の顔だ。

 冗談交じりに結城(ゆうき)君(後の藩医結城氏七代、宗琛(そうちんちん)英彦(ひでひこ))が言った。

他人(ひと)のことを言うなよ。其方(そっち)も大きくなったよ。あか抜けた着物で何処の若旦那だべ(か)と思ったべ(思ったよ)」

次に、曾根君(後の藩医曾根氏四代、曾根(そね)(まれ)(かた))だ。

(おら)の父上に江戸で会ったべが(会ったか)」

「うん、お会いした。今も藩邸(上屋敷)を訪れた時に、何かとお世話いただいている。

藩から学俸を頂いている身ゆえ三月(みつき)に一度は近況報告をせねばならないが、その受け役が御父上だ」

 吾ら四人の中で一番歳上の小田君(後の藩医、再興した小田喜樸(きぼく))が、今日のこの席の進行役を任されていると胸を張った。二十八、九(歳)になるはずだ。

 寄って来る人々の口に、江戸の医学事情を聞かれるのはもとよりだが、由甫さんは如何した、何故に一緒に帰郷しなかったと聞くのも当然だろう。

それで亮策さんが皆さんに何も話していないことが分かった。

 由甫さんの近況の一端を語ることは出来るが、私の口から杉田家の養嗣子になるとお話し出来ない。所用が有って帰郷が遅れたと応えるしかない。

 五つ半(午後九時)を回った頃に小田君が立ちあがり、ここで建部清庵先生からお言葉が有ります、とご案内をした。

宴の終わり時刻を予め設定していたのだろう。静まり返った座を見回した亮策さんは、自らのことの謝辞を述べ、今後、玄沢君の阿蘭陀医学に学ぼうと語り、次に由甫さんの慶事を伝えた。

途端に、おーっとか、本当か、本当か、誠か、誠かと座は一遍に騒々しくなった。

 医者たるもの、今や阿蘭陀医学を学ぶべきだとこの東奥(みちのく)にも知れ渡っている。解体新書を表して阿蘭陀医学の重要性を世に広く普及せしめた杉田玄白先生の養嗣子になると言うのは途方もない出来事だ。

 

 三代目建部清庵由水(亮策)先生の挨拶の途中だった。誰しも驚いた。慶事に湧いたあの喧騒の光景を今も覚えている。

この一週間は、雨は無けれど肌寒い日が続いている。そして今日、珍しく朝から青空が広がった。陽がさして暖かい。

   母が日頃の行いが良いから神様も味方したと言う。

本家に分家に清庵先生にも、結城、曽根、小田君等にもご参加を頂いた。造作してあるとはいえ狭い我が家での祝言だ。

今日、六月九日が二人の記念日になる。花嫁の(よし)殿を初めて見た。瓜実顔に目の大きな顔だ。

   朝餉とも昼餉とも分からない祝いの膳に酒だ。酒だ。何本もの大徳利,お銚子が並ぶ。朝早くから手伝いに来た本家や、親戚縁者、隣近所の女子衆の持ち寄ったお新香(白菜の漬物)も良い、沢庵も良い。気仙沼(港)で水揚げされた魚の焼物も刺身も良い。主食に餡子(あんこ)(もち)と餅の入った雑煮だ。

   花婿花嫁仲人を奥にして祝いの膳を囲んだ男衆の皆々がやがて酒に酔い、腹が満たされれば、酒に勢いを借りて祝いの歌に民謡が出る。

  清庵先生や友人達、親類の叔父達も隣近所の男衆も、神妙に聞くのは伯父の「高砂やこの浦舟に帆を上げて―」の時だけだ。

その後となると、のど自慢が座敷と雖も長持ち唄だ。そして、さんさ時雨や大漁節(大漁歌い込み)が出る時には座の後ろに控えていた女子衆も手を休め、座り、手拍子だ、酒だ。餅椀を口にする。

   花嫁、花婿は正に飾りだ。足が(しび)れても正座から逃げられない。仲人の伯父が足を崩せ、胡坐をかけと声をかけてくれるまでは我慢、我慢だ。吾は良いけど、吉は辛かろう。

   そして、夕餉にも、決まって祝いの餅椀が付く。椀の種類とて餡子(あんこ)餅に、じゅうね(えごま)餅、きな粉餅、辛味餅(大根おろし餅)、草餅(よもぎ餅)、雑煮餅等々ここぞとばかりに祝いの席に欠かせない餅が並ぶ。

   昼四つ(午前十時)頃に始まった宴の席は夜四つ(午後十時)過ぎにもなった。

「花嫁、花婿をそろそろ解放すんべ。花婿よ。本当に頑張ん(る)のはこれからだべ(ぞ)」

 近所の組頭の掛け声だ。半分下卑た言い方だが、それで周りが笑いに包まれる。男も女も笑う。

前にも誰かの祝言の席に耳にした、その意味を父に(ただ)したこともあるゆえ驚きもしない。

初夜の床を前にして、話しておかねばならない。

「来月にはお殿様のお供をして江戸に出る。先日に、江戸勤番を仰せつかった。己一人の随行で其方(そなた)をこの家に置いて行くことになる。

嫁に来たからには私に変わって父上、母上の面倒をよろしく頼む」

 恥じらいを見せて下を向いたままだった吉は、その言葉に反応して顔を上げた。目を見開いてもいる。

「はい。末永く宜しくお願いいたします。実の父上母上とも思ってお仕えいたします」

その言葉を聞くと急に愛しさが増した。肩を抱き、それから白地の着物を脱がせた。

 

 台所に立って背中を見せていた吉に、おはようと声を掛けた。少しばかり振り返ったけど首を上下して応えるだけだった。後ろから近づいて、痛かったかと聞いた。顔も見せず黙ったまま頷いた。

 震える肩を抱いて左胸に手を遣ると余計に身をすくめた。固くもあり暖かさもあり弾力もある乳房が私の右手の平にすっぽりと収まった。

 横たえると吉は両手で顔を覆った。薄い陰毛を目にしてそれから吉に覆いかぶさった。抵抗する両足の太ももを大きく割った。

 黒ずんだ血痕が今朝に布団の上の布に残されていた。処理するようその事を言うと、驚いたような顔で振り返り、小さな声で恥ずかしゅうございますと言った。 

 間違いない。女子のあそこに何やら膜がある。女体の構造を語る阿蘭陀医書にある通りだ。工藤殿に連れられて何度か行った吉原の女子(おなご)には無かった。月の物とは違う。まつ(・・)と初めて結ばれた時にも色鮮やかに血痕が布団に残された。

 女子のあそこにある膜、処女の女子の膜、そうか阿蘭陀語の訳語の一つになる。吉には初めて経験する女子の誰にもあることだと耳元で伝えた。

(阿蘭陀語のマージンブレス(maagdenvlies,)を大槻玄沢は嬢膜と訳した)